さよならSunny Summer Days

マサユキ・マサオ

 大学一年生の秋に僕は塾講師のバイトを始めた。
 初日の実習日がたまたま二十歳の誕生日だった。
 誰にも言わず帰ろうと思っていたのに、帰り道で一緒になった先輩につい漏らしていた。
 もっと早く言いなよ、と小突かれつつ、夜更けのビルの谷間でハッピーバースデーを唄ってもらった。
 成人というものに特別思い入れもなかったが、それでなんだか成人したのだなという気分になった。
 さよなら、我がティーンエイジャー。
 帰宅して洗面所の鏡を覗くと、そこに映る顔は思った以上に老けて見えた。鏡をまじまじと見るのが久しかったのかもしれない。
 外見と比べて僕の中身はおぼつかない。もう大人なんだから、と言われても実感は薄い。時の流れに取り残さていくような不安を感じる。
 その晩、僕は今までに失ったものについて考えてみた。小学五年生の時、飼っていた猫を失った。交通事故で足をやられたのがいけなかった。手術で一命はとりとめたが、弱っていく最中姿を消してしまった。後には買い溜めされていたキャットフードの山が残された。
 中学卒業の一週間後、僕は初恋を失った。人目を避けるように家を出て、電話で告白したがあっさりふられた。正直に言うと僕は最近まで失恋を引きずっていて、本当に吹っ切れたのは成人式の時だ。やってきた彼女は完璧なメイクとプロポーションを身にまとっていた。それを見て、僕は不思議と心が醒めてゆくのを感じた。
 失くしたもの、初めて買ってもらった筆箱。あれは今頃どこにあるのだろうか。引っ越してしまった友人から一度だけ届いた手紙、尻尾の折れたゴジラのフィギア、その他諸々。
 得たものではなく失ったものについて考えたのは、何か得た瞬間というのが上手く思い出せななかったからかもしれない。
 失われたものは皆、死化粧をしたように美しく整っていた。
 それらは今後の人生において二度と戻らないものだ。
 覆水盆に返らず。
 得たものの大切さは大概、失う時に気付かされた。
 そして、喪失の記憶は中学時代で一旦途切れている。高校入学後、僕は僕自身を失ってしまったのだ。
 随分長い間、薄ぼんやり自分は小説を書かなければいけないと思い込んできた。高校二年生の現代文の授業中にふとそう思ったのだ。それは幼稚園の卒園時に書いた「マダガスカルでシーラカンスの研究をする」というのを除けば、僕の人生始まって以来の展望だった。
 しかし書きたいものは既に出来上がっているような気がするのに一向に文章にならなかった。書くべき世界は書き始めた途端に飛散し、輪郭がぐらつく。それを再構築する力が僕には無かったのだ。
 僕は芽吹きかけた結晶が形を崩さないように、頭の奥深くにそれを閉まった。
 けれど二十歳を迎えた夜、もう長くは待てないことを悟ったのだ。あと数年もしないうち、僕の中に生まれかけた言葉の連なりは、誰にも触れられることなく消えてゆくだろう。まるで偶然目にした流星のように。
 久しぶりにサラの日記を読み返している。
 高校三年生の夏から更新されていない日記帳は彼女が唯一僕に残したものだ。時たま僕のことが書かれていたりすると思わず頬が緩んでしまう。しかし君はもういない。守れなかった約束も、ホシノも戻ってくることはない。
 僕はその夜更けから、これを書き始めた。日記に触発されたのかもしれない。もしくは、失われた高校時代を取り戻したいのかもしれない。サラの日記は現実のようであって、それとはまったく違うものだった。僕はそれを読んで少し安心したのだ。サラが本当に、自分自身の為だけに書いていたのだと分かったから。僕もまた僕自身の為だけに、主に三年生の最後の半年間に集約される高校生活について書いていこうと思う。

 高校入学から三年の夏までの二年ちょっと、振り返ってみると退屈だったとしか言いようがない。僕のいた高校は地元じゃ有名な進学校で生徒は勉強ばかりしていた。たまに悪そうなのもいたが、それもある意味じゃ計算しつくされたファッションのようなものだった。僕は高校での人間関係と学業に見切りをつけ、図書室で本や漫画ばかり読んでいた。
 そんなうちの高校にも本当にイカレてると言われている奴が一人いた。苗字はホシノと言った。僕と違うクラスだったが、あまり良くない噂が僕の耳にも届いていた。関西の友達から大麻を貰って吸っているとか、危ない薬品を調合しているとか。最近聞いた話だと、公園にいる人懐っこいガチョウを傘で殴り殺したとか。鳥が血まみれで死んでいたというニュースはローカルでは有名な話だった。それでホシノがお咎めをくらうということはなかったが、そのせいで彼には”鳥殺し”の異名がついていた。
 僕がホシノと関わりを持ったのは、高校三年生の五月のこと。声をかけてきたのはホシノの方だった。
 その日、僕は図書室で漫画を読んでいた。下校時刻ぎりぎりまで粘っていると司書教員の先生が僕の周りをうろつきだす。うちの母親と同い年くらいで、いつも眉間に寄せていた。そうして立ち上がった僕は決まりごとのように窓の施錠を手伝うのだった。
「マサカズ、また漫画読んでたの?」
 背後から声がした。同級生に名前を呼ばれるのは久しぶりだった。振り返るとどこかで見た様な男子学生が立っていた。彼がホシノだと気づくのに数秒かかった。
「ホシノ、だっけ?」
 思わず質問に対し、質問で問い返してしまった。
 入学当初に一度だけその男子生徒と言葉を交わしたことを思い出した。しかしそれっきり僕達は関わることなく無縁な生活を送っていたはずだ。今更声をかけられる筋合いもない。
「寄生獣とか読むんだ」
 彼もまた僕の問いかけを無視した。
 ホシノの視線が本棚に向く。さっき僕はそれを読んでいたらしい。
「見た通り、読んでたけど」
「なんか、そうゆうの好きそうだもんな」
 ホシノはわざとらしく笑った。
 三年間で一度しか会話したことがないのに、まるで僕を知ったつもりかのような口ぶりだった。
「この棚にある漫画は全部読んだ」
「全部?」
「大人の保健体育以外、全部」
「そりゃすごい」
 午後五時のチャイムが鳴る。それが閉館の合図だった。
 漫画棚の前にしゃがみ込むホシノを放置して僕は窓際をぐるりと見回した。
 すると一人の女子生徒がカツカツと靴音を響かせて近寄ってきた。
「施錠もう済んでるから」
 彼女は、なんとなく申し訳なさそうな声で僕に呟いた。
 気のせいか少し顔色が悪いように見えた。フラスコの底に沈んだ、淡い沈殿物のような印象だった。もともとそうゆう肌色なのかもしれない。短くて癖っ毛な髪を撫でつけている。これで眼鏡をかけたら、完璧な図書委員の女子に見えるだろう。
 軽く会釈をして立ち去ろうとすると、ホシノが彼女を呼び止めた。
「サラ、もう体調良いの?」
 僕はそのサラという女の子が彼に親しげな表情を浮かべるのを見た。
「うぅん、あんまり良くないんだけど、なんとか」
「駅まで送ってこっか?」
「今日は親に迎えに来てもらってるから」
「そっか」
「ごめん、ありがと」
 ホシノは少し残念な顔をして、手を振った。司書の先生も手を振っていた。まるで母親が本当の娘を気にかけているようだった。きっとその女子生徒には他人にそうさせるオーラがあったのだ。
「あれ、ホシノの彼女?」
「いや全然」
 全然、と言うにはやや不自然なやり取りだった。黙る僕にホシノが首をかしげる。
「ていうか、お前もしかしてサラのこと知らない?」
「なんのこと?」
「お前のクラスメート」
 これがサラとの最初の出会いだった。

 明くる日、登校して教室に入ると確かにサラの姿があった。
 僕が会釈すると向こうからも会釈が返ってきた。しかし、声をかける勇気はなかった。サラも僕に話しかけてくることはなかった。
 昼休みになると、僕がトイレに行って帰ってくる間にサラは教室から姿を消していた。図書室にも行ってみたが彼女は見当たらなかった。代わりにホシノが入り口のソファに腰掛けていた。
「遅い」
「いや、待たせた記憶ないけど」
「いつも十二時半には来てるだろ」
 そんなところまで観察されていたのか。なんだか気味が悪くなる。
「なんでそんなにかまうんだよ」
 ホシノはただにやにやと笑みを浮かべていた。
「ほら、ニュートンの新しいの入ったぜ」
 ホシノの両親が分子科学研究所に勤めていると噂で聞いたことがあった。
 エリートの両親、そしてその息子であるホシノは鳥殺し。
 新刊のニュートンをぴらぴらさせて折り目をつけている。ふむふむ、と大儀そうに読み込む横顔が白々しい。それからホシノは自分の弟のことを話し始めた。
「びっくりするくらい出来が悪いんだ」
 ホシノは、弟が塾の入学最低ラインもクリア出来ないとか、捨て猫を拾ってきて母親に怒られ泣いただとか、そんなことを嬉々として話した。ホシノは話しながら僕の顔を一切見なかった。
 僕は彼が弟に強い憧れを抱いているのではないかと思った。何故、そう思ったのか自分でも分からない。
 何故、鳥を殺したのか。ホシノは本当に鳥を殺したのか。僕は聞けなかった。
「おはよ、サラ」
 ホシノが僕の背後に視線を移す。
 気付くと図書館の入り口にサラが立っていた。今日も土気色の顔色で薄い微笑を浮かべていた。
「もう朝じゃないよ」
「保健室で寝てたんだろ。今朝は体調どう?」
 ホシノはサラに会うたび体調を尋ねるのだろうか。やめた方が良いのにと思ったが、僕は聞かなかった。
 僕は高校入学以降、本当に必要なこと以外出来るだけ口にしないようにしていた。
 進学校特有か、高校生が一般的にそうなのか、クラスメートは皆一様に言葉の揚げ足を取り合っていた。
 不用意な発言が、ヒエラルヒーの中で踏みつぶされる様は本当に恐ろしかった。
 駆け引きの出来ない僕は、ひたすらに二年半口をつぐんで過ごしてきた。
 サラは相変わらず血の気の薄い微笑を浮かべていた。その内で何を考えているか僕には読み取れない。
 ホシノはお構いなしにサラに話しかけている。ホシノはよく喋った。彼の場合、多くを語ることによって本音を隠しているのかもしれない。
 同じ環境においても処世術は人それぞれなのだろう。勝手にそんなことを思う。
 司書の先生がサラを呼んだ。彼女が行ってしまうとホシノは物理のテキストを開いて問題を解きだした。
 僕はホシノが授業時間外に勉強しているのを初めて見た。
 元々同じクラスでは無かったが、その姿に少し違和感を感じた。
「ホシノも大学受けるの?」
「まぁ、そりゃ」
 僕はクラスメートと勉強の話をするのが嫌いだった。
 ホシノが一人勝手に進路や授業の愚痴をこぼすのを黙って聞いていた。
 ホシノが僕の成績を聞いてきたので大まかに教えてやる。するとホシノは軽く嘲笑してこう言った。
「もうちょい頑張ろうぜ」
 ホシノの成績は悪くなかった。学年の中で言えば真ん中やや上くらいだった。それでもホシノは学校の成績に固執しないタイプだと思っていた。
 予鈴が鳴りホシノが教室へ戻ってゆく。僕はしばらく席を立たずホシノの背を見送った。
 不意に、ホシノが読んでいたニュートンを破り捨ててしまいたい衝動に駆られた。
 僕はホシノをどう思っていたのか、何か期待していたのだろうか。
 微かに生まれかけていたホシノとの共有感みたいなものが、歪にねじれてしまった気がした。

「例えばだ、諸君は何に対してステレオタイプを持っているかね?」
 赤ら眼鏡は聞いた。当てられた色白眼鏡は答えた。
「この学校のあらゆることに対してです」
 季節は梅雨、六月下旬だった。
 窓の外では静かに雨が降りしきっている。不快に湿気った教室でまどろんでいた僕は虚ろに眼を覚ました。
 英語リーディングの授業中だった。赤ら眼鏡の教師は少し黙っていたが深く追求はしなかった。
 ステレオタイプ、和訳すると偏見。
 色白眼鏡は僕より学力レベルでいえば数段格上だった。進学校特有の肩身の狭さも味わっていないはずだった。
 彼はいつも寡黙にたたずんでいた。感情をあらわにするようなことは滅多になかった。けれどその時に限ってはやけに頑なな意志を込めているように見えた。それは怒りだったのか、諦めだったのか、それは分からない。もしかしたら、たまたま機嫌が悪かっただけなのかもしれない。 
 その日の放課後、ホシノが図書室に来ていた。
 僕が目を合わせないようにしていたのに、予鈴が鳴ると鬱陶しく絡んできた。
 当たり障りない雑談には、僕も当たり障りなく返す。そのつもりだったが、僕はふと心の内で引っかかっていた色白眼鏡の話をした。ホシノは鼻で笑った。
「そりゃ、みんな内心思ってるよ」
 そうなのだろうか。簡単なことだ、とホシノは言う。
「そうゆうこと言う奴は、勉強ができたって運動ができたってコンプレックス感じて生きてるの」
「いや、なんでだよ」
「たとえば、マサカズの場合は劣等生だから分かると思うが、周囲の蔑んだ目線とか、勉強が関係ない場でも軽んじられたりとか、あるだろ」
 はっきりと言われて、僕は少しむっとする。
 ホシノはかまうことなく続けた。
「一旦コンプレックスなんて感じたら、勉強できたくらいじゃどうにもならない時もある」
「どこにコンプレックスがあるって? むしろ、勉強だけが取り柄の欠陥人間がいばってるのに我慢ならないみたいな、そんな感じに見えたけど」
「少し違う。違うっていうのは、それが自分への怒りだってことでさ。その眼鏡君も自分のこと、勉強だけの欠陥人間だって思ってるのかもしれないだろ。人間なんて所詮似たり寄ったりで自分に足りないことがあってイライラしてるんじゃないの。俺もお前も似たようなもんだしな」
「僕とホシノが?」
 何も知らないくせに決めつけるな、と口元まで出かかった。
 いや駄目だ。こういう時に余計なことを言って、良かった試しがない。適当に濁して、さっさと帰ろう。
 その時、ホシノの顔が引き攣っているのに気付いた。
 いつもの不敵な笑みはなく、眼の底は真剣だった。
「そりゃさ、俺は勉強もそこそこできるし運動神経だって悪くない。でも不良だしさ。出来損ないなんだって。これ、俺が自分で言ってるわけじゃないぜ。親が言ってくるんだよ、不良品ってさ。お前も言われるだろ、劣等生って? 俺も同じように不良品って言われてきたの。ちょっと違うけどな」
 ホシノは酔ったように喋り続けた。
 劣等生と不良品。ホシノはそう表現した。
 ホシノが何をこじつけたがっているのか分からなかった。
 まるで意味が無い会話。意味どころか着地点すら無い会話だった。
 僕はこれ以上ホシノの戯言を聞きたくなかった。
 僕は一刻も早く、その場を立ち去るべきだった。
 しかし、僕は黙らなかった。
 何を言おうとしていているのか自分でも分からないまま、僕は早口でまくしたてた。
「何か勘違いしてるみたいだけどさ、ホシノのしてること全部ただの格好付けっていうか。勝手に自分で不良になったくせに、何わめいてるのって、そう思うよ。あと、いきなり距離感詰めてくる感じとかもさ。図書室に一人で居て、ちょっとだけ話したことあったから声かけたんだろうけどさ。僕のこと、見下してるんだろ。上から目線で変な仲間意識持たれても困るし、正直鬱陶しいんだよね」
 喋るだけ喋り終わると、目の奥がジンジンした。他人の前で、こんなに喋ったのは久しぶりだった。
 恐る恐るホシノの顔を見る。
 殴られるんじゃないかと思って身構えながら表情を確認した。しかし、ホシノは居心地悪そうに溜め息をついただけで、黙った。
「ごめん」
 沈黙に耐え切れず、僕から謝った。
「いやまぁ、俺も悪いけど」
 指をぽきぽきと音を立て、舌打ちをしていた。ホシノはまだ何か言いたげだった
「お前も一緒じゃないのかよ」
「なにが?」
「能力はあるはずなんだよな。うちの高校受かってるんだから。そのくせ勉強してない。そんな無駄なことやって何になる、って斜に構えてんの」
 褒めながら貶すようなもの言いだった。
 僕の場合、本当に勉強が分からなくて途方にくれていた。ホシノは逃避、僕のは諦めと言うのが正しい。いや、僕も逃避はするけれどホシノとは違う。頭の中で自分自身に弁論してみる。僕にはホシノと自分とどちらが的を得ているか分からなくなっていた。
「じゃあさ、ホシノはなんで勉強するわけ?」
「俺には夢があるから」
 ホシノは僕が尋ねる前に、薄ら笑みを浮かべて答えた。
「世界征服」

 次の日も雨は我慢強く降り続けた。
 僕は相変わらず、うとうとと睡魔の渦に巻かれながら授業を受けていた。
「えー、体積がこうなりますとね、えー、つまり浮力がそうなりますからね、えー、つまりはこうなります」
 僕の高校には「カリスマ」と呼ばれる教師がいた。彼は常に能面の様な表情で、木琴のようにテンポを刻み授業を行っていた。
「えー、入射角がこうなりますとね、えー、つまり屈折率がそうなりますからね、えー、つまりはこうなります」
 廊下側の席に目をやると、色白眼鏡が機械のように板書を書き写していた。
 その後ろが空席になっている。そこが確かサラの席。
 他の生徒の大半はやっぱり眠りこけている。
 カリスマは年配の物理教師だった。日々リズムを崩すことなくカリスマはやってきた。そして青白い顔で淡々と授業を行った。
 カリスマの最大の謎はカリスマという呼び名そのものだった。まったく誰が言い出したのか謎である。
 あだ名というのは不意に降ってくるものだ。僕は中学時代「野人」というあだ名で呼ばれていた。
 起源はこうだ。僕はテニス部に所属していた。ラケットケースの素材が革っぽかったので、「ラケットの革の袋取って」そう友人に呟いた。彼は言葉の意味を反芻し何を思ったか、腹を抱えて笑いだした。その日からあだ名が野人になった。
 僕が毛皮のラケットケースでも持ってると思ったのだろうか。確認したら変なあだ名が増えてしまいそうで、聞かなかった。
 しばしカリスマは特製の実験セットを持って授業に現れた。そうゆう時のカリスマは妙にニコニコしていた。
 手鏡でヘアスタイルをチェックしている連中は見世物でも見るような目つきでにやにや笑った。
 その日、カリスマは波動の実験器具を持って教室にやってきた。前列の僕はカリスマとたまたま目が合ってしまい、波の反射実験を手伝うことになった。
「結構強くやらないとね、跳ね返らないから」
 カリスマがそう言うので僕はかなり強く波を起こした。クジラの背骨のような装置がタカタカと音を立てて一往復し波が返ってくる。
 ぬふふっと笑うカリスマの顔を見て、僕たちは結構良いコンビになれるかもしれないと思ったりした。

「マサカズ君が保健室来るなんて珍しいね」
 サラがベッドから起き上がり、静かに微笑む。
 放課後、僕は保健室にいた。
「ホシノが心配してた」
「そっか」
 ベッドの上のサラは興味なさそうに頬杖をついていた。
 なにか喋らなければと思って僕はふとカリスマのことを思い出した。そういえばカリスマの本名を忘れちゃった、と首をひねっているとサラはくすくす笑いだした。
「カリスマはカリスマでいいと思うよ」
 カリスマの話題がよほどサラに受けたらしく、馬鹿みたいにカリスマの話で盛り上がった。なんでカリスマって言うんだろう、と僕が言うとサラは意地悪な顔をして言った。
「カリがスマートってことじゃない?」
 僕は唖然としてサラの顔を見つめてしまった。
「本気で言ってる?」
「ちょっと、そんなわけないでしょ!」
 サラはこつんと僕の背中をぶった。
 サラは僕よりずっとカリスマのことに詳しかった。カリスマは元々サラリーマンをしていたこと。脱サラして教師になったこと、十歳以上年下の奥さんがいて、年老いた猫を一匹飼っていること、そんなことを色々と語ってくれた。
「なんでそんなこと知ってるの?」
「図書室でよく話すから」
 カリスマが図書教諭だということを僕は知らなかった。
 いつも図書室来てるくせに、とサラが笑う。
 僕はサラが実に様々な表情をすることに気付いた。
 眉をほんの少ししかめたり、びっくりすると切れ長の眼を白黒させていた。笑う時なんかは特にそうで、嘲笑するように唇の端を上げたり、急に吹き出して俯いたり、と見ていて飽きなかった。
「あなた、人と話すの嫌いなんだと思ってたけど」
 サラがぼそりと言う。
 僕とサラはそれまで二人で話したことは一度もなかった。勿論、僕がサラに話しかけることもなければその逆もない。ほとんどのクラスメートに対してもそれは同じだった。そうゆう印象をもたれていて当然だと思った。
「サラこそ、今日はやけに話すじゃない」
 サラは左手の爪の先を見つめ親指と人差し指をもじもじと擦り合せている。
 雨は既に止んでいて、校庭できらめく水溜りの反射が薄っすら僕らを照らしていた。
「そうゆうのって相手によるよ」
 僕は何か言おうとしたけれど黙った。
 サラも再び黙りこくって窓の外を見つめた。
 僕が窓を開けると夕陽色を帯びた彼女の髪がふんわりと風に揺れた。まぶしそうに遠くを見つめるサラは山岳の野生動物のように美しかった。
 どこか見たこともない彼方からやってきて、そこを懐かしんでいるように見えた。ここではない、どこかを求めている。まるでそんな表情だった。
「なんにも出来なかったな」
「なにが?」
「三年間でなにも出来なかった」
 サラは少し長めのカーディガンをぱたぱたとさせながら恥ずかしそうに言う。
「なにか出来た奴なんているの?」
「少なくとも私よりはみんな色々してる」
「そんな気がするだけじゃない?」
「そうなんだけど」
 そうなんだけどさ。サラは言葉を切った。
 同じような問答を繰り返すうちに午後五時の鐘が鳴った。僕らの会話は打ち切られた。
「今日は親の迎え来てるの?」
「うん、最近はずっと」
 僕とサラは校門まで無言で歩き、じゃあね、と手を振って別れた。
 僕はバス停まで歩く間、なんだかやり切れない気持ちが続いていた。サラの携帯の連絡先ぐらい聞いておけばよかった。明日サラに会ったら聞こうか。いや、でも学校外でサラと話すべきことなんてあるのだろうか。
 演じるかのように悲観するサラ。僕がサラのように病弱だったら同じようにふるまってしまうのだろうか。しかし何もできない、という点に関しては僕も一緒だった。サラの不安は僕の不安でもあり、ごくごくありふれた高校生の悩みだった。決して特別な悩みじゃない。でも、いつからだろう。なんだか自分だけ社会の空気に一歩遅れながら生きているような気がする。しかし、その一歩が途轍もなく人生の調子を狂わせている気がする。一体、僕は何から遅れているのだろうか。自分だけ取り残されている、そんな気がする。実際に僕を置き去りにするものなど無いのかもしれない。けれど、ずっとそんな気がしている。
 次の日もサラは教室に来なかった。サラの居ない教室の空気を吸っていると、保健室での会話が幻だったような気さえしてくる。
 僕は登校して早々の一限目からひたすらに眠り続けていた。淡々と時は流れていく。二度ほど教師が僕を注意したが、それ以外は誰も僕にかまうことなく授業は進んでいく。
 誰にも相手にされず居眠りをしているとよく夢を見た。昼休み後の三限目までずっと僕は眠りこけていた。ふと目を開けると教室の全員がじっとこちらを見ているのに気付いた。教師の蒼白な表情が僕を見てゆがむ。唐突に教師は黒板に、出て行け、と書いて白チョークをぽきりと折った。クラスメートまで声をそろえて言う。
「出て行け」
 無機質な声が僕を責めたてた。僕は、鉛のように重い体を引きずり教室から逃げ出した。胃に氷の塊が滑り落ちたような心地だった。
 とてつもない悪寒と共に目覚めると、三限目がちょうど終わるところだった。黒板には、無味乾燥な数式だけが並び、僕への皮肉は一言も書かれていなかった。ひどい夢だった。

「おはよ、サラ」
「もう朝じゃないよ」
 四限目の授業時間中、僕は保健室にいた。
 戻りなさい、と促す先生に、喉が痛い、頭が痛い、と駄々をこねて何とか留まることを許されたのだ。
「マサカズ君、授業でなくていいの?」
「出ても寝てるだけだし意味無いよ」
「そっか」
 サラは猫のようにぐっと伸びをした。
 よくよく観察すると、彼女はその仕草、癖っ毛な短い髪、切れ長の目、まさに猫の様だった。
「ホシノとは最近どうなの?」
「どうって?」
「なんていうか、全然何もないわけじゃないでしょ」
「何勘違いしてるのよ、ホシノ君とは何もないよ」
「そんな様子には見えないけど」
「そうゆうのじゃなくて、色々複雑なの」
「ホシノの方はサラのこと好きかもしれない」
「そんなこと言われても」
 じゃあホシノが嫌いなのか、と言いかけて僕は口をつぐんだ。そんなことはどうでもいいじゃないか。僕は何を言っているのだろうか。
「マサカズ君は好きな人いないの?」
「居た、けど今は居ない」
「その人は今はどうしてるの?」
「さぁ、知らない。知りたくもない」
「変なこと聞いたね、ごめん」
「かまわないよ」
 僕は中学三年の最後に手酷い失恋をした。所詮は叶わぬ恋だった。
 一体いつ始まった恋なのか、それもよく分からないけれど、多分初恋だった。
 僕はろくに口もきかないまま、彼女に五年間も片想いをしていた。そして、ようやく卒業式後に校門の前で告白したのだ。その時返答は求めなかった。それから友人を交えてデートもどきのようなことをした。高校入試の結果発表の後に電話で、付き合って欲しい、と言ったらあっけなくふられた。
 なんで僕はサラにこんなことを話しているのだろうか。
 サラは相変わらず髪をいじくったり、爪を眺めたりしながら僕の話を聞いていた。
「初恋ってやっぱり特別なのかな」
「多分、それが初めてっていう以外に特別なことは何もないよ」
「そうなのかな。そんな風に思いたくないけど、そうかも」
「サラの初恋はどんなの?」
「言えない」
「それ、ずるいんじゃないの」
 四限終了のチャイムが鳴る。
 用から戻ってきた保健の先生がサラのベッドの横に座っている僕を見て顔をしかめた。
「元気なら早く戻りなさい」
「ごめんなさい、お世話になりました」
「世話なんか焼いてないわよ」
「そうですね」
 僕はサラに手を振って保健室を出た。
 戸を閉め、溜め息をつきながら何故か僕はホシノの顔を思い浮かべた。
 そういえば今日の昼休みは珍しく図書室に行かなかった。ホシノは僕を待っていたのだろうか。
 何故ホシノが僕に話しかけてくるのか、いまだに分からなかった。
 サラやホシノと話すようになってから、何かが目まぐるしく僕の頭の中を回りだすようになっていた。それがどうゆうことなのか僕には分からなかった。
 僕が立ち去るとき、サラの横顔が夕陽を浴びてまぶしそうに見えた。その眼はきっと僕でもホシノでもなく、どこか遠くを眺めていたんだろう。
「教室、来れたら来なよ」
「うん、分かった」
「それじゃまた明日」
 明日再び保健室にやってくる自分をイメージしつつ僕は立ち去った。

 その頃、僕のクラスでは質の悪いイジメのようなものが流行っていた。
 何をもってイジメというのか僕は知らないけれどそれは見ていて不快になるものだった。
「おいっ、しっかり授業しろや!」
 漢文の授業で一人の男子が唐突に叫んだ。新米教師の顔が一瞬歪み、こわばる。
 僕の周囲で数人の男子が笑いをこらえている。つられてクラス全体に失笑が広がっていく。
 何が起こったのか最初はよく分からなかった。
 ふっと僕も笑ってみる。卑屈なことに、僕は自分の感情に関わらず周囲の表情に合わせるという術を、高校一年生の時に身につけてしまっていた。
 教室を支配する、何とも言えない圧迫した空気が僕の周りにも伝播してくる。
 造り笑みを浮かべるという行為は頬を引き攣らせることなのだと改めて思った。
 僕は狂言を演じた縮れ毛の男子をしばらく観察していた。どうやら彼の行動は数名の悪友にやらされたものだと分かった。
 指示した通りに彼が動くと、その度に前後の席の奴らが声を殺して笑った。当事者の男子も青白い顔で微笑んでいた。
 その時、僕はクラスの誰からも相手にされないようなポジションにいた。だから、まさか自分に火の粉が被ってくるような状況にはならないだろうと思っていたのだ。
 イジメグループは主犯が二人と冷やかしも含めれば六人ほどで構成されていた。彼らは案を練り対象を決め、実行するという極めて計画的でシンプルな行動パターンをとっていた。そして主にその対象というのが縮れ毛の男子だったようだ。
 ある日の学年集会の前、ぼんやりと集会室の窓の外を眺めているとそのイジメグループと思われる数名に囲まれているのに気付いた。僕は嫌な予感がしてごまかすように視線をそらした。
「なんか用?」
「なぁ、今日もっさん休みなんだよ。代わりにさ、ちょっと格好良いとこ見せてくんないかな?」
「茂木の代わり?」
「ほら、あそこ。国語の安田がピンクのジャージ着てるだろ。あいつが喋り始めたら、おいっピンク!って叫んでよ」
 僕は、囲まれるという状況が予想以上に圧迫感を感じるということにたじろいだ。
「お前がやれば?」
 震えながら言う。
「分かってねぇな。お前みたいなむっつりがやるから面白いんだって!」
「やれって」
「やれるって」
「みんな期待してるんだからさ」
「何か言えって」
「あーあ、つまんねぇの」
 恐喝は恐らく三分にも満たなかったと思う。その間僕は窒息しそうなほど息を殺していた。
 僕を囲んでいた人の中には今までそのグループに属していないと思っていたクラスメートも混じっていた。
 安田という中年の女性教師が中間テストの後評を始めると数人が僕の顔をちらちらと睨んできた。みんな期待している、というのもあながち誇張ではないのかもしれない。 均衡が破れることを、教師への背信を、非日常的な破壊を多くの人が望んでいる。そして当事者は自分でなく、誰かに託すことが好ましかったのだ。
 僕はその日一日、人と話すのが恐ろしかった。寝たふりをした僕に声をかける教師もいなかった。
 退屈な午後の授業中、僕は意識を半分保ちながら繰り返し不思議な夢を見た。
 窓から空を見ると、相変わらず薄い墨のような雨雲が世界を覆っていた。校庭と道路を分かつ蔓の絡んだフェンスの向こうには、住宅地と小学校が見えた。その脇を幼稚園児か小学校低学年くらいの、おぼつかない足取りの子ども達が列をなして歩いていた。
 幼い僕がその先頭を、眼鏡で銀髪の老人と共に歩いているようだった。とても距離があって鮮明に見えるはずなどないのだけど、その老人が誰だかすぐに分かった。僕の祖父だった。
 祖父は若かりし頃、特攻隊に志願したが出撃予定の一週間前に終戦を迎えてその命を長らえた。その後、彼は小中学校の教員となり、僕が生まれるより前に市内で最も規模の大きい中学校の校長を任期まで勤め上げて退職した。そして今は森林に囲まれた介護施設で安らかに寝息を立てているはずだった。
 僕は祖父が施設に入ってから三度ほど祖母に連れられて見舞いに行った。僕が声をかけると祖父は特殊な加工をしたビー玉のような眼だけを僕に向けた。祖母が耳元で僕がやってきたことを告げると、痰の絡んだうめき声を上げて微笑んだ。
 僕の中での祖父は孫にどこまでも甘い好々爺だった。あるいは僕にとってだけ格別に甘かったのかもしれない。僕が幼稚園に通っていた頃、祖父は僕が何をしても良い子だ、良い子だ、と言って笑みを浮かべていた。幼い僕は調子に乗って、わざと祖父が負けるようにトランプカードを配って対戦を挑んだり、欲しいものがあれば何でも祖父にねだった。
 フェンスの向こうに見える祖父は老いていながらも足取りはしっかりしていた。それは園児の頃に見た、十年以上前の祖父の姿だった。
 祖父の後に付いて歩く子ども達は首に紐をかけて大きなキャンパスを胸に下げていた。まるで遠足のようだと僕は思った。
 彼らはどこかに向かっていた。猫のように甲高い声が耳元で響いた。それは僕の声だったのかもしれない。
 僕はいつしかその子ども達の中の一人になっていた。
「雨降ってきたよ」
「ねぇ先生、雨」
 ぽつりぽつりと生温かい水滴が身体に降りかかった。けれど祖父は歩みを止めず僕達は歩き続けた。
 僕達は丘を目指していた。学区全体を見渡せる丘に登り、その風景の絵を描きに行く途中だったのだ。
 一人二人と傘をさし始める。傘の色はどれも黄色だった。僕達は祖父を除いてみんな黄色の帽子を被り、黄色の長靴を履き、黄色の傘をさしていた。
 雨は降り続いた。ふと祖父が歩みを止めた。目の前の道がすっかり水に漬かってしまっていたのだ。湖のようなその水底で、怪しげな両生類やサメ達がどろんとした眼付きで鰓を動かしていた。
「仕方ないな、今日は帰ろうか」
 祖父が穏やかな目で諭した。僕は、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような気がした。そうゆう言葉を聞くと僕は無性に悲しい気持ちになってしまうのだ。
「いやだ」
 他の子ども達が今来た道に引き返そうとする中、僕だけは納得できず駄々をこねた。祖父は困った顔をしてどうすれば良いかと思案していた。
 僕は自分が祖父を困らせているのだと気付いていた。さっきにも増して虚しい気分が込み上げてきた。それでも祖父に対してわがままを突き通すことを止められなかった。 いつの間にか、僕は涙をぬぐいながら祖父に手を引かれていた。
 気付くと他の子ども達の姿は無く、僕と祖父の二人きりだった。僕は祖父を罵倒し続けていた。祖父はそれをただ黙って聞いていた。
 僕にあるのは胸を締め付けるような感情だけだった。伝えるべき言葉というものを持ち合わせていなかったのだ。表そうとしたすべての言葉は汚い罵りにしかならなかった。
 誰かに肩をぽんっと叩かれて僕は目覚めた。びくっとして全身が硬直する。
 すでに三限目の授業は終わっていて、隣に座っていた女子生徒が僕を覗き込んでいた。
「ずっと寝てたでしょ」
「ああ、うん。さっきの授業のノート見せてくれない?」
「別にいいけど、寝てばっかじゃ先生に失礼でしょ」
「その通りだね、気をつける」
 名前を一生懸命思い出そうとしてこっそり彼女のノートを見ると、K・Ritsukoとアルファベットで書かれていた。
 そういえば高校に入学してすぐの時に、リツコさんと呼んだ記憶があった。多分彼女から話しかけてきたのだが何で話しかけられたのか分からない。
 僕は言い訳がましく、最近は夜に寝れない、だとか頭が痛いだとか適当なことを言った。
「大丈夫?眼が赤いけど」
「きっと眠りの質が良くなかったんだよ」
「良いとか悪いとかじゃなくて、授業中は寝ちゃ駄目っ」
「気をつけるよ」
 結局、僕は次の授業でも居眠りをした。
 浅い眠りの中で僕は再び夢を見た。その前の夢で見た水底の怪物たちと闘うという内容だった。二度目の夢の中で、僕は少し成長して中学生くらいの格好をしていた。怪物たちはあっけなくやられた。僕が剣を振りかざすと、彼らの胴体から半分が簡単に吹き飛んだ。
 横腹に鈍い痛みを感じて目を覚ますと、リツコさんがさっきにも増して僕を睨んでいた。
 痛みは彼女にどつかれたものらしかった。僕は黒板の前にいる先生よりも、なんだか彼女に対して申し訳ないような気分になってノートのことを頼み損ねてしまった。結局、前の授業の分も含めリツコさんが僕にノートを貸してくれることはなかった。
 後で夢の実像を再現しようとしたが、既にぼやけてしまった風景を上手く思い描くことはできなかった。祖父は一体どんな表情を浮かべていたのだろう。分からない、思い出せない。そういえば僕は祖父のことをよく知らないし、祖父も本質的な意味で僕のことを何一つ知らない。
 今の僕の生活を祖父が垣間見ることは恐らくないだろうし、お互いにとってそうあるべきだろう。
 掃除の時間中、一度も話したことのないようなクラスメートが僕の居眠りのことを話題の種にしていた。僕はそれを黙って見ていた。わざと聞こえるように話しているという風でもなく、ただ僕がいてもいなくても構わないという様子だった。そのくらい僕はクラス内で存在が薄かったし、授業中居眠りを繰り返していたのだと思う。
 多くの生徒が雑談やふざけ合いをする中、僕は黙々と黒板を消し、ゴミを掃き、机を運んだ。掃除をサボる連中を特に怒る気にもならなかった。
 授業中真面目に授業を受けて掃除をサボるのと、一日中居眠りして掃除だけ真面目にやるというのを比べると前者の方がずいぶん有意義なように思えた。
 高校三年生の一年を通じて真面目に取り組んだことといえば多分、掃除くらいしかない。特に理由はないけれど黙々としたその作業が僕に合っていた。加えて、朝の会前と帰りの会後のカーテンの開け閉めはいつの間にか僕の仕事になっていた。
 僕は誰に言われる訳でもなく進んで掃除をしていた。けれど、内心では誰かがその姿を見てくれているのではないかという期待も持っていたのだ。
 例えばそうゆう時「誰かさんの眼はちゃんとお前を見ているんだ」という言葉を思い出す。これは確か、カート・ヴォネガットの小説、タイタンの妖女の冒頭で述べられていたセリフだ。
 僕が実際にタイタンの妖女を読んだのは大学生になってからだ。何故その頃から、タイタンの妖女に出てくるセリフを知っていたかは分からない。ただ、頭の片隅には常にその言葉があった。
 所詮、そんな考えも気安めに過ぎなかった。センター試験前の進路相談で、担任は僕に大体こんな主旨のことを言った。
「お前が主体的に何かに取り組んでる様子を見たことが無い」
 客観的に見て、いや主観的に見てもそれはあながち間違ってはいない。けれどその反応は自分でも思いがけないほどショックだった。他に言うべきことがあるんじゃないか、と思わず睨んでしまった。
 その担任教師は体育教師にしては珍しくクールな性格をしていた。感情に流されず物事を割り切って見るタイプで、決して悪い人ではなかったけれど僕は少し苦手だった。 結局、彼は僕の心情を考えたことなんて一度も無かったのかもしれない。そうでなかったとしたら環境や考え方があまりに違いすぎて理解できなかったのだ。
 僕はそのことを余計に考えすぎて、しばらく落ち込んでしまった。誰かの好意的な観察を期待していたということが恥ずかしかった。
 そのことはともかくとして、僕は毎日せっせと机を運び、黒板を消していた。それは既に僕の習慣であり気に留める人もいなかった。
 ある放課後、いつもの保健室で授業後の掃除に集約される僕の一日についてサラに話してみた。
「宮沢賢治なんだね」
 サラはそう言った。なんだかいつになく楽しそうだった。
「どうゆうこと?」
「宮沢賢治は自分から雑用のランプ磨きやってたんだって」
「そんなんじゃないよ」
 宮沢賢治は学生時代、ランプ磨きをしながら瞑想していたらしい。でも僕は掃除という作業に特別な感慨も持っていなかった。むしろサボって談笑している連中に対し、意地っ張りと皮肉をこめて続けていたんじゃないかとさえ思う。
「僕にはあんな自己犠牲の精神は無いし、ファンタジックな世界を瞑想してるわけでもない」
「違うの?」
「僕を買いかぶりすぎじゃないかな」
「えー、なんか残念」
 サラは本当にがっかりしてしまったように見えた。僕は何かお詫びをしたいと思い、ポケットに飴が入っているのを思い出した。
「のど飴いる?」
「いらない」
 午後の日差しが保健室に立ち込めている。短い梅雨の晴れ間だった。
 こんな穏やかな午後の陽を浴びながら、宮沢賢治も授業中居眠りをしたのだろうか。どうせ居眠りするなら宮沢賢治のように居眠りを出来たらいいと思った。
「明日教室に来なよ」
「マサカズ君だって、教室から逃げてここに来てるんじゃないの?」
「そうかもしれない」
 サラは少し黙ってから噛み締めるように言った。
「行けたらいいね」
「行こうと思えばどこだって行けるさ」
「どこでも?」
「どっか行きたいところある?」
「マサカズ君は?」
 サラが逆に尋ねる。
「マダガスカルに行きたいな。珍しい生き物が沢山いるんだ、シーラカンスとか」
「シーラカンスって見れるの?」
「見れないだろうな」
 サラは話題がなくなるといつものように窓の外へ目をそらした。僕から見てサラの身体はちっとも悪いところなんて無いように見えた。いっそ、その手を引いて教室まで連れていこうか、なんてことを考えていたその時、不意に保健室の戸が開いた。ホシノだった。
 僕はホシノの姿を久しぶりに見た気がした。
「久しぶり」
 僕は声をかけたが、ホシノはそれに返事をせず青白い顔をしてベッドに向かった。
「頭が痛い」
 ホシノは上靴を脱ぐと勝手に隣のベッドに寝転んで動かなくなった。僕達はしばらく黙った。
 僕は少しホシノと話したい気もしたが、しばらく彼が起きてくるようにも見えなかった。僕はやるせなくなって一人で図書室に向かった。
 クラスメートが無心にペンを走らせていた。僕以外の三年生は大抵勉強をするために図書室に来るのだった。
 ついに蔵書の漫画を読みつくしてしまった僕は、星新一のショートショートを読んでいた。疲れそうな分厚い本はなるだけ避けていた。

 その晩、僕は母親と大喧嘩をした。中間テストの僕の成績が芳しくないことが原因だった。
 僕自身は高校一年生の秋から勉強に関してはほとんど諦めていたし、今更ひどい結果を見ても何とも思わなかったが、母親は僕のテストの点数を見るたび、まるで初めてその現状を知ったかのように怒るのだった。
 その日は特にひどかった。つじつまの合わない叱責に耐え兼ねた僕は、そのテストの問題を今から解いてみればいい、と母を挑発してしまったのだ。
 烈火のごとく怒って扉を蹴飛ばす母を、僕は黙って見ていた。罵声が飛んでも頭の奥がじんじんと振動するだけで何を言っているのかまるで分からなかった。
 僕は母を相手にしている時以外でも、時々相手が何を言っているのか分からなくなることがあった。それは大抵会話が一方的に投げかけられるようなケースだった。だから説教も授業も必死に聞こうとはしていても、強いられてると思った瞬間、ヒューズが飛ぶように意識が別の方向へそれてしまうのだ。
 僕はそうやってたびたび相手を怒らせたり、信用を失ってきたのかもしれない。そういうことがあると、故意でないにしろ、それは人間として良くないという罪悪感を感じていた。
 高校二年の秋から通っていた個人塾の先生は、僕が話を聞かないのは一種の自己防衛だと言った。
 時田塾では生徒の募集はしていない。知人の紹介でしか生徒を教えないが学区内では名の通った先生で、僕は主に数学をみてもらっていた。先生は母より年下だったが、すさまじく自信に満ち溢れた、中年女性としては少し異様なオーラを放っていた。
 二人とも上から目線で僕に色々なことを言ったが、時田先生の説教と母のそれは根本的に違っていた。時田先生には、正しい正しくないはともかく体系的な理論があった。 先生は僕に勉強だけでなく自立や目標の設定、行動規範まで求めていた。それらは大げさな言い方をすれば、少々の誤差は強引に許容してしまえるだけの揺るぎない信念に基づいていた。
 僕はある意味時田先生のことを完璧に信用していたし、嫌味を言われてもある程度は耐えることができた。けれど、だからこそ、母は時田先生のことを嫌っていたのかもしれない。
 一度だけ電話で母と時田先生が言い争いをしているのを見たことがある。その様子はまるで、傷心で家を飛び出してきた女と思い直すように説得する田舎町の巡査の会話のように堂々巡りで単調で、歩み寄りというものがなかった。
 ですけどね、そうなんですけど、そうならいいんですけどね、はい、と母は頑なに時田先生を拒んだ。
 僕はそれを見て、母は今までもそうやって他人の意見を拒んで生きてきたのではないかと思った。
 そんなやり取りがあった週、先生は僕が問題集を取り出してテスト対策について質問する前に溜め息交じりに言った。
「君のお母さんは、本当に人の話を聞かない人だね」
 時田先生はそうゆうことを臆することなく言った。
 きっと僕の弱さや母の弱さを、頭では分かっても心で理解するには時田先生は完璧すぎたのだ。
 結局、僕は大学入試が終わるまで時田先生の塾に通い続けた。数学だけでも落第点を取らずにいるのは時田先生のおかげだと僕も母も認めていたからだ。
 浪人が決まった時、僕は母と共に時田先生の元を尋ねた。
 その時に時田先生が何を話したか覚えていない。ただ、随分と長話をしたと思う。
 安牌だと決め付けていた大学を落ちたことで憂鬱だった僕は、さばさばとした時田先生の分析を聞いて妙に晴れ晴れとした気分だった。
 思い返すとあの時、時田先生は僕に対してではなく終始母に対して話していたんだと思う。あまり覚えていないのは自分に語られた言葉でなかったからかもしれない。
 時田先生が話し終えた時、母は声を出して泣いていた。それがあまりにも唐突で、僕が無理矢理話をつなげようとしたところを先生に無言で制された。
 僕には時田先生の話のどこが母を揺さぶったのか全く分からなかった。きっと僕のことで僕が想像もできないほどの苦悩を抱えていたんだと思う。
 けれど、僕はそんな母に今まで無い以上の反感を覚えていた。感情に任せた涙は激しい同調圧力のように僕に覆いかぶさってきた。もしそこで安易に共感してしまったら僕は母に自分を主張できなくなってしまうような気がした。
 時田先生が止めていなかったら僕は母に罵声を浴びせていたかもしれない。それがきっかけかどうかは定かではないが、それ以来僕は他人の涙に一種の警戒をおぼえるようになってしまった。もしかしたら、それによって冷たい人間に見られることもあるかもしれない。けれど涙を見せられるということはそう意識せざるをえないほど強迫的に感情を揺さぶられてしまうものでもある。
 帰り際に先生は言った。
「もうここに戻ってきなさんなよ」
 その言葉は高校時代に時田先生から聞いた最後の忠告だった。
 僕は勉強に関して言えば随分生を裏切ってきたが、その言葉だけはいまだに守っている。
 ともかく僕は、男子高校生にありがちでやっかいな問題を色々と抱えていたのだ。
 僕もそれにありがちな方法で対抗したのだけれど、案の定それはうまくいっていなかった。机の上にはやりかけの課題テキストが開きっぱなしで、僕はそれを横目にベッドでうずくまっていた。
 サラからのメールが届いたのはそんな夜更けだった。
 件名にサラの名前が書いてあり、本文には、電話の方が早いから番号を教えてと書いてあった。僕が番号を書き込んで送信すると間もなく着信があった。
「ホシノ君にアドレスを聞いたの」
「あいつが?なんでだろうな」
 僕はホシノにアドレスを教えていなかったはずだ。
「今出て来れる?」
「今すぐ?」
「うん。校門前、来れる?」
 おもむろに時計を見ると午後十時を過ぎたところだった。
 重苦しい気持ちが少し軽くなった気がした。出かけることに躊躇はなかった。
「四十分くらいかかるけど、いいの?」
「来てくれるの?」
「来て欲しいから電話したんでしょ」
「そうなんだけど、親とか大丈夫?」
 サラは今外にいるらしかった。そんなに寒くはないだろうと思ったがサラの声は少し震えていた。
「ばれないように出てくから大丈夫。ところで何なの、こんな時間に?」
「今年流星群がすごいの。だけど、今夜がピークらしくて、こっそり散歩に出て今公園のベンチに座ってるんだけど、一人で見るのがもったいなくてマサカズ君なら来るかなって思って電話したの」
 僕は電話を繋げたままリビングをうかがった。
 うつろに返事をしたが僕の胸は高鳴っていた。忍び足で靴を抱えて部屋に持ち込んだ。
 簡単に着替えを済ませた時、不意にチャイムが鳴った。母親が玄関に向かう。窓を開けてそちらを見ると明かりが点いており、戸口で母と誰かが話していた。
 息を潜めていると虫の音が風と共に揺れていた。流星が地平線に落ちるのを視界に捉えて思わず唇を噛み締める。
 もどかしさを堪えつつ十分ほど待ち、僕は外に出た。
「今なんとか家抜け出したから、待ってて」
 バスの便はまだあったが、帰りを考慮すると自転車しかなかった。
 倉庫にしまわれて埃をかぶった自転車を引きながら天を仰ぐ。四、五日続いた雨模様が嘘のように夜空は澄み切っていた。
 軋むペダルを恐る恐る踏み込んで庭を出る。自転車をこぐのは中学の卒業式の後に友人達と映画を見に行って以来だった。
 車輪が回りだすと僕はぐんぐんスピードを上げて坂道を駆け降りた。交差点でブレーキをかけるまで僕は呼吸をまったくしなかった。それはとても良い気分だった。しんと静まり返った夜の家並みが新鮮だった。戻ってくるはずのない過去にやってきたような既視感が視界を覆った。
 高校に入学してから身近な風景を意識から置き去りにしていたことに気付いた。公園もスーパーもフェンス越しに茂る竹林も変わらずそこにあった。卒業から二年ちょっとしか経っていないのに何十年も経っているように感じられた。
 下り坂の後は途方もなく長い上り坂だった。緩やかだが運動不足の僕にはきつい傾斜だった。そうやってぎしぎしとペダルに力を入れている時、僕は正面に一筋の閃光を見た。
 流星群、それは闇から突然現れたかのようだった。再び天を見上げた刹那、縫うように二つの光が廃ビルの彼方へ消えた。それから続け様に三筋四筋と光が流れ落ちた。
 公園のベンチで一人、それを見つめるサラの横顔が頭をよぎる。僕はペダルを漕ぐ足に力をこめた。交差点で僕は赤信号を無視して突っ切った。
 後ろで急ブレーキをかけるような音がしたが振り向かなかった。掌の汗でハンドルが滑りかけた。数秒後、一台の車が寄り添うように僕に近づいてきた。
 赤い警告灯を見た途端、声をあげそうになった。さっきの車はパトカーだったのだ。背中に痺れるような不安を感じた。ただひたすらにペダルを漕いだ。
 息を切らしながら、僕は中学三年の学級対抗リレーを思い出していた。僕は大して足が速くもないのにアンカーを任されていた。僕は怒号のような声援の中、トップでバトンを受け取った。
 どうやって走ったかあまり覚えていない。ただ恐ろしい何かから逃げていた。吐きそうなのを堪えて逃げた。迫る二番手走者は学年で一番足が速かった。普通に差が縮まれば抜かされるはずだった。けれど僕は、紙一重の差で彼を振り切った。直角に曲がり、一方通行の路地へ入った。サイレンが次第に遠ざかる。なんであの時逃げ切れたのか。炎天下の下で嗅いだ砂の匂いが蘇る。乾いた喉から冷たい高揚感がせり上げてくる。まるで僕を手招きするかのようだった。心の底ではこれを求めているんじゃないだろうか。この浮遊したような感覚の先には何もない。胸がむかむかする。この怪物を振り切った先に何かあるんじゃないか。
 けれど、その何かから逃げ切った時、既に周囲から取り残されているだろう。僕は根本的に間違っているのかもしれない。誰よりも逃げまわって息を切らしているのにいつの間にか置いてきぼりにされる。馬鹿みたいだ。それでも逃げざるをえなかった。一度逃げ始めた以上、どこか安心できる地点までは逃げ続けなければいけない。じゃなければ逃げた意味がない。僕はあらんかぎりの力でペダルを漕ぎ続けた。
 気付いたら、僕は草むらの上に寝転がっていた。四方見覚えの無い場所だった。パトカーは既に追ってきていなかった。首筋から頭にかけて激しく脈打っていた。僕は土手に腰を下ろし息を落ち着かせた。
 携帯の着信履歴が数件入っていた。最初の二件がサラで残りが母親からだった。時刻を見ると既に日付が変わっていた。僕は脱力して草むらに寝転がった。何もかもから逃げてしまいたいと思った。
 サラのことを考えると申し訳なさと切なさに襲われた。しかし、考えたところでどうしようもなかった。学校も親も、サラのことも今だけは脳裏から消し去りたかった。
 僕はふと死について考えてみた。夜露が服にじっとりと染みこみ、体温が奪われてゆく。このまま身体が冷え切って朝までじっとしていたら死ぬのだろうかと考えた。そんなことを思いつつ動くことができなかった。
 ふと寝返りを打つと、濡れて皺のついたアダルト雑誌が目にとまった。僕は立ち上がってそれを手に取った。爪の先で表紙を開こうとすると雑誌はベロリと半分に千切れて地面に落ちた。僕はそれを見て、自分が想像以上に滑稽でちっぽけな存在なように思えてきた。
 僕は雑誌がばらばらになるまで蹴飛ばした。すっきりすると露のついたサドルをシャツの袖でぬぐって再びペダルを踏みしめた。知らない道だと思っていたが、冷静になると大体の場所と方角は予測がついた。
 家に着くと台所の明かりは消え、鍵だけが開いていた。疲れ過ぎたせいか、母親と口論をした時の醜悪な感情は消えていた。
 夜明けが近く空が白んでいた。ベッドにもぐりこむ前、カーテンを閉めようとする間際にその晩最後のものと思われる流星がつぅっと西の空に落ちるのを見た。

 週が明け、僕が保健室を訪ねるとサラの姿はなかった。保健の先生に聞くと、熱が高くて休んだのだと言われた。
 何度かサラの携帯にメールもしたが返信はなかった。深夜の外出のせいで体調を崩したのかもしれない。そう思うとなんだか罰が悪かった。とにかく約束の場所に行けなかったことについて謝らなければと思いながら悶々と過ごしていた。
 それともう一つ気がかりなことがあった。ホシノが校庭で爆破実験を行ったという噂が流れていたのだ。
 爆発があったのは、朝練の生徒もまだ来ていない夜明け頃だったそうだ。校庭に焼き付けられた直径十メートル程の黒い焦げ痕がその威力を物語っていた。
 昼休みに図書室へ行くとホシノがいた。僕は無言でその向かいの席に座った。ホシノはうつぶせになったままウォークマンのイヤホンを外し顔を上げた。
「で、なに?」
「まだ何も言ってないよ」
「何か言いたそうだぜ」
 僕は無性にイライラしていた。それが何に向けられた感情なのか分からなかった。
「今朝の爆発ってホシノがやったの?」
「マサカズにまで疑われるとは」
 ホシノが舌打ちをする。
「そっか、違うんだ」
「いや、違わないけど」
 こうゆう時、何て言うものなのだろうか。非難するべきなのか、笑い飛ばすべきなのか。
「テルミット反応って、分かるだろ?」
「ああ」
「それやったんだ」
 酸化鉄とアルミニウムの粉末を混ぜて点火すると強力な反応を起こす。テルミット反応と言って、高校の教科書にも載っているものだ。おぼろげに思い出す。
「材料はどうしたんだ?」
「理科室からパクった」
 僕がにらみつけると、ホシノはにやにやと手をふった。
「嘘だ、買ったよ。カイロの中身と、アルミ粉はあれだ、父親のツテで色々とな」
 そういえばホシノの親が研究所職員だったか。今更のように思い出す。
「何する気なんだよ、おまえ」
「何にもしたくないんだなこれが」
「嘘だろ」
「そう嘘。本当は全部ぶっ壊してやりたい」
 そんなことはともかく、とホシノは続ける。
「サラが学校来てないじゃないか」
「みたいだね」
「マサカズ、サラに変なことしたんじゃないだろうな」
「してないよ」
 そう言って、ふとあの夜のことを思い出した。
「でも原因があるとしたら、やっぱり僕かもしれない」
「テルミットと一緒にマサカズも吹っ飛ばしてやればよかったな」
 そこで初めて僕は笑った。ホシノも笑った。
「爆発、爆発ってみんな言うけど、結構綺麗なんだぜ」
「花火みたいな?」
「まぁ間違ってない。花火は花火でも、とびきり危ないやつ!ぶわって火柱が上がるんだ」
 ホシノは新しいゲームに夢中な子どもの様に、両手でそれを表現した。
 テロの予行演習もどきの行為をしたというのにホシノの日常は変わらない。それはホシノが誰にも目撃されず一人で行ったからだ。
 教師達はホシノをどうすることもできない。噂が噂でしかない以上手出しできないだろう。これでいいのだろうか。ホシノは何かを変えたくてこんな馬鹿な真似をしてみたのではなかったか。
 僕の疑念をよそに、ホシノはけらけらと笑い続ける。
「マサカズ、二人でやろうぜ。もっと派手なやつ」
「やめとくよ」
「怖いのか」
「怖いよ」
 べつに怖くはなかった。けれどホシノは間違っている。ホシノも何かから逃げて逃げ切れずに走り続けているのかもしれない。僕と同じように。
「まぁいいや。今度はこそこそやらないから、ド派手なの期待しといて」
 僕はやれやれと曖昧に頷いた。
 僕は勿論、ホシノの言うことを現実的に考えていなかった。そもそも、ド派手に、だなんて誰が信じるだろう。
 ホシノが宣言を実行したのは、翌週行われた生徒会選挙演説の真っ最中だった。
「みなさんの清き一票を」
 演説は校庭で行われていた。馬鹿みたいな決まり文句を言い終え、候補者が入れ替わり立ち代わり壇上に上がる。
 高校の、特に僕たちのような進学校で生徒会に立候補する人の気が知れなかった。彼らは彼らなりに頑張っているのかもしれないが、少なくともその活動によって僕が恩恵を受けることはほとんどなかった。
 そういったことは僕だけでなく、ある一定の割合の生徒が感じているようだった。特に三年生の列では白けた空気が漂っていた。校庭まで駆り出されたものの、何が始まるか聞かされていない様子の奴もいた。
 縮れ毛の茂木が、取り巻きのイジメグループに何か言われていた。彼はいつになく嫌がっていた。よほどのことを指示されたのだろう。
 僕はその時ホシノがいないことに気付いていた。どこ行ったんだあいつは、と教師がイラついた声でつぶやいていた。
 それが起きたのは、最後の候補者が大義そうな面で壇上に上がり、礼をしたのと同時だった。
 屋上から何かが上空に打ち出された。ロケット花火だった。屋上がぼうっと明るく燃えていた。溶接作業の時に発生する火花のようだった。
 クラスの何人かがそれに気付きざわめきだした。それから数秒後、突如、ボフっという破裂音がこだまし火柱が上がった。テルミットが何かに引火したのだ。
 火柱が黒煙に変わった。鼻がツンとするような石油臭が広がっていた。まるで戦争が始まったようだった。
 クラスメートは火の粉や粉塵を避けるように逃げまどっていた。しかし、彼らの大多数は呆れるように笑っていた。
 演説をするはずだった男子生徒と若い女性教諭が、口をぱくぱくさせて震えていた。当たり前の反応がどこか滑稽だった。
 あそこにホシノがいる。
 僕は人を押しのけ昇降口へ向かっていた。火災警報装置が至るところ鳴り響いていた。
 石油の臭いがした。僕は呼吸を止め、走った。
 数名の教員が後を追って走ってきた。僕は彼らより先に屋上に辿り着かねばならなかった。
 もっと派手なやつって、本当にやるやつがあるかよ。
 何故か、あの流星の夜を思い出していた。走りながら僕は、自分が震えながら笑っていることに気付いた。
 記憶が断片的にとんでいる。気づいた時には非常階段を駆け上っていた。僕はまだホシノに話さなきゃいけないことが沢山あるのだ。具体的に何というわけではないけれど、たしかに二人はどこか根本的に似通っていて、二人には分岐点があって、限られた選択肢の中で逃げて逃げて苦しんで、結果こんな風に追い詰められている。でも二人の欠陥は、ちょうど互いを埋め合わせる具合になっているかもしれない。
 それを伝える時間さえ、刻一刻と失われていく。いや、これがホシノなりの着地点だったのか。ふざけんなよ、意味ないだろこんなことやって、と叫びながら僕は、どうしようもなく愉快だった。
 辿り着いた時、そこで感じた熱は火葬場を思わせるものだった。色々な意味で終わった、と僕は感じた。何か言おうとしたが声にならなかった。何か言おうとしたが、喉が裏返り歯を食い縛った。悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、悔しいのか、多分そのすべてだった。
 ホシノは引き攣ったように笑っていた。
「見たか?」
「見たよ」
「あー、びっくりした」
「そりゃ僕のセリフだ」
 ホシノは貯水槽にもたれながら、開きっぱなしの傘をくるくる回していた。
 爆発の衝撃を避けるためだったのだろう。傘は焦げ付き穴が開いていた。
「死ぬかと思ったぜ」
「死ねば良かったのかもね」
 僕はもっとホシノと話していたかった。
 不意に怒号が飛び交う。
 星野、やっぱりお前かっ!大木も共犯かっ!何があったんだっ!
 僕達は本当に、色々な意味で切羽詰まった状況だった。大人達が屋上出入り口に詰めかけていた。
「星野、大木、そこを動くな」
 担任の体育教師が無表情でにじり寄ってくる。その時だった。ホシノが傘の柄を高く振りかざした。やめろっ。叫ぼうとするが言葉にならない。
 担任が僕の左肩をがっしりとつかんでくる。すべてがスローモーションに見えた。ホシノが担任を打ち倒した。綺麗だ、と思った。ホシノだけが躍動して屋上を駆け回っていた。僕はまるで傍観者だった。
 火災報知器がけたたましく鳴っている。足元を見ると、担任が耳を押さえうずくまっていた。ホシノはまだ何か叫んでいた。ホシノが教員達を振り切り、屋上の手すりに右足をかけるのを見た。ホシノは僕を横目に見てにやりと笑った。
「そんじゃ、まぁ……」
 ホシノが何と言ったのかすべて聞き取ることはできなかった。
 次の瞬間、ホシノの身体は宙に舞っていた。それが僕の見たホシノの最後の姿になった。

コメント