アイロン掛けは2万7000m上で

 採掘施設の建設管理に派遣される2か月ほど前のことだった。その時は、まだNUT火星支社の本部にいた。ここに住んでいる社員は800人ほど。火星に進出した企業の施設の中では、規模はかなり大きい。
 普段は施設を維持・メンテナンスする作業用ロボットの保守管理を担当しているが、この日は非番で、休憩室で本を読み漁って時間を過ごしていた。
 火星に来て、本、映画、あるいは音楽のどれかにハマる者は多い。何しろインターネットは使い物にならないのだ。地球と通信しようとすると、最も近づいているときでも往復6.5分、最も離れているときでは44分の時間がかかる。太陽が間に入っているときは、人工”惑星”を経由させて迂回させないと通信できないので、2時間越えになることもある。
 ブラウザを起動したり、リンクボタンを押したりするたび何分もかかるようでは、快適なインターネットライフなどできるわけもない。
 マンガやアニメもかなり人気があるが、地球で次の話が出ても火星に届くまでは時間がかかる。通信帯域も限界があるので、それぞれの娯楽のために割ける量は大きくない。後は地球からの補給の時に、データもまとめて持ってくるための数百ペタバイト級ドライブも来る。そこの片隅にでも潜り込ませてもらう手もあるが、補給もそんなにしょっちゅう来るわけでもない。
 最終的に、昔から親しまれてきた名作にたどり着く者が出てくる。施設の光ホログラフィックサーバーには、国立図書館並みの書籍と映画、音楽のデータが納められている。職員はそれを自由に閲覧することができる。火星での娯楽の少なさは、必然的に巨大な仮想図書館の利用者を増やすことになっている。
 誠もその一人だった。読書は火星に来る前から好きだったが、こちらに来てからはより古い作品にも手を出すようになった。アーサー・C・クラークもラリー・ニーヴンも一通り読んで、ジェイムズ・ホーガンもかなり読んでいる。
 最近になってはまったのは、アレクサンドル・デュマだ。つい先日にモンテ・クリスト伯を読み終わり、三銃士のシリーズを読み始めたばかりだった。今はちょうどダルタニアンがイギリスに渡ろうとしている。
 ここまでの道のりの路銀ってどんなものかな? そう思いつつ電子ペーパーのページをめくろうとしたとき、誠の前に小柄な影が立ちはだかった。
 相手が誰かはすぐに分かった。バイオマス生産研究部門の上級研究員、小川秋子。誠は目を上げないように努めたが、やはり意味はなかった。
「誠ちゃん、今暇でしょ?」
「暇じゃないです。本読んでます」
 誠は目を上げないまま即答した。秋子からの“お誘い”に乗っても良いことはない。
 同じ日本人で、偶然にも大学が同じであったということから知り合いになった。仕事ではそれほど関わることはないものの、食堂で一緒に食事をするぐらいの間柄になっている。ことあるごとに話しかけられ、そのたびにいいように使われている節がある。秋子によると“弟に似ているから話しかけやすい”らしい。彼女の弟はおそらくひどく苦労させられてきたことだろう。
 誠がすげなく拒否して見せても、秋子は動こうとはしない。
「なら私とデートに行きましょう」
「人の話聞いてるんですか、あんたは」
 言い訳を却下した上での言葉なのか、本当に話を聞いていないのかが理解できない。いずれにしても、こちらの都合は無視する意向らしい。
「きれいな女性にデートに誘われて、うれしく思わないなんてねぇ」
「“普通の”美人ならうれしいですがね……」
「私が普通じゃないって?」
「自分が普通だと思ってるんですか?」
「いやまあ、私ぐらいいろいろなことが出来る才媛はなかなかいないだろうから、普通とは言えないかな」
「ポジティブすぎる」
 確かに、秋子は美人の部類に入る。整った顔立ち、きれいな柳眉、黒曜石のような瞳を持つアーモンド形の目、ふっくらした桜色の唇、豊かでつやのある黒髪。大和撫子を地で行くような見た目をしている。
 才能の面でも並の秀才をはるかにしのぐ。20代前半の時点で博士号を2つ得て、企業からは名指しでスカウトを受け、火星においては生物資源生産に関する発明と発見をいくつも成し遂げている。
 才色兼備とはまさに彼女のことかと考え、言い寄ろうとする男も少なくないが、その思いが実ることはない。
 ブッチギリの変人だから。
 余りある才能を自分のしょうもない欲望と思いつきのためにフル活用する。
 柳川鍋を食べる目的で実験用ドジョウの養殖効率を上げ、(自分の足の裏から)コウジカビを採取して味噌を作る。実験用のイモリやメダカの遺伝子を組み替えて、カラフルな観賞用の新品種を作って、アクアリウムを作ることもやった。サツマイモを植えようとしたときに実験農場の面積が足りなないと言われると、栄養素も同時に保持できる高分子吸収体を開発し、それを天井にセットしてサツマイモを植えて育てた。かなり好き放題をやっている。
 現在は火星における緑化とバイオマス燃料生産に使える植物についての研究と、限られた空間での継続的食糧生産についての研究に従事している。前者では竹を候補の一つとして選んで実験しているようだが、その理由には成長が早いということ以外に、火星でタケノコが食べられたら面白いだろうなという考えが入っているであろうことは想像に難くない。
 仕事についても、自分の思い付きを実行に移すための環境を得る口実としか思っていないに違いない。仕事をしているのではなく、仕事を利用して遊んでいる。
「とりあえず、“普通じゃない美人”の私のために、ちょっと車を出してほしいのよ」
「……嫌ですって言ったら?」
「一昨日に来た補給のデータドライブ。あのアプリってドライブの中には上手に隠していたみたいだけれど、受け取った側の隠し方が下手だと簡単にばれるわ。友達に忠告しておいた方がいいわよ」
 それを聞いた誠は硬直した。いったいどうやって知ったんだ? 今回に限らず弱みは握られているが、まさか新たに簡単につかまれるとは思っていなかった。
 秋子が仕事を利用して遊んでいられるのも、会社の利益につながる業績を多数上げているだけでなく、いろいろな人の知られたくない秘密をたくさん握っていることが理由だ。
「それじゃあ、外に出る準備して、10分後に操車場に来てね」
 かわいらしく、尚且つ毒を含んだ笑みを浮かべ、秋子は軽やかに去っていった。誠には従う以外の道は残されていなかった。

 誠は秋子に“命じられた”とおり、宇宙服と生命維持装置を装着し終わると、操車場へと向かった。秋子は先に来ており、ニコニコと笑いながら手を振ってくる。これが意中の人であれば幸せな瞬間になるだろうが、自分を脅迫してきた変人であると考えると、げんなりするしかない。
「悪いけど2番のローバーを申請して来て。荷物積んどくから」
 そう言って、2層の立体駐車場に停められているローバーの一つを指さす。地球で使われているサンドバギーとよく似た車で、キャビンがないので乗るには宇宙服を着る必要がある。
 車を借りるための申請端末のところまで行くと、操車場の管理官が目ざとく見つけて声を掛けてきた。
「おや? 美人さんとデートか?」
「あの人との“デート”は無料運転手を意味します」
 誠の言葉に、管理官は声を上げて笑った。秋子の才能と変人ぶりは、この基地で働いている者であれば大抵は知っている。知らなければそれは新入りか、離れた部署の人間かの二択だ。
「おっさんにこき使われるよりゃいいじゃないか」
「変な人の変な思い付きに巻き込まれる方も、いい加減怖いですよ」
「あのお嬢さんと仲良くしていたら、いろいろと便利なんじゃないのか?」
「仲良くしていないとひどい目に遭いますね」
 管理官はまた笑い、手続きを終えた誠の背に、若いモン同士楽しんで来いと声をかけた。あのおっさんは何か勘違いしていないかと思ったが、ややこしくなるのでやめておくことにした。
 ローバーのところに行くと、秋子はすでに荷物を積み終えて、当然のように助手席に座っていた。誠も運転席に座って認証パネルに手を当てると、ロックが解除されてバッテリーが起動する。そのまま車両用エアロックへと入り、外に出るために空気が排出されるのを待つ。
「で、何しに行くんです?」
 排出完了の音声と共に外に続くドアが開くのを見ながら誠が聞くと、秋子はバイザーの向こうでにこやかな笑みを見せた。
「アイロン掛けに行くの」

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