蝋燭

天川

蝋燭

 かつていた町の姿はさほど変わらず、クリスマスを過ぎたケーキ屋さんの前に立っていただろうサンタクロース人形の姿はとうに消えている。その姿を最後に見たのは、もうずっと前の記憶になる。
 年の瀬が近づき、肌寒い空気の中を歩く。最後にサチを見た公園の中に入る。いつも一緒に帰る待ち合わせの為に使っていた小さな公園。砂場と滑り台くらいしかなくて、いつ見ても殺風景だ。あの日の夜には粉雪が舞っていた。昼を過ぎて夕方近いこの時間の空は、太陽も出ていない曇り空で、雪でも降ってくれていれば、一段と思い出に浸れたのかもしれない。
 いつも一緒に座っていたベンチに腰掛けると、自然と頭の中には懐かしい思い出が蘇ってくる。煙草を出して咥える。あの頃と変わってしまったことは色々とあるけれど、父さんの影響もあってこいつを吸うようになったこともその一つだろう。
 煙を吐きながら座っていると、隣でサチがあどけない笑顔で笑っている気がした。二人の間には、よわよわしく燃えている蝋燭があって、暗がりにちらついている。サチが笑うと、焔も揺れる。焔が揺れると、なんだかなごむ。寒さを忘れてしまう。舞い落ちる粉雪は焔の中に吸い込まれるように消えてゆく。吐息が絶えず焔をおしている。
 小学三年生だったサチは、あどけなく可愛らしい声で何かを言っていて、僕はあまり聞いていない。正直、頭はそれどころではなかった。その笑い声を聞くのは、今夜が最後になるのだと思うと、クリスマスを過ぎた冬の寒さ以上にこころはつめたくされたようで小さく痛んだ。サチはまだ、これからどうなるのか、しっかりとはわかっていなかっただろう。無邪気な笑い声が何も知らずに焔を揺らす。
「消えるよ」
 からかうようにそう言うと、サチは面白がってまた笑う。
 僕とサチの通っていた小学校は、その日が終業日であり、その夜から冬休みに入っていた。みんなが大好きなお正月休みはもうすぐそこにあった。
 雪が焔に消え、溶けた蝋の残骸が、その下の銀皿へと溜まっていく。残骸はまるで形を保っていない。次から次へと蝋が溶け、芯にまとわりつくように垂れていく。決して重力には逆らえず、下に落ちるしかない残骸は、粉雪が姿を変えただけのようにも見える。
「おにいちゃん、パパとママは?」
 あの頃、僕たちは二人してこの公園に待ち合わせて、一緒に家に帰っていた。僕はクラスの用事があって、決まって公園に着くのが遅くなる。だからサチはいつも公園で一人で待っている。砂場にいる時もあれば、ベンチに座って足をぶらぶらさせている時もある。滑り台にはそれほど興味がないようだった。僕が公園に入って来るのを見た途端に笑顔になる。そんなことばかりだったから、その夜のように、学校帰りに日が暮れるまでずっと二人してそこで時間を過ごすなんてことはめったになかった。
 僕たちの両親が二人して離婚することになり、お互いがこれから別々の暮らしを始めるなんてことは、サチは知らなかった。知ったとしても、そうそう納得しないことは目に見えていた。サチは父さんも母さんも大好きだった。両親が迎えに来るのを待つ間、サチが持っていた蝋燭に火を点けて二人で温めあっていた。なぜかサチの手には蝋燭が握られていて、僕は眉をひそめた。ライターがなくて困り、近くのコンビニへ行った。火を点けるとどこか空気が変わったような気がした。あの時は、寒空の下で蝋燭の火に囲まれているってどんな兄妹だって感じにも思ったけれど、あんな時だからなんだかとても暖かく感じてしまっていたとも思う。今だったら正直やりたくない。
 この蝋燭、どこで手に入れたの? と訊いたら、サンタさんの大きなお人形さんを見ていたら、お店の人がくれたの、とサチは言った。火を点ける前によく見たら、学校帰りに通るケーキ屋さんに、そういえばサンタの人形が突っ立っていたなと思い出した。確かに、その年のクリスマスは二日前に過ぎてしまっていたが、人形はそのままになっていた。その年はクリスマスが平日だったから、休日にお祝いを迎えるお客さんのことも考えてのことだったのだろうと思う。もしその日が別れの日でなんてなければ、クリスマスはうちも次の日に当たり前のようにやっていたのかもしれない。その日を見越して、当日にさらっとやったクリスマスだった。お店の人は、サチの向こう側にいるはずの、数少ないクリスマスのお得意様に向けてお店の蝋燭をアピールしたかったのかもしれない。
 焔を眺めながら、二人して幾らかの時間を過ごして、夜の暗闇も濃くなり、蝋燭がそろそろ終わってしまうかな、と思い始めた頃、公園の入り口の方から足音が聞こえてきた。二つ。父さんと母さんだった。二人して隣り合って歩いている姿を見るのなんていつぶりだろうかと思ったものだ。
 僕とサチと両親は、少しだけ言葉を交わして、それからふっと、サチが焔を吹き消した。焔の余韻を残して、あたりが少しだけ暗くなった。公園の薄い電灯のおかげで、三人の顔はうっすらとまだ見えた。父さんと母さんは浮かない顔で、サチは良く分からない顔をして。僕はサチの頭を撫でると、その小さな身体を抱きしめた。
 サチは嬉しそうな顔をした。でもだんだんと、その顔に不安が射してくるようだった。母がそっとサチの肩に手を置いたけれど、サチは振り向こうとしない。父と母が再び言葉を交わしていた。それぞれがまるで今生最後の別れとでも言うようにお互いが背を向けて反対側に向かって歩き始め、どこか心許なげな目で僕を見つめているサチを見ながら、父親に手を取られて僕も歩いていく。僕とサチの目は最後まで外れることがなかった。公園を出て、サチの姿が見えなくなる最後の瞬間まで。
 それが僕がサチを見た最後だった。
 それから大人になって、それからまもなく家もこの街を離れた僕は。サチはおろか、その頃仲の良かった友人の誰一人として再会することはなかった。文字通り、僕の人生はあの日一度リセットされたようなものだった。
 けれど、サチのことは、ときたま頭をかすめている。クリスマスが近づいてくるような時期には特にだ。その時が近づいてくると決まってなにか時限爆弾のような感じで、奇妙な心の傷口のようなものが痛み始める。血が滲み始める。完全に開いてどうしようもなくなるなんてことはまずないのだけど。でも、そこに意識が向かずにはいられない。待ちかねたように血を出す傷口は、僕にその場所に行けと命令する。まったく無用なノスタルジアだ。第一、会ってどんな話をすればいいのかさえ分からない。二六歳になったいま、十年以上も会っていない彼女と、どんな顔をすればよいというのだろうか。
 けれども、その日、僕の携帯に父さんから一本の電話が入った。小学校の頃の同窓会があるそうだから行ってみたらどうだ。
 いまさらあの町に戻ってどうしろっていうのだろうか。しかも中学校や高校の同窓会ならまだしも、小学校って。そんなふうに色々と減らず口は出て来たものの、僕の足はかつて過ごした町に向かった。理由さえあれば、もう一度戻ってみたかったのだと思う。たぶん父さんは、あの日以来、口には出さずとも、僕がずっとサチの事を忘れなかったのは知っている。父さんと二人で暮らすようになってからも、買い物に行って、おもちゃ売り場に行ったりすると、ゲーム売り場とかを覗く一方で、女の子向け商品の売り場にいたり、高校生の頃には、近所にいた、当時のサチくらいの歳の女子中学生と仲良くしては、何かと世話を焼いていた姿も、父さんは忘れていないだろう。年頃の男子の純粋な女子に対する興味とは別のものをきっと感じていたと思うし、僕自身もそれを少なからず自覚していた。
 久しぶりに帰郷して、町に着くと、僕の足は自然と公園に向かった。ただベンチに座って色んなことを思い出しても、仕方のない事だとは分かってもいた。何かが変わる訳でもなくて、手持ち無沙汰に煙草を出して空を見上げる。
 一通り思い出に浸った後に、同窓会に行くと、見覚えのある友人と、そうでない友人の顔がごちゃ混ぜになっていて、僕は楽しそうに笑いながらも、こころでは苦笑いを禁じえなかった。
 よお、カズ、久しぶり。と、何人かが十年以上前に別れたきりの僕を見つけて声を掛けてくれた。会っていなくても覚えてくれている人がいるというのは、嬉しい限りだ。
 お店は昔からあった居酒屋で、僕が卒業してからも、折あるごとに集まっていたらしい。僕にはそれ自体初耳だったが、僕たちの歳の卒業生が、この居酒屋の息子だったというのが理由の一つなのと、あの頃、僕の家庭は、色々とごたついている印象があったのは周りも気づいていて、なかなか声を掛けづらかったのだと思う。
 僕はそうして彼らから自然と距離が離れて行った。十年以上経って再び僕の方に連絡が行ったのは、この中の一人が先日結婚をしたのがきっかけで、しかもその二人は、僕らと同じく同窓生同士で、中学時代に一度付き合って、進学を機に別れて、また再会して、そんなよくありそうなドラマの果てに結ばれた二人だったようで、先日ようやく結ばれた二人をはじまりとして、成人式を最後にもう会うこともなくなっていた我が同窓生たちは、再びの再会を果たし、集まろうと声を掛け合ったということだ。僕自身、成人式も別の場所で上げってしまっていた訳で、結局卒業以来一度もこの町には戻ってこなかったのだけれど、今回はめでたい二人の祝福のおこぼれに与ったというわけだ。
 それでも、どこか馴染みずらい空気を感じてしまいつつ、あの頃仲良くしていた旧友たちと飲み交わしていくうちに会は終わりを迎えた。
 店を出ると、外はすっかり夜だった。
 サチと仲の良かったゆうきちゃんが僕に声を掛けてきた。彼女はサチとよく仲良くしてくれていた。
「カズ君。サチちゃんとは、もう会ってないんだよね」
 僕が頷くと、ゆうきちゃんは残念そうな顔をして
「ほら、私たちって、サチちゃんが中学上がる頃に、離れちゃうでしょ。カズ君は遠くに引っ越しちゃったけど、私が中学に上がった頃にも、時々サチちゃんとは話したことがあったんだけど、高校に行ってからは全然でね。カズ君とは卒業してから会ってないことは知ってるんだけど、気になって」
 僕は、ありがとう、とだけ言った。ゆうきちゃんがその後に懐かしそうに言う。
「一回だけ。中学最後の年の年末かな。近所の公園で、クリスマスくらいにサチちゃんと会ったんだ。クリスマス! ってときにさ、私がちょうど彼氏に振られた後で、一人でとぼとぼ歩いてたら、公園のベンチに一人で座ってるサチちゃんを見つけてさ、私、思わず、仲間がいる! って思って声を掛けたんだよ。失礼な話だよね。サチちゃんは別に振られてもなんでもないという。あ、でもなんか蝋燭を持ってたんだよね」
 ゆうきちゃんはその後も色々と話しながら笑っていた。それ以来、ゆうきちゃんはサチとは会っていないようだった。あれからも、サチはクリスマスになると一人で蝋燭を灯していたことがあったのかもしれないなと僕はどこかせつなくなった。
 なんとなく、足は再び公園に向かった。歩きながら、サチが一人で蝋燭に火を灯している姿を浮かべてみる。その隣にいてやれなかったことが、僕がこれまで生きてきた中で、一番の心残りなのかもしれない。サチは別に死んでいる訳でもないのに。そうこうしているうちに空からは粉雪が舞い降りてくる。
 公園に戻って、ベンチに座った。蝋燭、買ってこればよかったかなと思った。手元にそれが欲しくなった。仕方なく、ポケットから煙草とライターを取り出した。火が点かなかった。買って来ようかな。立ち上がろうとした時に、火、お貸ししましょうか? といつのまに近くに来たのか、コートを着た若い女性に声を掛けられた。再び彼女と一緒にベンチに座った。彼女がなぜか持っている蝋燭に火を灯すと、それを僕に向けてくる。どうぞ、と言われて、僕は蝋燭の火で煙草の火を点けた。

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