アイロン掛けは2万7000m上で

氷川省吾

 1日の仕事が終わった夕方。長池誠はジム代わりに使われている倉庫でトレッドミルを動かしていた。腕立て伏せやスクワット、レンジなどの各種運動を行った後、ベルトコンベアの上で毎日5km走ることにしている。
 運動をしている間は、手足に砂鉄入りのバンドを取り付け、背中には石を詰め込んだリュックサックを背負っている。総重量は体重の約1.5倍にもなるが、誠にとってはこれが普通のことだった。
 隣では同僚のアレックス・ボーンがサンドバッグを殴りまくっている。標準的なインファイトボクシングのスタイルで、ジャブやストレート、フックを織り交ぜ、フットワークで左右に動き回りながら打撃を続けている。彼の手足にも重りが付けられ、体の前と後ろに石入りのバッグを括り付けているが、動きは普通のボクサーのそれと変わらない。
 10分ほど前にウェイトリフティングに使っていたバーベルの両端には、Lサイズピザほどもある厚さ3㎝の重りが2つずつ付いているが、誠を含めて誰もが持ちあげることが出来た。
何しろ、ここは火星。重力は地球の4割しかないのだから。

 2035年に人類が初めて火星の土を踏んでから、世界各国の企業は勢い込んで資源を求め、一躍火星を目指した。月でヘリウム3と氷を採掘したノウハウを、今度は火星で応用したのだ。ここで足場を固めれば、小惑星帯で氷、各種金属、希少土類を採掘するための拠点を作ることもできる。
 誠が就職したNUT社もそうした企業の一つだ。エネルギー事業が中心で、土に含まれる過塩素酸塩や地中からのメタンを利用して、ロケットのプラズマ推進エンジンや燃料電池など、いろいろな機械の燃料を製造している。規模が大きいので、それ以外の開発業務も積極的に行っている。
 誠らの仕事はメタン採掘源になるポイントでの採掘場建設。建設そのものは運ばれてきたモジュールをロボットが接合するだけなので、誠たちはそれを監督しつつ、ロボットが送ってきたデータを基に計画や設定を調節するのが仕事だ。
 土木現場ではないので肉体労働はないが、それでも運動は義務付けられている。
 地球外で働く者には体力が重要だ。初期の宇宙飛行士たちは、全員が軍人か元軍人ばかりだった。過酷な打ち上げに耐えて、緊急時にも冷静に対応できる判断力が最重要視されていた。
 技術が進歩するにつれて、科学者・技術者としてのスキルの重要度が増したが、やはり一定以上の体力は必要になる。
 狭苦しい宇宙ステーションや基地の内部の中で何か月もすごし、緊急時には即座に適切に対処できるようにしておかなくてはいけない。外は水どころか空気すらなく、有害な宇宙放射線が地球の何倍もの強さで飛びまくっている。病弱な身ではやっていられるわけがない。
 ただ、体力が必要な理由はそれだけではない。宇宙ではものすごい勢いで、体が“鈍る”。猛スピードで劣化していくのだ。
 体を支える必要がなくなった骨からは急激にカルシウムが溶けだしてやせ細る。宇宙に10か月もいれば、骨の状態は45年分ほど老化したのと同じ状態になる。
 体を動かす負担も減るために筋肉も委縮し、結合組織が減って衰える。血を体の上に押し上げる力も必要ないので心臓も力を弱め、おまけになぜか赤血球の数まで減っていく。無重力状態は体の負担を減らすどころか、とんでもない悪影響ばかりもたらす。
 血や体液が体の上の方まで上がってくるせいで、顔がむくんで鼻が詰まり、しょっちゅうトイレにもいきたくなって、免疫力が落ちて風邪にもかかりやすくなる。
 宇宙はどこまでも人間にやさしくない。
 体の劣化を少しでも遅らせるため、宇宙飛行士は毎日3~4時間を運動に費やす。ナノマシンや各種のスマート薬剤で昔よりも体の劣化を押しとどめやすくなったとはいえ、宇宙飛行士の運動時間は変化していない。
 何かあればあっという間に死にかねない狭苦しい環境下で、鼻づまりや顔のむくみ、無重力による宇宙酔いに悩まされながら仕事をこなしつつ、起きている時間の4分の1を運動に費やすのだ。体力がなければやっていけるわけがない。
 誠たちは宇宙“飛行士”ではないが、やはり仕事は地球でのそれ以上に体力が基本になる。
宇宙空間と違って少しは重力があるが、それも地球の4割だ。体の重さの1.5倍の重りをつけなければ、地球にいる時と同じ効果が得られない。
 火星で仕事をしている人間が腕立て伏せをしたりダンベルを上げたりする姿は、アレックス曰く「少年誌のバトル漫画の修行シーン」のような有様を呈することになる。

「痛たたたた! 無理無理無理無理!」
 ヨガマットの上では、食料生産管理担当の小川秋子が喚き声をあげていた。両足の裏を合わせて座った状態から上体を前に倒そうとしているが、角度は45度で止まっている。
「はいはーい。呼吸は止めなーい。首は前に倒さなーい。何より喚かなーい」
 資源採掘の専門家であるシアン・メイが、対照的なのんびりした様子で声をかける。メイは秋子の上に乗ってそれぞれの足で秋子の膝を踏み、体重をかけて彼女の上体を下に押していた。乗っているのが女性で重力も弱いとはいえども十分な力がかかっているはずだが、秋子の上体はそこから前に倒れて行かない。
 しばらくしても成果が出ず、メイが上から退くと、秋子は後ろに倒れこんだ。
「スープレックスがしたいんだよぉ。前に曲がらなくてもいいじゃん」
 ぼやく秋子の後ろで、メイは体を前に倒して胸が膝につくまで前屈した。両手のひらが完全に床についている。
「秋子の場合、前後関係なしに全体が固すぎんのよ。体幹と太ももの柔軟性がもっとないと、また後頭部で床にキスする羽目になるわよ」
 今から1週間ほど前に、秋子はサンドバッグにジャーマンスープレックスをかけようとして、後頭部からマットに激突した挙句にサンドバッグに押しつぶされる羽目に陥った。本人によれば、「6代目タイガーマスクのファンだった+重力が4割なのでよい機会だと思った」らしい。
 体重もサンドバッグの重さも4割だったために怪我もなかったが、「固すぎる」とのことで運動の際はメイの指導による柔軟がメニューに加えられることになった。メイは高校と大学で体操をしていたらしく、足を上げて足の裏でコップを立てて中の水をこぼさないようにできるし、1G環境下――つまりは地球でもバック宙ができる。
「はい、次は足伸ばして座って。長座体前屈」
「これって靱帯切れたら労災下りるの?」
 いやいやながらもメイの言う通りに座った秋子がぼやく。NUTに限らず宇宙に進出する企業の給料はかなりいいし、福利も充実している。通販もネットもろくに使えない上に、一歩間違えれば即死する仕事なので、妥当と言えば妥当だ。些細なことでも人の命どころか施設一つが壊滅するような事態にもつながりかねない。そのため、従業員の怪我についてはかなり注意が払われている。
「この程度で切れたりしないわよ。そんなに無理に押してないしね。第一、筋肉が固すぎて切れるほど伸びない」
「運動中のケガだったら労災下りますけど、スープレックスし損なって頭かち割っても、下りないのは確実だと思います」
 ランニングを終えた誠が横から口を挟むと、秋子は嫌そうな顔をして誠を睨んだ。それを無視して、誠はトレッドミルのカウンターを見た。5㎞を表示したところで。速度を緩やかにして歩行モードにする。50mほど歩くと、やがて息が整ってきた。
 誠の場合、地球では毎日走っていれば1か月ぐらいで苦痛ではなくなってくるが、火星では体が順応するのが遅い。鈍るスピードがかなり速いために、トレーニングの効果が出にくいのだ。火星でのトレーニングの目的は、体を鍛えるのではなく、衰えるスピードを押しとどめることにある。いつまでたっても慣れないのは仕方がないのかもしれない。
 それに対し、体の固さは重力には関係ないと思うのだが、秋子が前屈出来る角度が深くなった様子は見えない。
「呼吸は止めないでー。ゆっくり、深く吐いてー」
「ぬうぉおおおぅあああ」
 夢の中で聞いたらうなされそうな声で呻きつつ、秋子が体を前に倒そうとする。そちらを見ないようにしながら、誠はトレッドミルを降りて重りを外した。地球だと持ち上げることもできない代物なのだが、火星ではそうでもない。
 片付けて戻ろうとしたとき、誠の耳に無線の呼び出し音が鳴った。耳にかけている通信用端末が、骨を振動させて音声を内耳まで届けてくれる。
『建設エリアで警告灯が点いた。アレックス、誠、エラーログを送るから見てくれ。勤務時間外に悪いな』
 管制室にいる班長のジャックからの通信だった。
 誠は勤務服を入れているかごを漁って、支給されているスマートグラスをかけた。通信端末が受信したログがARで眼前に表示される。
 目の前に浮かぶ存在しない画面をスクロールして、エラーの内容を読んでいく。どうやら物理的な障害でマニピュレーターの一つが停止したようだ。
 いつの間にか横に来たアレックスも、グラスを装着して同じ物を読んでいた。
「こりゃ実際に行ってみねえと分からんな。面倒くさいな」
「ちょっとばかりお出かけだね。残業代付くよ」
「トラブルがややこしくないといいけれどな」
 誠はARを操作して、通信を管制につないだ。
「ログを見ました。アレックスと現地に行って確認します」
『了解。勤務時間外労働ってことで付けておく。それじゃあ頼んだ』

コメント