マサユキ・マサオ
それは社会人一年目の春のことです。
輝かしい夢も希望も二週間程で挫折した私は、社会に絶望し、かといってすべてを投げ出す勇気もなく、干からびた魚の目をして日々仕事に勤しんでいました。
そんなある日のこと、無意味な営業をサボって車内で居眠りをしていた私は、どうしようもない便意を感じて車を飛び出し、ついつい近くの草むらで野糞をしてしまったのです。
私は十分に周囲を確認したはずでした。しかし、寄りにもよって尻を丸出しにして踏ん張っている真っ最中、背後から声をかけられたのです。
「うわっ、この人うんこしてるーっ!」
それは、どぎつい化粧をして女子高生でした。女子高生は甲高い声で「うんこしてるーっ」を連呼して、踏ん張っている私をスマホで撮影し始めました。私は急いで立ち上がり、ズボンを上げようとしました。しかし、あまりにも急の出来事に、焦った私は腰を抜かしてしまいました。そして 無情にも私の尻からはうんこがひり出し続けられていました。
女子高生の奇声に吸い寄せられるように、下校時の小学生や買い物帰りの主婦たちが集まってきました。
「うわぁ、お兄さん、うんこしてんの?」
「あらやだ、うんこよ、しかもとても長いわ!」
「うんこしてるーっ、うんこしてるーっ」
「うふふふ」
「ぎゃはははっ!」
彼らは私を取り囲み、ゲラゲラと笑い出しました。
私は涙に伏せりながら這いつくばって車に戻りました。振り返ると、女子高生はいまだに、うんこ、うんこと叫びながら、ピースサインをする小学生とうんこを一緒に撮影していました。
私は一晩悩んだ末に、もう死ぬしかないと思いました。それもこれも、すべては私のうんこのせいです。いえ違います。それ以上に、人間の自然な行為である脱糞がこれほどまでの失笑と冷遇を受ける不条理に私は絶望したのです。
私は首を吊る為のロープを買いに、近所のホームセンターに行きました。そこでロープを吟味する私の耳に、こんなひそひそ話が聞こえてきたのです。
「ほら、あの人! 昨日草むらで野糞してたっていう」
「もう学区の人、全員知ってるそうよ」
「そんな人がロープを買いにきてるってことは……」
「死ぬ気よ! 首を吊るんだわっ!」
「原因はやっぱり、うんこかしら?」
「うふふふ」
「ひーっ、ひゃっはっはっ!」
中年女性たちの声は、遂に笑いの連を生み、ホームセンター中の買い物客がゲラゲラと笑い出しました。私はいたたまれなくなり、売り場にあった出刃包丁で中年女性の脇腹をグッサリ貫きました。
殺人を犯した私は、後日法廷で罪を裁かれることになりました。しかし、ふと横を見ると私の弁護人は居眠りをしているではないですか。
「弁護人、弁護人!」
裁判長の言葉に、クワッと机から飛び起きた私の弁護士は我に返り、折りたたんだくしゃくしゃの紙をポケットから取り出しました。
「被告人は、えぇっと、この度の被害者たる主婦Aさんらから名誉棄損の、行為を受け、えーっ、深く傷つき、今回の強行に至ったわけですが、えぇっと」
「その件について参考人、証言台に登壇ください」
私は参考人を見て、思わずアッと叫びそうになりました。それは、私のうんこを撮影していた女子高生だったのです。
「この人はきっと、被害妄想をこじらせてしまったのです。とても惨めで可哀そうな人なんです。本当に、本当に可哀そう」
私は思わず彼女にとびかかろうとしました。しかし、勿論のこと、ガードマン達が先に私を押さえ込みました。猿ぐつわをはめられた私は、必死に目を見開いて裁判長に懇願しました。
いつの間にやら、這いつくばる私の横には検察官が立っていました。そして彼は高らかに宣言しました。
「見て下さい、彼の目をっ! 紛れもない狂人の目です。更生の余地などありません。死刑、死刑を要求します!」
裁判はあっという間に終わりました。死刑判決でした。
私はあまりのショックに気を失いました。
目覚めてから私が状況を理解するまで、一時を要しました。どうやら私は独房に居るようでした。そして、何故だか腕には点滴の注射針が刺さっていました。起き上がろうとしても中々起き上がることが出来ません。看守がやってきて、今日が何年の何月か分かるか、と聞いてきました。私が黙っていると、看守が日付を教えてくれました。裁判から丁度五年の歳月が経っていました。私は、ひたすら昏睡していたのです。
それか数ヶ月、私はリハビリに勤しみました。動かなかった手足が少しずつ動くようになり、私は汗をかき苦労しながらも満足感を得ました。今まですっかり忘れてしまっていたのです。地道な積み重ねや努力の大切さを、私は改めて噛みしめました。
そうして、以前のように食事をとることも出来るようになったある日、看守が私に食べたいものを聞いてきたので、かつ丼が食べたい、と答えました。私が食べ終わると、手錠を嵌められ、どこかへ連れていかれました。
そこには両親、姉、弟、甥っ子まで来ていました。そして、どこかで見たことがあるような女がその中に混じっていました。私が何か言いたげにしているのを察して、弟が口を開きました。
「兄さん、兄さんには確かに失望したけれど、感謝もしているんだよ。だって僕はあの裁判で彼女と出会うことが出来たのだから。紹介するよ、僕の妻です」
女はしおらしげに、ぺこりと頭を下げました。
私は、薄ぼんやりとした記憶を辿っていくうちに愕然としました。そう、女は私のうんこを笑った、あの女子高生だったのです。見ると、彼女は妊娠している様子でした。
私はどう返して良いか分からなかったのでとりあえず、おめでとう、と言いました。ずっと黙っていた父が私に、最期に何か言い残すことはないか、と尋ねてきました。
不意に私は状況を把握しました。
だって、まさか今日が死刑の執行日とは露とも知らなかったのですから。私は看守に問いただしました。看守は挙動不審になって、目をきょろきょろさせて答えました。
「まぁ、いつ伝えるかとか決まりは無いんでね」
そんな訳あるか、と思いつつ、彼にはかつ丼を用意してくれた恩もあるので、黙って大人しくしていました。黙っているのを良いことに彼は陽気に語り始めました。死刑囚を連れて行くのは今日が初めてなのだ、とえらく高揚しながら言いました。
私はついに死刑台へと連れていかれました。甥っ子が、僕も一緒に行く、と駄々をこねたので、君にはまだ早いよ、と言って頭を撫でました。姉は薄気味悪そうな顔をして、息子を私から引きはがしました。
私は、今から死にゆく自分という存在について考えました。今まで私は、私がこのようになってしまった要因を社会に擦り付けてきましたが、どうも違うのではないか、と思い始めていました。野糞を見られなければ、仮に醜態を晒しても死のうとしなければ、嘲り笑われても大人しく家に帰っていれば、こんなことにはならなかった筈です。
私は、初めて被害者のおばさんに謝りたい気持ちになっていました。すべては私が悪かったのです。私は死んで当然なのです。そう思うと、何故か胸の奥がスッと晴れた気がしました。
私は執行台に連れていかれ、首に縄をかけられました。その時、私は急にトイレに行きたくなったのです。そんなことおかまいなしに執行官は私に聞いてきます。
「何か言い残すことは?」
「あの、一旦戻ってトイレに行かせてくれませんか?」
「いや、時間が。ちょっと無理ですね」
「最期ですよ、私死ぬんですよ、行かせて下さい!」
数秒の沈黙の後、涙ぐみながら執行官は言いました。
「むっ、無理っ!」
「えっ、何で泣いてるのあなた、別にトイレくらい……」
「もう嫌だ、なんで、なんで僕がこんなことっ!」
執行官は顔を真っ赤にして、部屋を飛び出していきました。そして、壁越しに彼が叫んだのを私は耳にしました。
「執行、始めぇっ!」
その瞬間、私の足元の床が抜け落ち、伸びきったロープが私の首を締め付けました。薄れゆく意識の中で、姉と甥っ子の声が聞こえてきました。
「駄目よっ、たっくんっ、見ちゃ駄目っ!」
「うわぁ、お兄ちゃん、漏らしてるー、うんこ、うんこ!」
何故か、執行室に甥っ子が入ってきてしまったようです。そして恐らく、今私を上から見下ろしているのでしょう。私は脱糞していました。ズボンの隙間から、ぼとぼとと垂れ落ちていくのを感じました。私は、苦しい上に、どうしようもない後悔にかられました。
「臭うわっ、うんこよっ!」
弟の妻の、嬉々とした声が聞こえました。甥っ子はひたすらに、うんこ、うんこ、と連呼していました次第にそれが周りに波及し、クスクスと笑い声が聞こえてきました。
「ああっ、あなたっ、産まれそうよっ!」
「そ、そうなのかっ。それは、うんこではなく赤ん坊の方か!」
「うふふ、勿論よ」
「ふふふ」
「ひゃっははは」
「はぁはぁ……名前は、名前はどうする?
「うふふ、運子にしましょう」
「ふぁぁ! 父さん、母さん、家族が増えるよ!」
「そいつはめでたいっ! 母さん、早く家に帰って赤飯を炊くんだ」
「赤飯ね、分かったわ、うふふふっ」
「ひーっひっひ!」
「うんこ、うんこ!」
「うわぁっ、はっはっはっ!」
「ひゃぁっ! はぁはぁはぁ」
その日、処刑場にはいつまでも笑いが絶えることはありませんでした。私は、いつの間にか肉体を離れ、彼らの頭上をゆっくりと旋回して、その光景を眺めていました。魂が消えゆく最期、私は彼らのみならず、全人類に向けて捨て台詞の様に叫びました。
「人の、人の脱糞を笑うなぁっ!」
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