福原大輝
南四局オーラス。最終局だった。
タツヤは山の中から一つ、麻雀牌を威勢よくつかんだ。それを手元にある十三牌の中に加え、その中から不要な牌を一つ選んで捨てた。麻雀はこの「ツモる」動作と「切る」動作を繰り返し、自分の手の中で役を作り上げる、つまり、「アガリ」へと向かっていく、そういう競技だ。
正方形の机を四人が囲っていて、それぞれ自分の番になれば牌をツモっては切っていく。
タツヤはラスを引いていた、つまり点数が四人の中で一番低かった。
だからこの局で逆転しなければ、戦いに勝つことができない。大事な一局だった。
そしてタツヤの心はある思いでいっぱいだった。
――勝ってあの子と結婚するんだ!
彼には最愛の彼女がいた。
対局前、タツヤは彼女とお花畑の真ん中にいた。お花畑を囲むように小川が流れていた。春の陽気な日差しが射し込んでいた。そこで、彼は言った。
――結婚してほしい……。
いや、と彼女は言って、首をふった。
彼女は麻雀が嫌いだった。麻雀は対局中に服を脱がされることだってあるし、負けたらずたずたに引き裂かれる罰を受けることもあるし、なんだかよくわからないと言っていた。たしかに、彼もその意味はよく分かっていなかった。だが彼は麻雀を愛していた。
次でやめる、これで最後にする、と彼は言ったが、これまで何度もそう言い続けて裏切ってきたから、彼女は信じてくれるはずがなかった。それでも。
――次で勝ったらやめるから。そして結婚しよう!
やけくそに彼が言うと、彼女が遠くを見た。彼がその目の向く先を振り返ると、小川に光が射してきらめいていた。それが答えだった。
――それはつまり、この戦いが終わったら結婚するということだ。
彼はそう頭の中で繰り返して、そしてツモる手に力がこもる。
左右の席に座る二人とは、切磋琢磨してきた仲だった。
時には、酒を酌み交わし、一緒に麻雀の熱い議論を深めてきた。熱を帯びたタツヤたちの注文を受ける時、店員が言った。
「単品ですか?」
「はあ?」
タツヤたちは目を剥いて店員をにらみつけた。タンピンだおらあ、とヤンキーのごとく各々が罵声を浴びせながら机を蹴りつけた。
どういうことかというと、タンヤオ、ピンフの役のことを略してタンピンというのだ。
どうしてもアガれずに成績が振るわなかった時代に、役の名を聞いて過剰に反応してしまった、若気の至りである。そうして飲み屋に迷惑をかけてきた。あの店員には戦いが終わったら謝りに行きたいと、切に思うタツヤだった。
左右の二人は、対局中なのに時折恍惚な表情を浮かべるタツヤを注視して、その奥に浮かぶお花畑と小川の映像を一緒に見ていた。心の中で、結婚するわけがないと感づいていたが、そんなことはタツヤの知ったことではない。
そして対面は宿敵でもある、丸坊主だ。いつも対面にいるのだが、名前は知らない。そのアガりへの渇望はすさまじく、幾重にも策を巡らし、どんなイカサマでもやってのける。
だから、ここは先手必勝だ。
「リーチ!」
そう高らかに宣言したタツヤは、千点棒を机に投げつけた。
リーチとは千点棒を払い、アガリの一歩手前だということを宣言することで、点数を割り増しする行為である。その代わり、ここから先は牌をツモって、それをそのまま切るか、アガるかしかできなくなる。
ただ逆に言えば、他の対局者がアガり牌を切ったとき、タツヤにアガられてしまうという状況になるため、他の対局者にプレッシャーを与えることもできる。
自分でアガり牌をツモった場合には「ツモ」と宣言し、他の対局者が切った牌でアガる場合は「ロン」と宣言する。
時には「ロン」と声が出なくなる瞬間もある。これまでの戦いの中で声を出せずに、見逃したこともあった。彼女との結婚がかかっているからだ。
タツヤのアガり牌は五本の竹が描かれた牌だった。麻雀牌は一から九まであるが、その中で五の索子(ソーズ)であり、五索(ウーソー)と呼ぶ。嘘だと思うかもしれないがそれは本当のことである。ウーソーがくるまでタツヤは待ち続ける。アガれると信じて疑わなかった。
だが、その時、だった。
対面から「アンカン」の声が聞こえた。アンカンは四枚同じものを持っているときにそれを見せることで、点数を増やすことができる。
手の中から見せられた四枚はウーソーだった。
「ウーソー!!」
タツヤは思わず叫んだが、冷静を装い、「ウーソーか、はは」と笑ってごまかした。だが心の中では焦りが渦を巻いていた。
なんだって!
麻雀牌は同じ種類が四枚しかない。つまりこの時点で、彼のアガり牌がなくなってしまったということだ。
こちらを見てにやける対面の坊主に、彼はアガり牌を見切られていると感じた。
もう終わった。勝てない。意識が遠のく中、彼女の顔とお花畑の映像が再び浮かんできた。
広がるお花畑の中に彼はいたが、彼女はさっきより遠くにいた。なぜだろうと目を凝らすと、なんとその横には対面の坊主がいた。
なんという光景だ。
どうして、こんなことが起きるのか。
彼はお花畑の中で、二つの意味で絶望に打ちひしがれていた。だが、彼の彼女への思いは強かった。
――ふざけるな! その手を離せ!
タツヤは叫んだ。
彼の闘志に火がついた。
まだ負けが決まったわけじゃない。
誰もこの局でアガることがなければ、もう一局行うことができる。そうすればこの戦いは終わらない。タツヤは最後の希望を抱いて牌をツモった。
そうして最終盤まで誰も動きがなかったが、突然対面の坊主が、「リーチ」と宣言した。悪い顔をしている。
――とうとう追いかけてきたか。だが最後まで逃げ切ってやる。
しかし彼は次の瞬間、牌をツモった手の感触に違和感を抱いた。
信じられない。嘘だ。この牌がここにあるわけがない。
ツモった牌を目で確認するとそれは本当にウーソーだった。
五枚目のウーソーが手の中にある。麻雀は同じ牌は四枚しかないというのに、どういうことなんだ。
対面の脇に置かれている四枚のウーソーを見た。それはルール上、内側の二枚は裏返しにして置かれている。その裏返しにした牌は本当にウーソーなのか?
今タツヤにある考えが浮かんだ。
それは、対面の坊主がズル、いわゆるイカサマをしている可能性だった。何らかの方法でウーソーを増やしたのだろう。
イカサマはどう指摘したらいいだろうか。うっかりとしたプレイミスは「チョンボ」というのだが、それでいいのだろうか……。
でもやっぱりアガりたかったら「ツモ」を宣言すればよい。役は手の中にできている。
アガったら点数を得ることができ、逆転につながる。その一方「チョンボ」を指摘すると流局、この試合はなかったことになり、チョンボした坊主は罰として点棒を支払うが、タツヤは逆転しないままに対局が終了する。
それは分かっているのに、「ツモ」と言えない自分がいる。
なぜ迷う。
ツモか、チョンボか。
目の前にはあの小川が現れていた。
二つに分岐している。片方はツモの川だ。もう片方はチョンボの川。
そのどちらに彼女は待っているのか。彼には分からない。その先はまぶしい光でおおわれている。
ふつうリーチしているならば、ツモったとき、アガるか、その牌を切るかの二択だから、すぐに決断できるはずなのだ。タツヤの一時停止に異変を感じた各対局者が彼を見ている。
その視線の痛みを越えて。
ツモチョンボツモチョンボツモチョンボツモチョンボツモチョンボ……
頭の中で繰り返される呪文。そしてツモの小川の、その奥からかろうじて見えた、彼女の顔。
この戦いが終わったら……。
彼は高らかに叫びながら立ち上がった。
その指は対面の坊主を向いていた。
「チョンボ!!!」
嘘は絶対に、よくないのだ。
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