コンタクト

ともえ

 男が戸を開けると、メガネが机や壁一面にずらりと並んでいました。いくつかのメガネを試しにかけてみましたが、どうにもしっくりきませんでした。
「なにをお探しですか?」
 声のする方を向くと、度の入っていないメガネ越しにすらりとしたスーツ姿の男がにっこり笑っていました。
「すみません。メガネを探していて」
「おや、目を悪くされたのですか」
 男はメガネを元に戻しながらため息をつきました。
「いやはや、この歳になってから、視力ががた落ちしてしまって……くっきりとモノをみていたいなと思いまして」
「そうでしたか」
 ははは、と笑う店主。
「それでしたら、とっておきのものがございます」
 くるりと踵を返した店主は、店の奥から小さな箱を持って戻ってきました。
「なんですか、これ」
「コンタクトレンズでございます」
 店主はにっこりと笑い、箱の中身を開けました。赤い布地の上に、二つの小さなコンタクトレンズがきらりと光っていました。
「こちらのコンタクトレンズ、特殊な製法で作られておりまして、とてもよく見えるうえに、全く目が疲れないのでございます」
「ほう、そりゃすごい」
 さっそく、男はコンタクトレンズをつけてみました。ぼやけていた視界がくっきりと鮮明となり、まるで世界が変わったようでした。
「おお、こりゃすごい。くっきりはっきり見えるぞ」
「毎日のすすぎ洗いや、保存液も必要ありません。つけると、しばらくのあいだは外せませんがね」
「そんなことかまうもんか。つけていながら、まるでつけていないようだもの」
 店主に金を支払い、男は街に繰り出しました。見慣れた景色がまるで嘘のようにきらびやかに見え、男の心ははずみました。
 行きつけの洋食屋に入り、好物のオムライスをたのみました。運ばれてきたそれは、これまで見たどんなオムライスよりも鮮やかな黄色と赤色で、たいそう美味そうに見えました。銀のスプーンで一口食べると、そのとろけるような味に思わず口を綻ばせました。
「マスター、今日のオムライスになにか隠し味でも入れたのかい?」
「いいや、いつもどおりだよ」
「すごいなぁ。くっきり見えるとは、こんなによいものなんだな」
 ぱくぱくとオムライスを食べ終わると、男は皿のふちに小さなキズがあるのを見つけました。それは古いものなのか、すこし黒ずんでいました。
「おいおい。この皿、ふちが汚れているじゃないか。こんなに美味しいオムライスを作ってくれたのに、皿がこれじゃ台無しだよ」
「ややっ、これは失礼いたしました。次からは気をつけますので、どうかご勘弁を」
 頭を下げるマスターに代金を支払い、男は店を後にしました。マスターは給仕を呼びました。
「この皿のふち、汚れているように見えるか」
「ううん、よおく目を凝らせば見えないこともありませんが、気になりませんよ」
「だよなぁ」

 次の日、朝起きてふと朝食を用意する自分の妻を眺めていると、髪色が以前よりもくっきりと鮮やかに見えました。
「綺麗な髪だな」
 くるりと振り返った妻はほおを赤く染めました。
「あら、急にどうしたの。どんな風の吹き回し?」
「このあいだ、コンタクトレンズを買ったんだ。いろいろなものがくっきりと、鮮やかに見えるんだ。飯だって人間だってみんな綺麗に見える」
 手元のコーヒーは、その白い湯気とあでやかな黒色の濃淡がくっきりと見え、より香りがたつように思いました。
「ありがとう。今日はうんとごちそう作ってまってるわね」
 そう腕まくりをする妻の髪に、いくらかの白髪が混じっているのもくっきりと見えてしまいましたが、男はおほんとせき払いだけして仕事に向かいました。

 その日、向かいに座る取引先の男をじっと観察しました。すると、男のひたいにとても微量ではありますが、汗がにじむのを見ました。
「クーラー、すこし強めますね」
 取引先の男はたいそう驚きました。
「おお、よくわたしが暑がりなのを見抜いたね。たいしたもんだ」
 そのまま、男は大きな商談をものにしました。そのあと、くっきりと見える取引先の挙動を次々に観察し、たくさんの商談をものにしました。
「まるで、人が変わったようだ。細かいところによく気がつくようになった」
「ありがとうございます」
 上司の伸ばした右手を取ろうとしましたが、掌ににじんだ汗が目に入りました。すこし気になりましたが、男はそのまま上司の手を握り、かたく握手をしました。

 退社してから、男は駅のトイレに向かいました。しかしトイレの前までくると、とたんにそのドアがすこし古ぼけていることがくっきり見えてしまい、気になってしまいました。しかたなく、男はそのまま電車に乗りました。満員の車内で吊り革を持とうと手を伸ばしますが、吊り革についた小さなキズが黒ずんでいるのがくっきりと見えてしまい、手を引っこめました。
 がたん、と大きく電車が揺れました。ふんばることのできなかった男はそのまま体を大きく揺らし、体勢を崩して床に尻もちをつきました。尻をさすりながら床を見ると、一見綺麗に見えるクリーム色のところどころにできた小汚いシミがくっきりと目に入りました。男は念入りに尻をはたきました。
 最寄り駅に着くと、男はいそいでトイレに駆けこみました。先ほどのトイレよりもいくぶんか綺麗に見えましたので、ドアノブに手を伸ばそうとしましたが、やっぱり小さなキズや汚れが気になってしまいました。背に腹はかえられぬと、男は嫌悪感を抱きながらもドアノブを握り戸を開け、個室に入りました。
 ズボンを下ろし、便器に腰をかけて用を足す最中、眼前の戸の汚れが気になって気になってしかたがありませんでした。目を逸らそうとうつむくと、今度は床のタイルのてかりとぬめりが目に入り、ぞわぞわと鳥肌がたちました。個室を出ると、トイレの壁や床にあらゆる菌やウイルスがうごめいているのが見えました。悲鳴を上げながら、男はトイレを飛び出しました。

 男は自宅であるマンションの鍵を開け、ドアノブを握ろうとしましたが、ドアノブにあった無数の細かいキズに、小さな菌のようなものが蠢いているのが見えました。男は、懐からハンカチを出してドアノブに巻きつけてから中に入りました。
「おかえりなさい。ご飯、できてるわよ」
 エプロン姿の妻が小走りでこちらに向かってきました。男は、妻の肌に無数に空いている小さな毛穴や、そこから生えたうぶ毛がざわざわと揺れるさまがくっきりと見えました。にっこり笑う艶やかなくちびるの端の微細な裂傷や、朝のみそ汁のたべカス、そこに巣食う虫歯菌がぴょんぴょんと跳ねているのも見えました。男は青ざめました。
「なんてだらしのない女なんだ。ちゃんと顔を洗ったのか」
「もちろんよ。わたしが綺麗好きなのはあなたが一番よく知っているでしょう?」
「なにが綺麗好きだ。きたねえ肌しやがって。口にもたべカスがついているじゃないか。不潔にもほどがある」
 ずんずんと廊下を歩き、ドアノブにはハンカチを巻きつけてから戸を開けリビングに入ると、部屋のすみにたまった小さなゴミや乾いたごはんつぶ、冷蔵庫から舞う微細なほこりが鮮明に目に飛びこんできました。男は叫びました。
「なんだ、この汚い部屋は! すぐに、掃除をしろ! はやく!」
 ハンカチで口元をおさえながら、男は踵を返して風呂場に向かいましたが、小さなカビが床や壁中にうじゃうじゃといて、男は怒鳴りました。
「なんなんだ、これは!」
「なにを言っているの。お風呂場、今日掃除したばかりなのよ」
「こんなに汚くて、掃除したなんて言えるもんか! もっとちゃんと掃除してくれ!」
 家を飛び出した男は階段を降りようとしましたが、砂ぼこりがあちらこちらに舞っていました。あわててまたハンカチで口元を覆おうとしましたが、ハンカチの繊維の隙間にたくさんの菌やウイルスがうごめいているのを見て、ぎゃあとうめきながらハンカチを捨てました。戻り、服の袖を伸ばし被せるようにしてドアノブをひねると、身体中にほこりと菌をたくさんまとわせた妻が立っていました。金切り声をあげながら男は目をふさぎ、その場にうずくまりました。
「どうしたの。言われたとおり、お部屋と風呂場を掃除してきたのに」
「もう、もうたくさんだ。コンタクトレンズを、とってくれ。たのむ」
 ただならぬ男のようすにおっかなびっくりしながらも、妻は男のコンタクトを取ろうとしましたが、妻の指紋のすき間まで蠢めく細菌やウイルスが悪魔のような笑みを浮かべているのを見て、とっさに手を跳ねのけると、台所に走ってゆき、流しにあったフォークで男は両眼を突きさしつぶしてしまいました。
「ああ、まっ暗だ。なにも見えない」
 血と悲鳴のなかで、男はたいそう幸せそうにわらいました。

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