氷川省吾
少し前まで、私は車から出る音の解析をする仕事をしていた。もう少し細かく言うなら、車のホーン、いわゆるクラクションの音が、前方にどう広がっていくかをシミュレーションする業務だ。法律では、クラクションを鳴らしたときに、7m先に一定以上の大きさで音が届かないといけないと決まっている。シミュレーションであらかじめ予測ができれば、実物を作り直して実験するよりも安上がりで圧倒的に早い。
設計用CADモデルを基にして解析用モデルを作り、いろいろなパラメーターを設定してやってからコンピューターに計算させると、音がどのように伝わっていくかの分布図が算出される。出てくる結果は、音圧が高い場所は赤く、低い場所は低く表示される。サーモグラフィーで表示された風景や、深さごとに色分けされた海底地形図のようにも見える。
車の形や内部部品、搭載するホーンによって音の広がりは変化するが、いくつもやっていけばおおよその予想ができるようになる。あまりに変な結果が出れば、どこかがおかしいのでチェックしてやり直しだ。ほぼ確実に人間側のミスなので、原因を追究して対策すれば何とかなる。
ただ、一度だけどうしても説明がつかないことがあった。
その時、私は2種類の車の音響解析をやっていた。同じ車種の車だが、エンジンの種類が違う。ホーン周辺ある部品の形状が違うので、結果に微妙に差が出る。
その日は週末で、就業時間は終わっていたがせめて結果だけは見ておこうと、少しだけ残業をすることにした。皆が帰ってしまってから30分ほどで1台目の結果が出た。特に問題がないのを確かめ、報告書の下地だけ用意する。10分ほどして、別のマシンに計算させていたハイブリッドの方も出た。
さてどんなもんかとみてみた私は、眉をひそめることになった。明らかに分布図がおかしい。普通は全体に横縞のような強弱のパターンがあり、ホーン正面――車の正面中央からやや右左のどちらかに固有のパターンが現れる。最初の分布図はそんな形をしていたが、次の分布図には最初の物にはなかった、正面から見て左下に大きな円形の音圧が高い場所が出来ていた。
はておかしいなと思い、解析の設定や車両のモデル、プログラムを全部見直してみたが、おかしなところは何もない。こうした物がおかしい場合は全体が変になるものだが、このごく一部だけというのは考え難い。先輩がいれば相談できるのだが、あいにく帰ってしまっている。
もう一度分布図を見ると、何か違和感を覚えた。音圧が高い場所が少し動いている気がする。そして、円の右端に、音圧の低い小さなスポットが出来ていた。赤い円の端に青い点が目のようについたような見た目だ。週末の残業ということで疲れて見逃したのかと思って、車の内部における音の反射の様子を見てみた。以前にも、部品の幅が3cm違うだけで結果に大きな差が出たことがあった。原因があれば、その部品の周囲だけ音が変化するので判別できる。
じっくりと探してみたが、ガソリン車とハイブリッドで変わっている点はない。さてどうしたもんかと思い、とりあえずもう一度計算してみることにした。計算させた方のコンピューターがおかしかったのかもしれないので、最初の計算を行った方のマシンで計算させてみる。放っておけば結果が出るので、休み明けに確認してみればいい。その時は先輩に相談ができるだろう。
それにしても妙だなと思って分布図を再び見ると、私は自分の目を疑った。分布図が変化している。赤い丸の位置が2m分ほど移動し、青い音圧の低い部分が錨マークのような形になっていた。いや、錨ではなく、目、鼻、そして両端が吊り上がった口……。最初にあった丸いものが人の頭で、それが移動しながらこちらを振り返ってきたかのように。
水を浴びせられた時のように背筋が冷えるのを感じながら、車両内部の分布図を見ると、そこには同じものがびっしりと並んでいた。車のモデル内部の音の反射を表す図に、大量の顔が浮き出ていた。赤い丸に、青色で表示された目鼻。口はどれも端が吊り上がり、にやにやとした笑いを浮かべている。それがゴキブリのごとく、車両内部にひしめいている。
全身に一気に鳥肌が立ち、私は即座にウィンドウを閉じた。吐き気にも似た恐怖にとらわれて解析データを削除して、すぐに職場を飛び出した。家に帰るまでの間、とにかく怖くて仕方がなかった。休日の間はパソコンを触らず、テレビもスマートフォンも、画面を見ることができなかった。
休み明けは自分の端末を起動するのが嫌で仕方がなかったが、恐れていたようなことはなかった。解析の結果は、本来の予想通り特に変なところはなかった。疲れて変なものを見たのだと自分に言い聞かせ、いったんトイレへと席を立った。用を足して手を洗っているとき、鏡に映った自分を見た私は、週末のことを思い出した。
分布図に表れたあの顔は、私の物だった。
コメント