「まずは水ね」
風呂に入る宣言をした翌日。誠が仕事場の一つにしている無人機オペレーションルームに現れた秋子は、開口一番にそう言った。
誠の仕事は採掘用機械の管理だ。オペレーションルームで機械の働きぶりを管理し、必要なら遠隔操作を行う。定期的に機械の整備や部品交換をしてやるのも彼の役目だった。
誠が座っているコンソールの画面には、部品を修理して試験運転をさせている採掘ドローンのカメラ映像が映っている。ドローンが送られているのは、氷を採掘するのに使っている坑道の側坑にあたる部分だった。氷を採る範囲を拡大しようとの案が出ており、このドローンはその調査もかねてここに送られている。
「秋さん、仕事は?」
「そんなもん終ってるに決まってるでしょ。私のティラピアとナマズとトマトとナスが病気したことあった?」
「まあ、そうですけど。で、何をしろと?」
「氷採ってほしいの。側抗の試験採掘なら多めにとっても平気でしょ」
「早速風呂の準備ですか」
それにしても、今がちょうど氷を勝手に取っても問題がないタイミングであることを、いつどうやって知ったのか。自分の仕事とは関係がない分野の計画が完全に頭の中に入っているらしい。
「その通り。普通のバスタブに並々と一杯って感じで100㎏――地球での重量でね。魚とか野菜に使うのと同じタンク、6番に入れといて。私がろ過処理するから」
「まあ、いいですけど」
誠はコンソールから採掘の指令をドローンに送った。対象鉱物の種類と大まかな手順を指定してやれば、あとは機械が判断して採掘を行ってくれる。誠の仕事は、それがちゃんとうまくいっているかどうかを見守り、異常が生じた場合は対処することだ。機会がやり始めればあとは見ておくだけでよくなる。
「じゃあ、お願いね」
言い残して、秋子は姿をくらました。
その日の午後。機械作業室でロボットの部品を交換していた誠とアレックスのところに、大きな黒いものを持った秋子が現れた。
「どっこいしょっと」
そう言って秋子は担いできたものを床に下した。直径1m程度、高さが20cmほどの、つぶれたドラム缶とでもいうべき物だった。実際にこれはドラム缶と同じ使われ方をする道具で、炭素繊維を主にした素材でできている。大きさの割にはかなり軽量で、火星では女性でも楽に運べる重さだ。
「秋さん。オチが見えてきましたよ」
「何やってんだ?」
誠は秋子の意図を理解したが、アレックスには分からない。日本人でも分かる人間の方が少なくなっている。
「分かってんなら話が早いわ。通電して」
「はいはい」
誠は棚の一つから通電器を取り出した。電源をバッテリーにつないで、通電器から伸びるコードを「つぶれたドラム缶」の縁にある端子に接続する。電源を入れると、風船に空気を送り込んだ時のようにつぶれたドラム缶が元の形へと復元された。炭素繊維と形状記憶合金を組み合わせた素材で作られたこの容器は、一定の電圧で電流を通すことで元の形にしたりつぶしたりできる。劣化に強い上に、軽くて省スペースなので、宇宙開発の現場では鋼鉄製のドラム缶よりも広く使われている。
「秋さん。分かってると思うけど、それを直火にかけるのは無理ですよ」
立ち上がったドラム缶を見て満足そうにする秋子に、誠は釘を刺した。
「おいおい、マジか。それがバスタブかよ」
使い道に気付いたアレックスが呆れて見せる。ドラム缶風呂では水を入れた缶を直接火にかけて湯を沸かす。それに比べて、炭素繊維ドラムは直接火にかける使い方を想定した造りになっていない。熱の伝導が悪いのだ。
その上、火星基地での火の取り扱いは厳しく管理される。万が一火事で焼け出されれば、空気もない極寒の世界に放り出されることになる。酸素がなければいずれ鎮火するが、その時には人間が呼吸する酸素もなくなってしまう。ひとたび火事が起きれば、そのまま酸素不足で全滅という事態さえ起りえるのだ。
火星では一切の喫煙はできないし、電子タバコでさえ良い顔はされない。溶接などの高熱を扱う作業は、完全密閉が可能な耐熱エリアでのみ許可されている。誠たちがいる機械工作室がまさにそうだった。
「そりゃ百も承知よ。とりあえず、これはここに置かしてもらうけど、いいでしょ?」
「まあ、それぐらいいいですけど」
やったね。そう言いながら秋子は嬉しそうに出て行った。
「水は用意して、バスタブはこれ。で、どうやって湯を沸かすんだ? IHヒーターと鍋ってわけじゃないよな」
アレックスが誠に聞くが、誠もまだ見当がつかなかった。
『ID:1856-11875。アキコ・オガワ。エアロック解除』
管理システムが秋子のIDを認識し、エアロックのドアを解除した。赤褐色の砂ぼこりとともに、宇宙服を身に着けた秋子が入ってくる。背中には30リットル入り袋ほどのサイズがあるコンテナを、バックパックフレームに乗せて背負っていた。誠にドラム缶を復元させた翌日、秋子は午前中いっぱいを野外作業に使う申請を取っていた。
「欲張りすぎたな。火星でもこんだけ運ぶと重たいわ」
そう言って、担いできたコンテナを降ろし、床からせりあがってきた外部採取物用エアロックに投入した。エアロックが閉じて、中身を採取物用レーンに運び入れる。
荷物を降ろすと次のエアロックに入り、バックパックフレームと宇宙服を脱いで洗浄ロッカーへと入れた。
着替え終えると、その足で入退室管理室へと直行した。今日の当番をしていたジャックが、コンソールを見て首をかしげている。
「秋子、何を持って帰ってきたんだ? 石……、だよな?」
「見ての通り石。玄武岩。あの中に一杯」
画面にはふたを開けられたコンテナの中身が映っている。まさにまごうことなき石がぎっしり詰まっていた。大きさはどれも小ぶりなメロンぐらいで、形は不均一。地球上では70㎏以上になる量だった。
「集めんの大変だったのよ。いい感じのサイズの奴があんまりなくて」
そう言いながら配送システムを操作し、荷物の行き先を洗浄室・資源サンプルエリアの順に設定した。洗浄エリアでは水の代わりに高圧で液化した二酸化炭素を使って土埃と有害な金属類を洗い流す。きれいになった石は資源サンプルエリアで受け取れる。
「いったい何に使うんだ?」
「あれで風呂沸かすの。今夜は待ちに待った風呂だぜ!」
機嫌よく鼻歌を歌いながら、意味が分からないままのジャックを残して管理室から出て行った。
「ドクター、ティラピアの様子ですけど……」
その日の夕方。作物栽培と魚類養殖を行う生産ユニットに入ったアントニオは、そこまで言って動きを止めた。
魚を養殖するための密閉水槽がいくつか立ち並ぶ場所の真ん中に、セメントなどを入れる大きなトレーが置かれ、中に黒いドラム缶が突っ立っていた。隣には台車に乗せられた水用タンクとポンプ、そして野外で機材を覆うのに遮蔽シートが置かれている。
この部屋を仕事場にしている秋子はというと、脚立に乗って水槽に水を供給するための配管にロープを結ぼうとしている最中だった。
「お、トニオさん。いいところに来た。ちょっと手伝って」
秋子はアントニオを呼んでロープの端を手渡した。
「ちょっとこれを、配管の補強リブのところに結び付けて。ちょっと高くて届きにくくてさ。反対側も同じようにして欲しいの」
「はあ……」
言われるままにアントニオがロープを渡すと、秋子は遮蔽シートを広げた。シートの端には、地面に撃ち込んだペグに引っ掛けて固定するためのフックがいくつもつけられている。それをカーテンフックのように使ってロープに引っ掛け、ドラム缶の前に垂らした。
「……これは、一昨日おっしゃっていたお風呂ですか?」
「そう。火星初の風呂。で、何の用だっけ?」
「ああ、そうでした。明日のお昼にティラピアでペスカトーレを作ってみようと思っているんですが、使えそうな個体はは育ってますか?」
「ペスカトーレ。良いわね。4番水槽の大きい子が3匹使えるわ。じゃあ、これからお湯沸かしてくるから、それまでに取っといてね」
「お湯ですか……」
意気揚々と出ていく秋子に何をどう言っていいのかわからず、残されたアントニオはティラピアを取る網を手にした。
機械工作室の中で、誠は熱処理炉の様子を見ていた。普段は3Dプリンターで作成した金属部品を熱処理するために使われている。基本的には部品作成作業に応じて自動で処理されるようにセッティングしてあるが、使っていない間は手動で設定して使うことも出来る。今回はベアリングやナットではない物を焼いている。自動設定だとエラーが出て即座に停止させられてしまう。
設定した時間がたち、中で焼いていた物がコンベアで搬出されてきた。今日の昼に秋子が拾ってきた石が、400度の高温に熱せられている。まごうことなき焼き石だった。
火星で焼き石を作らされる人間って、今のところ俺だけだよな。そんなことをつぶやきつつ、誠は高温物取り扱い用のマニピュレーターを使って、焼き石を耐熱バケットに放り込んでいった。そのままバケットを持って、液体取り扱い区画に向かう。
ここには、同じような耐熱バケットに水が貯めて置いてあった。一昨日取ってきた氷の半分だ。残りは秋子が「風呂場」に定めた養殖場に持っていってある。あそこなら水がこぼれても問題がないし、除湿も出来るからという理由だ。
注意しながらアツアツの石が詰まったバケットを水の横に下すと、秋子が作業所に入ってきた。
「どう? 出来てる?」
開口一番にそういって、誠の肩越しに焼き石の様子を確かめる。
「これから沸かします。ちょっと離れてください。危ないかもしんないので」
誠は作業時に使う耐熱長手袋とエプロン、フェイスガードを付け、マニピュレーターを手にした。熱の塊になっている焼き石を、バケットの水へと一個ずつ、そっと入れていく。
熱くなった玄武岩が水に触れるたびに、ジュッいう激しい音がして湯気がでた。
「いいねいいね」
その様子を見た秋子がはしゃぐ。時折かき混ぜながら石をすべて入れ終えると、バケット内の水は沸き立っていた。
「よっしゃ、成功! 風呂場Go!」
さも当然とばかりに誠に指示する。自分でやってくださいよとは言うものの、いつものようになぜかうやむやになって、誠が運ぶことになった。煮えたぎる湯と石が入ったバケットを台車に乗せて、養殖場へと運んで行った。秋子は湯がこぼれないように注意しつつも、実に楽しそうにしていた。途中で女性用の2人部屋に寄り、着替えとタオルを取ってくる。
「あら、お風呂?」
メイが聞くと、秋子は満面の笑みで手を振って見せた。
ティラピア入りのケースを手にしたアントニオと入れ違いに養殖場に入り、誠は湯の入った台車を“風呂桶”の横に止めた。
「じゃあお湯入れて。かき混ぜるから」
秋子は誠にポンプを渡し、自分は長い棒と温度計を手にして脚立に乗った。よく見ると、棒は野菜用の支え棒だった。
誠がポンプを動かして、水が半分ほど入っていたドラム缶にお湯を送り込んでいく。秋子は棒で冷たい水とお湯をかき混ぜて温度を一定にしつつ、温度計に目を光らせていた。
やがて、周囲が風呂場の雰囲気をまとうようになり、秋子の合図で誠は湯を送り込むのを止めた。水槽が並ぶだけの養殖場を、温かい靄が満たしている。
「火星風呂、完成! 風呂なしの生活よ、さらば」
湯気を出すドラム缶を前に、秋子がガッツポーズをとる。そしてくるりと誠に向き直った。
「誠ちゃん、ありがと! 多分この感動は分かると思う。入りたかったら石は好きに使っていいから。でも、ここからは男子禁制の世界」
着替えとタオルを持った秋子は、遮蔽シートを引いてマジシャン張りの素早さで自分と風呂を隠した。
「覗きに来たら殺すからねー」
言う端から衣擦れの音がして、ジャンプスーツ、Tシャツ、そして下着までが乱雑に放り出されてくる。
「そういうのは恥じらいってもんを持ってから言うセリフだと思いますよ」
言い返しながら外に出る誠の背後で、湯が跳ねる音が盛大に聞こえてきた。
養殖場を出たところで、今度はメイと鉢合わせした。手には着替えとタオルが乗っている。
「出来たなら入らせてもらうって話になってたのよ。だから水とお湯は大目に取っておいてくれたって。まあ、二人分で限界かもね」
ちょっと申し訳なさそうに言うメイの様子からすると、彼女は誠も風呂に入りたいと言い出すと考えているようだった。実際のところ、最初は別にそれほどでもなかったのだが、いざ目にしてみるとその魅力は抗いがたくなってくる。明日は俺も氷を大目に取ってこよう。そんな思いが誠の頭に浮かんだ。
火星で風呂に入る。偉業とは言うには微妙かもしれないが、人類史上初めてのことではある。こうして小川秋子の野望はまた一つ達成され、彼女は「火星で一番風呂に入った女」の称号を手に入れた。
地球から2億3000万㎞離れた場所に、本格的な風呂場が作られるのがいつになるのかは、まだ誰も知らない。
コメント