『あー、イライラする。ダメだ。私はああはなれない』
『存在とは何か。求めるほどに意味付けは無駄となる』
『彼も私もある意味で同一。すべてが予定調和に消えゆく意志であるとしたら……。 This is the Bad end to BLUE.』
『金縛りがつらい。つらすぎるよ……何なんだよ、誰か私に恨みでもあるのかっ!』
『Since I’ve been loving you. この狂おしい気持ちをどうしてくれよう』
『だいぶ落ち着いたみたい。一定のリズムを刻む鼓動にこれ以上の刺激はいらない』
『今日も雨。肩を覆う睡魔が私を甘やかす』
『自分らしさって何?そんな単純な問いに私はとまどう』
『裏切られるってことは信じていたことになるのか?』
『記憶も記録も、この世から消えてしまいたい……。もう全部忘れて欲しい』
『偽りの私、シニカルな私、ロマンチックな私、私のことを嫌いな私、私大好きな私、みんな私、鬱陶しくて愛おしい私自身だ。誰とも分かちあえない。私は彼を、私自身ほどに愛せない。そんな利己の中に生きている。寂しい。辛い』
『夏に思い出す記憶はいつだってこんな光景だ。居眠りするクラスメート達を尻目に溜め息をつく。どこか蔑んだ目をした私。しけた顔をして窓際の私はいつも外を見ていた。まどろむ私。私は夢を見た』
『生温かい雨の残像に空と地表の近さを感じる。誰もいないあのグラウンドでその水滴を受け止めたい。今あそこに飛び出して沢山泣けたら、すべてをかき消して、すべてを洗い流してくれる。そんな気がする』
『四季って素晴らしい。その移り変わりを窓越しに感じている』
『夏という季節が好きだ。梅雨空は初夏の予感を運んでくる。じめじめとした部屋は鬱陶しい。けれど、ふと晴れ間に見る空の色が好き。夏か、まるで私らしくない』
『後ろ髪を引かれる想いのまま今日も私は一人きり。今年もこの季節が過ぎてゆくね、さよなら、Sunny Summer Days.』
表紙には「保健室・心のノート」と書いてあった。サラは保健室の物品を私物化していたのか。
僕はノートを閉じ、少し躊躇ってから自分のカバンにしまった。
やれやれと溜め息をつく。サラは結局自分にしか興味がなかったのだろうか。
あれから半年あまりが過ぎた。
あの日、ホシノは地上約十メートルの屋上から飛び降りた。奇跡的に命は助かったらしいが、それ以来ホシノの姿を見かけていない。それが身体的なものなのか処分によるものなのか、そこら辺もまったく分からなかった。
サラは夏休み明けから学校にほとんど来なくなった。僕はサラの進級が難しそうだということを職員室付近で立ち聞きした。話していたのは担任と学年主任だった。
担任と目が合いそうになったので、僕は逃げるように教室に戻った。ホシノの件以来、僕は担任と対峙するような場面をひどく恐れていた。勿論、僕が何かしたわけではないが彼が僕に対して良い印象を持っていないことだけは確かだろう。
僕が最後にサラと話したのは、たしか九月の末頃だった。
「ごめん」
「何のこと?」
「誘ってくれたのに、行けなくて」
一瞬サラは考え込んで、反芻するように答えた。
「いいよ、前のことなんて、いいの」
それから、僕が聞きたかったことをサラの方から質問してきた。
「ホシノ君がどうなったか知ってる?」
「ごめん、分かんないな」
僕たちは、いつものようにたわいもない会話をした。何も変わらない日常だった。
僕はあいかわらず勉強をする気が起きなかったし、教室に来るようにうながすとサラは生返事をして答えた。
話題がなくなった時、ふと窓際のノートが立てかけてあるのに気付いた。よく考えれば前からずっとそこにあった気もする。僕はそれを手に取ろうとした。
「駄目っ」
サラに右手をぺしっと叩かれた。
「なんで?」
「見せるものじゃないから」
僕たちは再び黙った。時計の針の音がくっきりと聞こえる。昼休みが終わってしまうのがもどかしくて、僕は一つの質問をした。
「何でホシノ、僕に声かけてきたんだろう」
率直な疑問だった。本人に聞く機会を失くした今、サラ以外にそんな質問をできる相手はいない。
「あれ?彼、話してなかったんだ」
サラがふふっと笑った。
「マサカズ君、高校入学の時の作文何書いたか覚えてる?」
「えー、走れメロス、だったかな」
「私は、斜陽、だったんだよね」
「じゃあ、ホシノは……あれか」
「そう、人間失格」
サラとホシノは一年生からずっと図書委員で一緒だったそうだ。あの作文は図書委員が保管していたらしい。
「だからさ、この人も混ぜよう、みたいな話になったの」
「一体何に混ぜるんだよ」
「なんか、そうゆう同盟かな」
「太宰と言えば、なんだろうね」
「自殺?」
「それはお断りします」
サラはうんうんと頷いていた。何か、自分に言い聞かせる所作のようだった。
窓を開けた途端、晩夏の涼しい風が吹き抜けていった。晩夏と初秋ではどこか響きが違う。晩夏の方が少し切ない。
「ねぇ、サラ」
「なに?」
「いつか三人でどこか行こうよ」
「行けたらね」
サラの口調は心なしか沈んでいた。それでも僕はかまわず続けた。
「行こうよっ、行けるって!」
「どこに行くの?」
「たとえば、マダガスカルとか」
あー、と思い出すようにサラは噴き出した。僕はそんなサラを見ているだけで幸せだった。
「ありがとう」
「なにが?」
「ちょっと元気出てきたから」
「今更何言ってるの」
「んー、だってさ、言葉にして言うと違うじゃない」
「そうゆうものなのかな」
「うん、だから、ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ」
チャイムの音が廊下にこだましていた。
授業に遅れることはまったく気にならなかったが、急いだ方がいいとサラに急かされて保健室を出た。
「じゃあ、また」
「うん、また」
サラが僕に手を振っている。僕もそれに対して手を振り返す。僕はゆっくりとした足取りで教室に向かった。
遅刻だな、と一人つぶやく。気持ちの良い午後だった。
それから一ヶ月が過ぎて、二学期の中間テストが終わると学校は受験一色になった。僕もまた慣れない受験勉強に勤しんでみたけれど、案の定苦労した。個人塾の時田先生は、溜め息交じりながら辛抱強く数学を教えてくれた。
夏の色が影を潜め、秋の風が吹き抜けていく。サラとホシノを学校で見かけることはもうなかった。
下校時刻まで図書室に籠り、黙々とカーテンを閉め帰る日々。僕はまた一人きりになった。
一人は慣れていたが、改めて感じる孤独は鉛のように重かった。僕は度々目を閉じ、ただ時の流れに身を任せるのだと自分に言い聞かせた。
一年の浪人の後、僕は大学生になった。話は最初に戻るけれど、二十歳の誕生日、アルバイトの帰り道で僕は再び流星を見たのだ。
その瞬間、僕の中で溢れるように高校時代の感触が蘇ってきた。
僕はそれから、時間を見つけては記憶の断片を繋ぎ合わせ、これを書いた。失われたものは皆美しい。失われて初めて何かを得ていたことに気付く。
サラ、四季が美しいのは必ずそれが消えゆくものだからだ。美しいものはすべて失われていく。その代わり、それは特別な記憶として刻まれていく。特別なもの。それは誰が評価するでもなく、僕らにとって特別なものだ。サラやホシノに言いたいことはそれだけだ。
僕はもう二度とあそこに戻りたくはない。置き去りにされる感覚も未だぬぐえない。それでも、屋上のロケット花火、保健室の日常、ガランとした午後二時の廊下の空気、無意味な議論、不安、怒り、夢、あの時あの場所を駆け抜けたすべては、世界中で僕らだけのものだった。(終)
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