二つの世界の境目で

福原大輝

 二つの世界の境目で 竹林の中で目を凝らしたら、あの娘が見えた。遠くからでもその輪郭ははっきりとしていて、そこから歌が聞こえてくる。彼女が歌っているに違いない。真っ暗闇の中で物陰をつたい、その歌が導くままに近づいて行った。何の歌なのだろうか。優しく彼を安心させる歌声だった。
 左から右へ見渡す限り木の柵が建てられている。それが彼女との境界線だった。その向こう側、彼女はまっすぐ並んでいるはずの柵を分断するように立っていて、柵は彼女をかわすように境界線はゆがんでつながっていた。彼女がいるところだけが向こう側の世界からこちらの世界にせり出していて、そこは彼らがめぐり会うための場所のようだ。
 とうとう彼は、そこまで近づいた。彼が手を伸ばし境界を越えるとき、膜のようなものを貫くのを感じた。その感覚が消える前に彼女に手が届く。
 その瞬間、自分は消えてしまうということを彼は知っていた。だけどそれでも構わなかった。どうしても彼女と会いたかったからだ。
 ――もう少しで触れられる。そう確信して、彼は心臓の鼓動をつぶさに感じた。
 ユウジはそのとき、目を覚ました。外は明るく、小屋の壁の隙間から日が差し込んでいた。夢の途中で目覚めたことをうらんでユウジは悶えた。
「いつもここで終わるんだよな」
 必ずといっていいほどあの夢を見るときは、あの娘に触れるその直前に、夢は終わってしまう。そのことが、自身と彼女とは神様から絶対的に引き離されているような、そんな気にさせる。無理にしがみつくように、夢の続きを思い出し、あわよくばもう一度その夢の中に入ろうとしたその時だった。
「おはよう!!」
 その声が響いて、幼馴染のレイコが踊るように部屋に入り込んでくる。ユウジは違った意味で再び悶える。
「うるさいうるさい!」
「おはよう! 朝なのよーー」
 ユウジが毛布にくるまるそのまわりを、レイコは小躍りしながら走り回っている。彼はそれをにらみつけた。
「なんで母さんはお前を部屋に入れるんだ! もう出ていけ!」
「早く起きて学校行くよ!」
 レイコはイライラするユウジのことはつゆ知らず、彼が入っている布団を何かで打ち付けている。彼はいつもこのようにレイコにたたき起こされる。
 ユウジがようやく起き上がりレイコの持った棒切れをにらみつけたが、彼女は意に返さずもう一度言った。
「おはよう!」
 ユウジの家は、竹林の生い茂るその隙間に建っていた。周りには、何の音もなくひっそりとしていたが、鳥が遠くで鳴いているのかもしれない。竹の間をすり抜けるように歩いていくと、その隙間がだんだんと大きくなって歩きやすくなる。やがて茅葺屋根の民家がいくつも見えてくる。その民家を取り囲むように灰色の墓が建てられている。
 つきあたりから大きな通りになって、かなり歩きやすくなった。早朝は人通りが多くなっていて、同じように学校へ行く人の姿を見ることができた。変わらず道のわきには墓がいくつも現れる。
 大通りから左側に目を向けると、鬱蒼とした竹藪の中、それが途切れる向こう側に、大通りと平行に整備された道がある。木製の積み荷を背負っている人や、荷車を引く人が地に足をつけて歩いている。村と村をつなぐ道であったため、彼らは遠くの仕事先に向かうのかもしれない。ユウジはその中にあの娘がいないかと見つめていた。それに気づいたレイコは声をかけた。
「ユウジ、何見てるの?」
「別に」
 ユウジが目をそらすので、レイコは不快に思い強い語気で、そして突拍子もなく言った。
「わたしたちの世界とは違う人たちだよ」
 違う人、とユウジは繰り返してつぶやいた。
 「どう違う?」とユウジが問いかけると、レイコは黙り込んでしまった。
 ふん、と鼻息を放ちユウジは言う。
「みんなあの人たちとの違いを説明できないんだよ」
 ユウジは見下すように言い、先を急いだ。いつだって彼はレイコにそう言って、彼女は黙っている。もう一度ユウジは竹藪の向こうの道を見上げた。
 この距離であれば「向こう」からこちらを見ることは難しいだろう。彼らにとってユウジたちの存在は薄すぎるからだ。ただ、ユウジたちと「向こう」の人々の違いは、それくらいのことだとユウジは声を上げて言いたかった。でもそうはしなかった。周りの人はレイコよりもずっと強く、彼をつるし上げるように否定するだろうから。
 竹藪の向こうにはいまだ平行に道が続いていた。その道の途中で、夢の中にも出てきた光景を見た。「向こう」の道から飛び出た空間がある。「向こう」の人からすれば、その空間から見渡す限り周囲に竹林だけを見ることができる景色のいい場所だろう。ユウジたちからすると、「向こう」と最も距離が近い場所で、顔を近づけたらユウジたちの存在が希薄であったとしても、もしかしたら見えてしまうかもしれない。
 小さいころはみんながあの場所に近づきたがった。いけないと言われているからこそ、怖いもの見たさで「向こう」の世界をのぞいてみたくなってしまうのだ。
 「向こう」から同じタイミングでだれかがのぞいていたら、こちらが見えるのだろうか? 「向こう」の人と目が合ったらどうなるのだろう? だが、ここを飛び越えることで「向こう」とつながれるのかもしれない。そんな恐怖心と好奇心の間で幼い子供たちは揺れていた。
 怖くても期待していた。幼いときの記憶をユウジは思い出していた。世界を隔てているのは、ただの薄い膜であった。その膜に触れ、その存在を知ったのはきっとユウジだけだろう。
 大通りは学校へ行くユウジたちのような歳の人々だけになって、ユウジの知った顔があり、彼はレイコと離れて歩いた。レイコは彼を視界から出さないように追いかけたが、やがて彼は友達のタモツを見つけて駆けていったので、悔しそうにあきらめた。
 やがて墓の密集したその中にユウジたちの学校があった。それはユウレイたちが通う学校で、ユウレイの先生がユウレイの生徒たちに対して授業を行った。

 ユウジは窓の外を見ていた。外に広がるのは灰色に塗られた墓だけで、それ以外の景色はない。それでも彼はその光景を見つめ続けた。
 夢の中ばかり思い出していたユウジの耳には、授業の内容は入らなかった。再び彼女に会うことができた、その感動をずっとかみしめていた。
 彼女を最初に見たのは、「向こう」とつながれるあの空間でのことだった。まだ学校に通っていない歳のときに、幼い子供たちの例にもれずユウジはあの場所に興味を持ち、真夜中一人であの場所を見に行った。
 すると、その「向こう」にも一人だけいた。
 ユウジと同じ背の女の子だった。彼女はあの空間に一人で立ち、こちらを見つめていた。こんな真夜中にどういうことだろうと、今のユウジなら警戒すると思う。
 だが、次の瞬間彼らは求め合うように手を伸ばした。ユウジはそのとき境界を越えた。手が触れたそのとき、ユウジは別の世界にいるような気分になった。だから、その時の感覚は思い出そうとしても思い出せない。
 手をつないだ後、彼女は彼に歌を歌って聞かせた。何の歌かは分からないけどそれは忘れられないものとなり、ユウジの心に今も響き続けている。その歌声がユウジを夢の世界に導いてくれた。夢を見る度、夢の中の彼女も彼と同じように年を取っていった。
 最初に会ったそのとき、二人は眠くなって、そして別れた。別れた直後にユウジは両親に発見された。どこに行っていたか、聞かれても彼は口を閉ざした。悪いことをしていると幼いユウジでも分かっていた。竹林の中、ユウジを探していた村の捜索隊に合流し、両親はユウジと頭を下げた。レイコもいて、心配で泣いていたと思う。
 この村の掟というものを、子供たちは学校に入り一年生になって最初に教えられる。
 人間の村にいる人間に触れぬこと。それに背いた者は消えてしまう、と。
 それを習ってからというもの、ユウジは違和感を抱き続けている。彼は「向こう」の世界の、人間に触れたことがあるというのに、消えずに存在している。
 掟は嘘だ、と彼は悟った。それを破ったことのある彼だけが、気づくことのできる真実だと思った。そして彼は、自分も「向こう」にいる人間と変わらないと思うようになった。
 みんなは消えることを恐れているから、掟に背かない。だから偽の掟を信じ続けている。ユウジだけが知っているあの感覚は特別なことだった。
 
 放課後、嫌がるレイコを先に帰らせて、ユウジはタモツを呼んだ。
「今日彼女が来る」
「レイコか? いつも来てるだろ」
 違う、とユウジは大声を出したので、タモツはなだめた。
「わかってるよ。人間のあの娘だろ」
「人間って言い方やめろ」
「悪い。わかってるって」
 お前は分かっていないとでもいうように、ユウジはタモツをにらみつけていた。タモツはやれやれと肩をすくめている。
「なんで彼女が来ることがわかる?」
 タモツはまっとうな疑問を口にした。
「勘だよ」
 ユウジ自身、なぜなのかは分かっていなかった。これは夢で見たからという予感でしかない。下手すると、会いたいという気持ちがそう思わせているだけかもしれない。それでも自信を持って言うのは、タモツに自分自身の感覚を共有してほしいからだ。
 ユウジの答えにタモツは何の疑問も持たずにうなずいたが、視線をさまよわせた。
「でもお前に消えてもらわれたら寂しいぜ」
 タモツは眉をハの字にして本当に悲しんでいる様子だった。彼を安心させるようにユウジはつぶやいた。
「掟が本当かどうかなんてわからないだろう?」
「そうだな。ユウジは大丈夫だと言ってたからな」
 タモツは荷物をまとめて、立ち上がろうとしたからユウジは引き留めた。
「どうしても会いたいからさ」
「わかってるよ」
 見つめ返すタモツに対して、ユウジは言った。
「俺たちこのままじゃだめだと思うんだ。村の掟だからってあの人たちと関わることをしないのは」
 タモツはその言葉に少し納得して、考えざるを得なかった。真剣な顔で再び座りこんだので、ユウジはしめたものだと計画を話し出した。
「彼女は必ずあの場所に来るはずなんだ」
 「向こう」の人々が歩く竹林の道の、少しこちらに出っ張っている場所。そこはユウジたちと「向こう」の人たちの絶対的な境目を、飛び越えられる場所だった。そこで今夜、ユウジは再び彼女と会うのだ。計画といっても、そこにタモツがいてくれればいい、それだけのことだった。
 そこで、とユウジはタモツの顔をのぞき込み言った。
「今日、俺が消えないところを見ていてほしい」

 真夜中、ひっそりとした家を出て、竹林の中、音を立てずに進む。幼いときに、同じように親に黙って家を出たことを思い出していた。あのときも、月がきれいで道を明るく照らしていた。
 そして大通りに出ると、墓の影からタモツが現れた。両手を広げてふざけた様子のタモツの前を、ユウジはそっけなく通り過ぎる。
「驚かんな」
「そんな暇ないんだ」
 残念そうにしているタモツをユウジはにらみつけた。二人で大通りを進み、タモツが辺りを見渡し誰もいないのを確認している。ユウジは大通りと平行にある「向こう」の道を見つめ、竹林の隙間から彼女の姿を探した。もう来ているかもしれない。待たせてはいけないと、彼の足はどんどん速くなる。
 とうとうあの場所が見えた。月明りがちょうど照らしている。そのとき物音がして振り返ると、後方のタモツがこっちは大丈夫だというように、手を振った。「向こう」の道に目を戻したそのとき、彼女が現れたのを確認することができた。
 ようやく会うことができた。はやる気持ちを抑えて彼は用心深く彼女のほうへと近づいて行った。もうすっかり彼女の姿のその輪郭を指でなぞることができる。少しだけ丘を登って、木の柵にそっと触れた。
「ユカ」
 彼女の名前を呼んだ。
 しかし、どうしてか彼女までの距離が遠い。ユウジは木の柵に触れる位置まで来ているのに、ここから手を伸ばしても彼女に届かない。
「ユカ」
 そう呼ぶが彼女は振り向かない。淡い水色の浴衣とその柄も見ることができるが、彼女は背を向けている。
 ユウジは二人を遮る木の柵に寄りかかった。彼女を呼びながら、手を伸ばす。
 そのうち柵にもたれかかるようになり、彼女に届くように精一杯に体を伸ばす。と、そのとき、彼は膜を貫いてそのままその中に引き込まれるように、体が動き、気づいたら膜を越えて、「向こう」の道に立っていた。
 彼は「向こう」の世界に来てしまったと高揚し、夢の中のように胸の高鳴りを感じた。ただそれは現実のもので、鼓動が自分の中心を迫ってくる感覚がはっきりとした。
 彼女は道の真ん中で振り向く様子がなく、黒髪に白い頬だけが見え、月夜に光っている。
 もう彼は名前を呼ぶことをせず、彼女に近づいて行った。そして、鼓動も感じられるような距離まで彼は近づき、振り返らない彼女を無理に振り向かせるために肩に触れようとした。
 突如として、掟を破る恐怖が彼を襲った。幼かったあのとき触れた手はもしかしたら夢の中だったかもしれない。それを現実と信じて、彼は掟を嘘だと思っているだけかもしれない。そんな疑惑と自身が消えてしまう恐怖が少し彼を滞らせて、彼の伸ばした手がおびえた。それでももう彼は自分自身を止めることはしなかった。
 肩をつかみ手に力を込めると、彼女は思ったより簡単に振り返り、彼を見上げた。その目は突然のことにおびえているわけではなく、彼を威圧していた。
 彼女はレイコだった。水色の浴衣を着て花飾りを頭に着けていた。その姿は普段とは見違えるようであったが、それはユカではない。ユウジは自分自身が掟を破らずに済んだことに安心してしまったこと、その安心に対する自己嫌悪がぶつかって、動揺を隠せなかった。
「なんでお前が……」
 レイコは黙って彼を見上げていた。辺りは静まり返っており、虫の声も聞こえない。通行人の姿はないが、このままここにいるわけにはいかない。「向こう」の人に見つかったらどうなるかわからないのだ。ただこれだけは聞きたくて口を開いた。
「怖くないのか」
 レイコは黙っているが、静かに首を振った。その目は確かにおびえた様子はない。おびえていたのはユウジのほうかもしれない。そのとき、タモツの声がした。
「ほら、お前ら早くいくぞ!」
 その声に二人はハッとした。膜の外では、タモツが手を振っている。その顔は焦っている様子だった。思わずユウジはレイコの手を取って膜の外へと出た。そのとき、さっきは気づかなかったが、何とも言えない感覚で彼の全身には鳥肌が立った。丘を駆け下り、いつも歩いている大通りに戻る。タモツがいそいそと走っていくのに合流した。
 レイコはユウジに手を引かれながら、彼の横顔を見上げていた。その顔がため息を大きく吐き出すのを彼女は見逃さなかった。彼の息遣いを感じながらレイコは思った。
 ――生まれ変わって、あの娘になれたらいいのに。
 三人が駆けていく音だけが辺りに響いている。月夜はこのままずっと続くかのように、空に張り付いたまま三人を照らしていた。

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