イノシシ

氷川省吾

 私が通っていた大学は山のすぐ近くにあった。近年は山に入る人が少なくなったせいで、日本全国の山でイノシシやシカ、クマの数が急激に増加し、人里にも現れて問題になっている。大学近くの山地も同じで、動物が街に現れて警察や猟友会が出張ることがしょっちゅうある。
 大学の構内でもイノシシを見かけることがあった。実験農場では、イノシシが入ってこないように、夜は絶対に施錠しろと但し書きが描かれている。私自身もイノシシを見かけることは何度かあったが、幸いにも距離が離れていたし、こちらから近づくことは絶対になかった。
 ただ、一度だけ至近距離で出会ってしまったことがある。その時のことは今でも忘れられない。
 あれは春先で、何かの用事で大学を出るのが10時を過ぎてしまった時のことだった。夕飯は帰りにどこかで食べようと考えながら門へ向かっていると、前方から動物が歩いてくるのが見えた。犬よりもかなり大きく、蹄の音がする。だが、馬よりは小さい。すぐにイノシシだと気づいた。それがまっすぐ、こっちへと向かってくる。
 とっさにどうしようかと考えた。あれが何かの拍子で突進してきたら、とても逃げられるものではない。人間よりもよっぽど足が速く、小回りも利く。体当たりされても噛みつかれても、怪我は避けられない。運が悪ければ殺されてしまう。
 後ろを向いて走るのは怖かったので、ひとまず脇に避けて道を譲った。なるべく離れるために道の端まで寄り、すぐに走り出せるように身構えておく。
 イノシシはこちらを認識しているのかわからないほど悠々と、よどみなく歩いてくる。近づくにつれ、私はイノシシの毛にいくつもの禿げがあるのに気が付いた。年老いているせいかと思ったが、すぐに疥癬だと思い当たった。ヒゼンダニという非常に小さなダニが、皮膚の数十平方㎝ごとに、何十~何百ももぐりこんでいる。場合によっては数百万匹も。人間もかかるし、シカにも、犬にもかかる。動物の数が増えているせいで、同じようにこの病気も増えている。それほど珍しいことではない。
 このイノシシは禿げが体中に広がっており、ずいぶん重症だった。人間ならば死ぬことはないが、犬やタヌキなら命にかかわることで知られている。もしかすると、こいつも長くはないかもしれない。横を通り過ぎていくイノシシを見ながら、私はそんなことを考えていた。
 イノシシは最初に見つけた時と同じスピードで、私の横を通り過ぎようとしていた。近くで見ると、その大きさに驚かされた。体重は100㎏を優に超えているだろう。
 ふと、人の声が聞こえた気がした。かゆいとか、そう言った気がする。誰かが近くにいるのかとあたりを見回したものの、私以外の人間はいなかった。
 イノシシの方を向くと、そいつの脇腹あたりにある大きな禿げが目に留まった。そこには相当数のダニが入っているらしく、皮膚が分厚く角質化して、歪な盛り上がりができていた。
 そう思った時、脇腹の盛り上がりが〝ぐぬり〟と動いた。横向きの裂け目が二つ生じて大きくなり、中から濡れた白い球が姿を見せた。中に黒い丸がある。眼球だった。その下に新しく横向きの大きな裂け目ができて、ぱくぱくと開閉し、「かゆい」と言葉を発した。
 脇腹のしゃべる腫れ物を気にするでもなく、イノシシはゆっくりと歩き続け、どこかへと姿を消した。
 部屋に帰った私は体を入念に洗って、布団には乾燥機をかけた。

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