ナイフでヒットマン

氷川省吾

 郊外から都市部へ向かう朝の列車は混んでいる。1平方mあたり、最低でも4人は詰め込まれているだろう。肌寒くなっている季節なので、誰もが通勤用のスーツの上にコートを着込んでいる。茶色、紺色、黒に白。上に乗っている顔の性別や年齢は様々でも、誰もが記号のように無個性に感じられる。
 その中で、誰も私の存在に意識を止める者はいない。身長160cm程度で、明るい色の髪を肩までの長さにした、20代終わりごろから30代初めの女。特に特徴のない顔立ちにワイヤーフレームの眼鏡をかけ、着ている黒のコートも普通の適当な品。まるで量販店で纏め売りされている靴下のような人間だった。
 私は視線を宙にさまよわせているように見せつつ、視界の端で一人の人間を追っていた。コートの海に隠れるようにしてたたずむ40ばかりの男。背は高く痩せており、着ているシープスキンのコートがだぶついて見える。頬骨の突き出た顔はかなりやつれ、頭髪が寂しくなっているせいで一層貧相に見えた。憔悴するのも当然だろう。自分に命の危機が迫っていることを知って、ここ何日かは常に移動を繰り返して逃げ回っている。
 だが、そんなことに意味はない。自宅だろうが路上だろうが、たとえ満員電車の中であろうが、運命が訪れるのは避けられない。
 次の駅のアナウンスが聞こえると、私はコートの袖に右手を入れ、左腕の前腕にストラップで留めたナイフの柄を握った。片刃で刃渡りは15cm。刀身は峰の部分が分厚く、刃先が角ばった形状をしている。使うたびに買い替えるのだが、このデザインは気に入っているので、いつも同じようなものを選んでいる。
 人殺しに適しているから。
 私は袖に隠したナイフを持ったまま、標的の方に一歩近づいた。距離は20㎝もない。わずかに待つと、列車が減速して停止した。降りるために乗客が席を立ち、戸口の方に足を進めようとして、人の群れに動きが生じる。到着を告げるアナウンスが鳴った瞬間、私はナイフを引き抜いた。
 腕だけの最小限の動作で、ナイフを標的の左腰少し上――左の腎臓に突き刺す。鋭角に研がれた刀身は、驚くほどたやすく服と肉を突き破って体内に侵入した。ナイフをねじって傷口を広げ、もう一度突き刺してねじる。
 臓器に穴が空く事態に遭いながら、標的の反応は鈍かった。いきなりナイフで刺されても、たいていの人間は自分の身に何が起きたのか、すぐに分かることはない。衝撃や熱さを感じるだけで、理解が及ぶのは吹き出る血や体に突き立っているナイフを見た時からだ。それは何度もやってきた経験則からよく知っている。彼らが事態に気付くに頃は、もう手遅れにしておくのが鉄則だった。
 自分の体に何かが起きたことを察した標的が振り向こうとしたが、私は左手で背中を押さえてその動きを制し、続けて右側の腎臓も刺した。同じようにねじって傷口を広げてから素早く引き抜き、一動作で袖の鞘の中に隠す。
 返り血は間違いなく飛んだだろうが、黒のコートを着ているのでほとんど目立たない。それでも大量の血が付けば分かってしまう。吹き出る血液を避けるため、私は外に出る乗客の波に乗って標的からすぐに距離を開ける。電車から出るとき、視界の端で標的が床に崩れ落ちていくのが見えた。

 電車を出た私は後ろを振り返らずにホームを歩き、改札から駅を出た。地下駐車場に入り、あらかじめ監視カメラの目が届かない位置に停めてあった車に向かう。
 トランクを開けて返り血の付いたコートを脱ぎ、大きなビニール袋に突っ込む。手首のナイフも鞘ごと外して用意していた紙袋に隠し、テープでぐるぐる巻きにして開かないようにした。靴と手袋も同じように脱いで、仕上げにウィッグも外す。私の本来の髪は黒のショートだ。
 それらも同じようにビニール袋に放り込んで袋ごとスーツケース内に隠し、替えのコートと靴を身に着けると、現場から離れる準備が出来た。ねぐらに帰ってこのコートと手袋、靴、ナイフを処分すれば、仕事が完了する。
 標的の生死を確認する必要はなかった。あの男がもうすでに絶命していることは確実だ。これまで何度も同じことをやってきたのだから、あの部位を刺された人間が死ぬまでにどのぐらいかかるかはよく知っている。十数秒もかからず意識は失われ、1分前後で失血死する。
 仕事を行った場所から十分な距離を取って、車は予定していた場所で乗り捨てた。この車はレンタカーで、人を雇って返しに行かせる手はずが整っている。雇われた方は私と直接会ったことはなく、電話をして要求を伝え、現金を指定の場所に置いておく手続きだけでやり取りする。向こうも「余計なことを知らない」で済ませる便利屋のようなもので、その手のことは心得ていた。
 色々と詰め込んだビニール袋入りのスーツケースをトランクから引っ張り出し、しばらく歩いた先に止めてあった自分の車に乗せ変えて、ようやく私はねぐらへと帰っていった。

『ブルータス、お前もか』
 ローマの政治家で軍人のガイウス・ユリウス・カエサルが、紀元前44年に暗殺された時に口にしたとされる言葉だ。カエサルはこの日、腹心の一人であったマルクス・ユニウス・ブルータスを含む数名にナイフで刺し殺された。23カ所も刺されていたが、致命傷になったのは2つ目の刺し傷だったらしい。私から見れば素人臭い下手くそさが丸出しだが、慣れない人間がやればそんなものだろう。
 先のセリフを本当に言ったのか、刺された回数が本当に23回なのかまでは知らないが、少なくともカエサルがブルータスたちにナイフでめった刺しにされて殺されたのは事実だろう。カエサルに限らず、ナイフで暗殺された者は多い。それこそ数えきれないほどにいる。
 ナイフは生活必需品だ。地域や時代によって材質が異なる場合があるが、ナイフを持たない文明は存在しない。だから、どこでも手に入る。凶器の調達には苦労しない。
 扱うのも簡単だ。手に持って腹のあたりをめがけて思い切り突き出せばいいだけだ。十分な長さと鋭さがあれば、刃は筋肉と腹膜のもろい防御を突き破り、内臓や血管をたやすく損傷させる。刺した後には刃を捻じって、傷口を広げればなお良い。
 肝臓や腎臓がえぐられれば、止めようがないほど激しい出血に見舞われる。腸が破ければ、お世辞にもきれいと言い難い”中身”が、無菌状態であるべき腹腔に漏れ出す。そうなれば1日と持たずに重度の腹膜炎に陥る。病院に担ぎ込まれても生き残れる確率は低く、大抵はショック死する。
 腹にたっぷりと腹筋か脂肪が付いていても、突き出す先を喉に変えれば同じ結果が得られる。気管と頸動脈が突き破られれば、誰であっても命がなくなる。
 どこでも簡単に手に入り、使い方は油断している相手に近づいて突き出すだけ。誰かに死んでもらいたい場合は、とっても簡単で手軽な方法です。殺しの道具としてナイフをマーケティングする場合、謳い文句はカエサルの時代どころか新石器時代から変わっていないに違いない。

 ねぐらに帰った私は、いつも通りの後始末に取り掛かった。返り血が付いたコートと手袋はバラバラに切り刻む。それから小型の電気炉を動かして、紙袋に入ったままのナイフと鞘、切り刻んだ証拠品をまとめて超高温で溶かした。人の血が付いた刃物は、ほどなくして溶けた鉄の塊になってしまった。これで凶器も物的証拠も消え去った。
 個人で鋳造が出来てしまうこんなものがネットの通販で簡単に手に入るのだから、私のような犯罪者にとっても便利な時代になったといえるだろう。一人暮らしの女が持つには不釣り合いな代物をごまかすために、わざわざ鋳鉄とガラスで作った細工をいくつか作成することになったが、これはこれで楽しいような気もしている。
 2時間ほどかけて後始末を終えると、私はプリペイド携帯から、仕事の仲介業者に電話を掛けた。いつも通りの呼び出し音が聞こえ、10回コールが鳴った時点で相手が出た。これもあらかじめ決まっている回数だった。7回以内、あるいは15回以上で出た場合、盗聴されているか、誰かが横にいて頭に銃を突き付けているかしている。その場合は出た瞬間に電話を切って逃げる手はずを整えなくてはいけない。
 今回はそのようなことはなかった。
「私。確認終った?」
 余計な言葉は抜きにして、さっそく切り出した。
『ああ、確認した。完了だ』
「お金はいつものところに」
『すぐに振り込もう。5分後に確認してくれ。それと次の仕事が入った。3万ドル』
「興味あるわね。サツは?」
 私が先ほど腎臓を串刺しにした男は、危ない事業の資金洗浄を任されている会計係の一人だが、立場を利用して仕事の度に小額ずつ自分の懐に入れていた。1回ぐらいなら頭をパンチボール代わりに使われるぐらいで済んだだろうが、1年間もやっていればさすがに許されない。
 それに先日、あの男の雇い主の経営する地下カジノのお売上金が強奪される事態があったとかいう話だ。雇い主が神経質になっている状態で悪事が発覚すれば、通常以上にまずい事態になるのはわかり切っている。
 仕事の値段は1万5千ドル。それほど大物ではなかったが、チンピラに千ドルで任すわけにもいかない。
 とはいっても今回の分だけで1年暮らすには足りないから、今シーズンはもう少し稼いでおくつもりでいた。連続で人を殺せば当局から目を付けられる危険があるので、仕事の度にインターバルを置くことにしている。ただし、その可能性がない限りは、ある程度まとめて稼いでおいても問題ない。
『今までの仕事と関連付けられることはない。距離も離れている』
「他に誰かに声かけた?」
『いや、いろいろと都合が合わない。”拳銃使い”は6人を消したばかりですぐに仕事をしたがらないだろう。”洗濯屋”は出られない。〝釘打ち師〟や”花火屋”は大がかりだ。他の連中では使い物にならん』
「それで私ってわけ。一人よね?」
『護衛が2人ほどついている可能性がある。そいつらも消す場合、危険料をプラスする』
「どんな奴ら?」
「ミドル級ボクサーと元陸軍兵士」
「接近にリスクがあるわ。どれくらいなら出せる?」
『1万プラス。予算ではこれが限界だ』
「乗った。情報をお願い」
『分かった。前金も振り込んでおく。健闘を祈る』

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