エクストリーム・アイロニングとは!
文字通りエクストリーム(極限)な条件の下でアイロン掛けを行うエクストリーム・スポーツの一つ!
山や崖の上、砂漠や雪原やジャングルのど真ん中、あるいは海の中へと到達し、平然とアイロン台を出して涼しい顔でアイロンがけを行うことが、このスポーツの基本である。
求められるのは、舞台となる場所までアイロンなどの道具一式を携行して到達する体力と技術。そして、極限状況であっても平然とアイロンをかけられる精神的強さ。
エクストリーム・スポーツの“動”の興奮と、アイロン掛けという”静”の要素が組み合わさった、精神と肉体の両方に活力をもたらす競技である。
始まりは1990年代後半に、イギリスのロッククライマーで「スチーム」の異名を持つフィル・ショー氏が自宅の裏庭でアイロンのかけ方を工夫していた時、ルームメイトに何しているのかと尋ねられた際に「エクストリーム・アイロニング」と答えたことから、このスポーツは誕生した。ショー氏は1999年6月に蒸気が出るほどに奮起し、このスポーツを広めるための世界遠征に旅立った。そして、エクストリーム・アイロニング事務局と、エクストリーム・アイロニング・ドイツ支部が設立されることになり、2002年には世界大会が開催され、その後も定期的に続けられている。
エベレストのベースキャンプ(標高5000m)でも、タンザニアのキリマンジャロの頂上(標高5859m)でも、アルゼンチンのアコンカグアの頂上(標高6959m)でもアイロンがけが行われた。
南極の流氷の上、グランドキャニオンの上、深度100mの海中、火災で寸断された道路の上、垂直の断崖にロープでへばりつきながら、峡谷に渡されたロープにぶら下がりながら、洞窟の中で、紛争地域のど真ん中で、戦車の上などでもアイロンが掛けられている。エクストリームな場所だけでなく、スキーをしながら、馬に乗りながら、ジェットスキーをしながら、タクシーに引っ張られながら、スカイダイビングしながら、パラグライダーに乗りながらなど、エクストリームな状況でアイロンをかける競技者もいる。ロンドンマラソンで道具一式を背負って参加し、道中で持ってきた衣類のしわをきっちり伸ばしつつ、42.195㎞を完走した猛者も存在するのだ。
日本でも2004年に支部が設立された。2006年7月には、支部の代表である松澤等氏が、25㎏の発電機と火事で愛用しているアイロンのセットを背負って富士山に単独登頂し、世界初の富士山頂アイロニングを成功させている。
指示された目的地へとローバーを走らせる誠の横で滔々と述べると、秋子はいったん言葉を切った。
「そういうわけなのよ」
「何がそういうわけなんですか」
秋子から話を聞かされても、まことにとっては何やらすごい話ですねとしか反応できない。世の中には変わり者が多数いるが、そこまで気合いが入った変わり者連中は珍しい。
「世の中にはそういう熱いスポーツがあるってこと。そんでもって、私もアイロニストなのよ」
「あー……。つまり、南極最高峰に登ったり、ウユニ塩湖を横断したりしたのは、アイロンを掛けるためだったと」
「その通り」
なんのこっちゃと思いながら、誠はローバーを運転し続けた。起伏がない道を選んではいるが、岩が転がっていないとも限らない。もしも横転したときに、始末書にどう書くことになるのだろうか。アイロン掛けのために外出した際、不注意で岩に接触。おそらく、NUT社どころか火星に進出した企業すべてにとって”注目する事例”になることだろう。
「まあ、今までいろんな人がいろんな場所でアイロンを掛けてきたし、私もいろいろやったわけだけど、地球外でってのは基本ないわけよ。少なくとも知られている限りだと」
「当たり前でしょ」
宇宙開発が始まってから今日に至るまで、宇宙にアイロン当てが必要な服を持って来た奴などは聞いたことがない。
「で、私が世界初の地球外アイロニストになるの。そこの岩山のふもとで停めて」
左斜め前方に、忘れ去られたように立つ小さな岩山がある。高さは10mほどだ。ふもとで停めると、秋子はローバーから降りて、荷台から荷物を取り出した。一抱えほどある耐熱バッグだ。
「あの上がいいわね。基地も見えるし」
「僕も行くんですか」
「偉業を成すなら、それを撮影してくれる人がいないと」
何が偉業なんだよと心の中で突っ込む誠を尻目に、秋子は岩山を登り始めた。地球で山登りをしていたのは伊達ではないらしく、荷物を持ったまま軽々と登っていく。荷物を持てと言わずに自分で持っていくのは、“アイロニスト”とやらのルールなのだろう。
ほどなくして岩山の頂上に着いた。遠くにNUT社火星基地本部の姿が見える。居住施設はほぼ地下にあるが、産業や運送に関わる施設は表に出ているので、かなりはっきりとその姿が見て取れる。岩山の上を選んだのは、あれを背景に入れたかったのだと、誠は理解した。
「まずセッティングするわね」
そう言って、秋子はバッグの中から次々と道具を引っ張り出した。一人用の折り畳みテーブルを出して、防護シートをテーブルクロスのように被せる。密封されたパウチを取り出し、中から(地球でなら)普通のブラウスを引っ張り出してテーブルに置く。その隣に灰色のプラスチックフィルムのようなシートを置いた。そしてまごうことなきコードレスアイロン。最後にハンディカムを出して、誠に手渡してきた。
「私とアイロン台全部が映って、基地が背景に入るアングルで撮って」
この人正気か……。口には出さないでハンディカムを起動すると、ヘルメットのバイザーの端にウィンドウがポップアップし、カメラの画像がリンクされた。火星の大地、宇宙服、そしてアイロン台。冗談としか思えないシュールな光景だ。映っているのが小川秋子でなければ、合成か何かだと思っただろう。
火星開拓史上において、おそらくもっとも意味がない記録撮影が始まった。
「皆さんこんにちは。日本出身のアイロニスト、小川秋子と言います。NUT社火星支局本部基地で、バイオマス生産研究部門の上級研究員をしています。ここは火星のアキダリア平原に置かれたNUT社火星本部基地から、1㎞ほど離れた岩山です」
そう言って、後ろにある基地の方を指さして見せる。
「今日は風もなくて良い天気なので、外に出てきました。まあ、火星で曇りになるほど雲が生じる日なんてないですが、少なくともダストは舞っていません。地球ならお洗濯日和です。火星では野外に洗濯物を干すと、あっという間にフリーズドライになりますが。現在、気温はマイナス23℃。湿度は当然0%です」
誠がハンディカムの画像を見ると、ちゃんと気温がレコードされていた。秋子の言葉通りの温度で、火星にしてはそこそこ温かい。
「アイロンは地球から私物を持参しました。火星の環境に合わせて、ちょっと改造しています」
そう言って手にしたアイロンをカメラに向けて掲げた。どこにでもありそうな普通の家庭用コードレスアイロンに見えるが、ところどころにはんだ付けの跡があったりパテが盛られていたり、何か不自然な部品が付けられたりしている。
「クッソ寒い火星でもばっちり熱くなるように、出力をかなり強化しています。スペシャル改造です。良い子はマネしてはいけません。寒いとバッテリーがうまく働かないので、そっちも極低温対応の全固体電池に交換しています」
続いて、取っ手と一体化している水のタンクを取り外して見せる。
「元はスチームアイロンですが、スチームの機能は使いません。というか使えません。水タンクは空です」
タンクを戻し、今度はアイロン台を指さす。
「アイロン台は借用してきた折り畳み式の台です。上に防護シートをかぶせて使います」
シートの上に置かれたブラウスを手に持って広げた。
「アイロンを掛けるために、地球からブラウスを持ってきました。ずっとしまっていたので、しわと折り目がついちゃってます」
ブラウスを広げると、折り目以外にくっきりとしわが付いている。体積を減らすために真空パックしていたことが原因らしい。
「アイロンって、原理的には熱だけでも十分なんですよね。熱で繊維の分子間力を弱めて、そこに重しをかけてまっすぐにするわけですから。ただ個人的には、やっぱり霧吹きなりスチームなりがあった方がいい感じなんですね。ただ、火星だとスチームとか霧吹き使おうにも、気圧がゼロだから服にかける前から沸騰して、0℃以下のまま水蒸気になっちゃう。服は一切湿らない。そこで発想を変えました」
ジャジャン。そう言って灰色の薄いシートを掲げて見せる。
「これは植物を育てる水を土壌に固定するために、3か月ほど前に開発した素材から作ったフィルムです。熱を加えると二酸化炭素と窒素、水に分解されます。素作ってはみたけどそれほどいい使い道が見つからなかったんで、お蔵入りになっていました。これを水の供給源にします。それでは、アイロン掛けスタートです」
台にシートを敷いて上にブラウスを広げ、改造されたアイロンを起動した。少し経って十分な温度に達したらしく、ダイヤルを切り替えてブラウスにアイロンを当て始めた。
「方法は地球と同じです。細かい部分から広い部分に。ただし、アイロンは超熱くなっている上に、温度が下がるのもめちゃ速いです。高分子シートもすぐに気体になってしまうので、スピード感が重要です」
アイロンが当てられた場所の下に敷かれているシートが、すぐに白くなって溶けるように消えていく。
「まずはえり。えりを引っ張って伸ばしながら、端から中央にむかって滑らせるようにかけます。内側をかけ終わったらひっくり返し、こんどは反対からも掛けます」
そういいつつ、ガシガシとアイロンを掛けていく。宇宙服姿でアイロンを掛ける女。これは笑うべきなのか称賛するべきなのか、誠には判断が付きかねた。
「お次は肩。角の丸い部分にかけながらやると、キレイに出来ます。このために、台も角が丸い奴を選びました」
左右の方にそれぞれアイロンを当て、えりと肩の境目にも当てる。それが終わると、ボタンがある側を上にして袖を広げた。
「袖は内と外の両方にかけます。終わったら、袖口から肩にかけて滑らせる」
袖口に改造アイロンの先端を当てて丁寧にしわを伸ばすと、今度は肩にかけて大胆にアイロンを滑らせる。
「最後は胴体。右前側を上にしてアイロン台に沿わせるように置き、細部から広い部分へ。次に後ろ、最後は左です」
言葉通り、ブラウスの位置を変え、下に敷くシートも交換しながらアイロンを当てていった。
「これで完成! 火星の屋外でもアイロンがけが出来ました。ちゃんとしわも消えています」
ブラウスを自慢げに広げて見せる。確かにしわが消えている。そしてそれが何なんだと言ってしまえばそれまでだ。本当に意味が分からない。
「地球のアイロニストの皆様も、エクストリーム・アイロニングの可能性を突き詰めていきましょう。これほどハードな旅の先にも、アイロン掛けの落ち着いた世界を見出すことができます。それではまた~」
この動画のデータは、補給船が地球に戻るときにホームビデオの一つとしてドライブにレコードされた。地球でどう受け取られているのかは、誠には分からない。少なくとも、秋子が属している特殊な界隈では話題となっているのだろう。
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