花は無口なままで

福原大輝

花は無口なままで 福原大輝

 ピアノの伴奏が流れ始めて、聞いたことのあるメロディが何の引っかかりもなく右耳から左耳へと抜けていく。高辻修介はさぼっていると思われぬように、周りに合わせて口を開いた。この曲が「あおげばとうとし」なのは知っているが、歌詞はあまり知らない。横から聞こえる歌声に、記憶の隅が刺激されることもない。
 小学生のときだったら歌を真面目に歌っていたし、その上で感動していたかもしれない。しかしながら、この歳ではそうはいかなかった。大学入試の前期試験の結果が来週にようやく発表される。それに落ちたならば次に後期試験が待っていた。そんな状況にある高辻は我が身を案じて、式に集中できるはずもないし、感動するはずもなかった。
 みんな同じ気持ちだろうと、同意を求めるように周囲を見やった。いや、その前にすぐ右隣の異変に気がついた。
 大石和哉。彼とは中学からの同級生だ。彼は両目から一筋ずつ涙を流し、歌っていた。たしかに思い返すと、彼は中学の卒業式でも泣いていたかもしれない。いったいどうして彼は感動できるのだろうか。
 歌が終われば卒業生退場とアナウンスがあり、高辻たちは体育館の外へと出た。だが、まだ終わらなかった。クラスでは一人一人が前へ出て一言ずつ、いや、何言も挨拶をして、全く進まなかった。そして学級委員が一年の思い出をまとめた動画を流し始めた。ご苦労なことだ。
 最後に、担任の中隈が本当に一言だけ、がんばれ、と無感情に言った。それはまさに「ロボット」の異名をもつ彼にふさわしい最後の言葉だった。感情を失ったロボットの目の奥はいつも暗かった。感動ムードの中、ロボットの淡泊さに絶句する女子生徒や保護者がいたが、高辻はそれでいいんだ、と心の中で言った。さっさとこんなこと終わらせて家に帰りましょう、先生。その言葉が通じたかのように中隈は通信簿を持って教室を出て行った。こうして、ようやく卒業式の全工程が終わりだ。
 その後、クラスのやつらは写真を撮り合ったり、アルバムを開いて寄せ書きをしたりしていた。そんなものには目もくれず、高辻は帰り支度を始めた。今日でみんな離れ離れになるわけではあるまい。明日から後期試験へ向けての対策授業が始まるのだから。
 帰り支度が済んで、教室の扉を開けたそのときだった。見覚えのある女子がすれ違いに入ってきた。一瞬目が合って識別に時間がかかり、高辻はその間立ち止まっていた。彼女は大石を呼び、彼の机に近づいていった。その様子を見て、何となく誰なのかがわかった。彼女は大石に何か言い、二人は教室の外へと出て行く。扉の前ですれ違うときに、大石とも目が合い、不審に思った高辻は後を追った。
 二人が向かったのは、人目のつかぬ部室棟の裏だった。困ったことになったと高辻は少し焦ってきた。大石が女子となんか始めるのかもしれない。本当にそうだったら高辻はなぜついてきたのだろうかと自分を責めた。そんなことを考えていると、突然に大石と女子が立ち止まったので、高辻は慌てて物陰に隠れる。暗い緑のロッカーに足をぶつけたが、どうにか声をこらえた。
 その女子―広川美佐も中学からの同級生だった。いや、小学校も同じだったのかもしれないがわからない。久々に見たのだが、その猫のような目は覚えていた。そんな彼女は前触れもなく怒鳴った。
「高辻! 出てきなさい!」
 驚きで声が漏れた高辻は観念して、物陰から二人の元へと出て行く。
「なんだよ。気づいてたのかよ」
「バレバレ」
 大石もにやにやと笑っている。さっきは泣いて、今度は笑って忙しいやつだと高辻は思った。
「俺を呼んだということは、なんだ。そういうのじゃないのか?」
「何を期待してたの? のぞき野郎!」
「じゃあ、なんだってんだよ」
 容赦のない美佐に、高辻はもはや悪びれもせず居直って、言葉をうながした。彼女は一度大石を見て、ポケットからメモ用紙を取り出した。
 大石がそれを受け取り、高辻は覗き込んだ。
「なんて書いてあるんだ?」
「ヨウリン、ヨウド、ベジフル……なんだろう?」
 首をかしげる高辻たちを見かねて美佐が口を挟んだ。
「園芸の道具よ。肥料とかに使うの」
 へえ、と高辻は言うが、興味もない。それを一瞥してから美佐は訊いた。
「誰のメモかわかる?」
 さあ、と首を振る高辻のとなりで大石は答えた。
「中隈先生の筆跡だね」
「なんでわかるんだよ」
 板書を見ているからだよ、と大石は笑った。高辻はメモを近くで見てみるがロボットの筆跡かは分からなかった。その筆跡が特徴的だと思ったことはないから。
 大石は気味が悪い程の観察眼を持っている。そのことを、高辻は知っているから驚かないが、やはり気味が悪い。ただ、と大石は美佐を見た。
「この『ジョウロ』っていうのは、なんとなく筆跡が違う気がする」
「そうかしら。気にならないけど」
 美佐が食い入るように言ったためか、大石はなるほどと言って、あっさり引き下がった。
「この紙がどうしたの?」と大石は美佐に訊いた。
「大石君はこないだの中隈先生の件、気になっていないの?」
 確かに不思議なことがあった、と高辻でも思い出せる。あれは卒業式の三日前のことだった。感情を持たないロボットとして知られる我が担任の中隈が、感情をあらわにしたのだ。そしてそのようやく見せた感情が「怒」だった。それも、校長に対して。
 登校時、たくさんの生徒が見ている前で、花壇の隅に立っていたのは校長と中隈だった。怒鳴っているのだが、何と言っているのか生徒にはわからなかった。だが、怖いもの見たさで皆が目を離すことはなく、周囲は闘技場のような異様な空間になっていた。
「卒業式でしょうが!」
 その言葉だけがはっきりと聞こえて、高辻たち三年生は思わず目を向けた。どうやら自分たちに関係しているのだろう。ただ、その直後に中隈はその場を離れていったので、怒った理由はわからないままだった。
 美佐はその中隈のメモを指さした。
「これが真相につながると思うの」
 本当にそうなのだろうか。高辻が考えている間に大石はさわやかに言った。
「わかった。やってみよう」
「なんでだよ! 勉強はいいのかよ!」
 今度は高辻が怒鳴ることになったが、大石はすでにメモ用紙をじっくりと見つめていた。賢い大石なら解けるはずだと意識を休めた瞬間、目が合った美佐に再び怒鳴られた。
「高辻、あんたも手伝いなさいよ!」
 なんでだよ、と高辻はもう一度叫んだ。

 次の日、後期入試のための対策授業がすでに始まっていた。その夕方に高辻と大石は男二人で中庭の花壇を見つめていた。花は卒業式が終わった後も咲き誇り、パンジーやナズナが小さな風を受けて揺れていた。
 高辻は溜息と同時に言った。
「花を見ててもわからんな」
「たしかに。だけどそろそろ現れるはず」
「だれが?」
 高辻が大石を見るとすでにその視線はこちらを向いていなかった。
「校長先生!」
 大石が呼ぶ先には、日よけ帽子をかぶった校長が、手を後ろに組み歩いてきていた。見た目はよぼよぼとした老人だが、足取りはしっかりとしている。
 大石はどうしてか先生たちの予定を知っているらしい。
 校長はゆっくりと高辻たちに近寄り、一緒に並んで花壇を眺めた。
「どうしたのかね」
「先生、この前中隈先生と何か言い合っていませんでしたか?」
 大石は単刀直入だったが、校長は驚くことはなかった。
「たしかに。あれは怒らせてしまったよ」
「校長先生が怒らせたのですか?」
 校長は首を捻って考える。
「わざと怒らせようとしたわけじゃないんだがね。私が彼に相談しなかったのがわるかったんだ」
「相談?」
「そうか、君たちは中隈君が花壇の担当であることを知らんのか」
 たしかに意外な事実だったが、あのメモを見ているからか納得感はあった。だが、大石は知らない体で訊き返した。
「そうなんですか?」
「朝早く登校する子なら知っているが、彼は朝から水やりをしているよ。それ以外の時間は私がやっているのだが」
 なるほど、と大石は相槌を打つが、その後首を捻った。
「それと怒られたのはどういう関係が?」
 そうだね、と校長はおもむろに歩き始めたので二人はついていく。中庭にはたくさんの花壇がある。
「彼はね、花壇に植える花を決めているんだ。私は、その方針に背いて花を植えようとしたんだ」
 校長は別の花壇の前で足を止めた。
「ちょうどここだ」
 目の前の花壇はまだ何に花もなかった。植えられる前の、ならしてある土があった。そこには何も植えられていないが、血色のいい土が広がっていた。
「私はここにベルフラワーを植えようとしたんだ」
「ベルフラワー?」と高辻は訊いた。
「校章に使われている花ですね」
 大石の答えに、なんでわかるんだよ、と高辻は心の中で言った。
 校長はうなずいて、大石のブレザーの胸についている校章を指さした。紫の小さな花が三つついていて、それを包むように黄色の輪が描かれている。
「そう、だから私はこの花を植えたいと思ったんだ。せっかくの学校の花なのに、この広い校舎にないからな」
「だけど中隈先生は怒った」
「そう。花言葉がよくないらしいんだ。それで怒られてしもうた」
「はあ」
 大石は携帯電話を取り出して調べてみると「感謝」とあった。それを高辻も覗き込んで見ていた。
「感謝はいい言葉だよな」
「うん」
「私も調べてみたんだがわからんかった」
 校長は明らかに困った顔をしていた。
「ここには例年通りの花を植えようと思っているよ。彼の逆鱗に触れぬように」
「それがいいですね。ありがとうございました」
 大石は快活に言って頭を下げた。手を振る校長と別れて、高辻はつぶやいた。
「あのロボ教師と花言葉か。似合わねえな」
 その後、二人は携帯電話を片手に広い校内の花々を調べて、その花言葉をメモしていった。その中には「感謝」を意味する、ガーベラの花もあった。
「どうしてベルフラワーだけがないんだろう」
 確かに不思議な事だった。この広い校内には数多くの種類の花が植えられているというのに、校章のベルフラワーがないというのはおかしなことだった。頭脳明晰な大石でもわかっていないのか、ベルフラワーだけがない、と繰り返し念仏のように言いながら歩いた。
 西日が傾いてきて、花を照らす光がその色を変えていく。
 不意に開いたインターネットのページ上で、高辻はその花の違う色を見つけた。
「後悔?」
 突然、高辻の中であることが思い浮かんだ。

 高辻と大石は、部室棟の裏で待っていた。
 すると、「なんかわかったの?」と美佐は鼻息荒く登場した。
「高辻から訊こう」
 大石が手を向けると、美佐はかなり嫌な顔をしたが、渋々といった感じで高辻を見た。
 高辻は校長から聞いた話をかいつまんで説明した。中隈が花壇の担当だということに美佐は驚くかと思ったが、片眉を上げただけだった。
 そして高辻は、そのときの言い合いの原因はこのベルフラワーだ、とこれ見よがしに自分の校章を指さした。昨日まで知らなかったくせに。
「この花言葉は、感謝、だ」
「いいじゃない。じゃあなんで怒ったの?」
 美佐は当然の疑問を口にした。
「そうなんだよ。他の花壇にも花言葉が『感謝』の花はある」
 だけど、と言葉を切って、高辻は少しもったいぶった。推理を話すというのは、焦らして話を進めなくてはならないようだ。
「おかしな話だ。この学校にはベルフラワーの花がどこにもない。校章になっているのに」
「たしかに、ベルフラワーだけがなかった」と大石はうなずいた。
「だから、校長が植えたくなる気持ちはわかる。でもそれを中隈は感情を出して否定したんだ」
「なんで?」と美佐はもう一度繰り返した。
「そう、もしかしたら中隈はベルフラワーを植えないことを意識的にしている可能性があると俺は考えた」
 再び美佐は片眉を上げたが、高辻は続けた。
「実はベルフラワーにはネガティブな意味の花言葉もあって、後悔、という意味もあったんだ」
「だから?」と美佐が後をうながしたので、高辻は早口にならないように呼吸を整えた。
「つまり、中隈がしていたのは、花言葉を否定することだ。『後悔』するな、というのが中隈から俺達たち卒業生へのメッセージだったんだ」
 一気に言い切ってしまうと、美佐にしては初めて高辻の言葉に表情を変えた。
「ふーん、なるほどね……」
「ベルフラワーだけがない、というのはそんな意味があったんだね」と大石。
「やるじゃん。高辻」
 二人は高辻の言ったことを徐々に飲み込めてきたのか、顔が明るくなってくる。
「ひねくれ者の高辻だからわかったんだね」
「なんだって!」
「ま、そのおかげでわかったならいいか」
 そう言って、突然に美佐は笑い始めた。大石も笑い、高辻はそんな二人をにらみつけた。
「じゃ、二人とも仲良くね」
 美佐は唐突にそう言って、帰っていく。
「こんな奴と一緒にいるかよ」
 その背中に高辻は言ったが、美佐はもう振り返らなかった。ちょうど、後悔しない、を表すかのように。もうすでに美佐は制服を着ていなかった。確か美佐は推薦かなんかで合格が決まって、後期試験の対策授業は受けないのだろう。学校に用はないということだ。
 美佐が行ってしまうと大石は溜息を付いて、何かを観念したかのように笑った。
「僕たちはあの子に振り回されたな」
「何のことだ?」
 大石は一呼吸置いた。
「彼女は全部わかった上で僕たちを呼んだんだ。僕たちは騙されたんだ」
 騙された、と言いつつも、大石は明らかに騙された顔などしていなかった。どこかすがすがしいような、だけど寂しいようなそんな顔だった。大石は表情を隠せない。それを知りながらも高辻は、自身の中の違和感を解決することができずにいた。
「どういうことなんだ。だとしたら、どういう目的でこういうことを?」
「さあね」
 その悟り切ったような顔に、お前だって俺を騙しているんじゃないのか、と高辻は言いたかった。

 高辻は自身の推理が正しいとは思っていなかった。理屈が無理に通るようにこじつけただけで、寧ろ間違いなのではないかと思うほどだった。
 しかし、真相をあえて中隈に確認することはしない。ロボットは感情をあらわにしたことを、ほじくり返されたくはないだろう。
 一番の謎は同級生の二人だった。
 高辻が考えたこじつけの推理を聞いて二人は喜んだ。普段は考えられないくらいに異様にわざとらしく。とくに、美佐なんかは高辻の話など聞きたがらないだろう。
 さらに、美佐は全てをわかった上で、俺たちを呼んだのだと、大石は言った。だったら何のための推理だったのか。美佐の目的はなんだったのか。
 ――ベルフラワーだけがない。
 実際、高辻はあの呪文を唱えていた大石にヒントを得て、問題を解いたようなものだ。だから実は大石も答えを知っていて、意図的に高辻を導いて答えを引き出したのではないか、とも考えられた。
 いったい二人は何を考えているのか。
 高辻は、いろいろ考え過ぎた結果、柄でもないことを想像し始めた。
 花は季節が過ぎれば散っていく。何も残さないまま、何の後悔もないままに。花は無口まままで何も伝えずに、消えていく。中隈も美佐も、まるで花と同じだった。本当のことを言わずにどこかへ行ってしまう。
 彼女は何も言わないまま帰っていった。それを追いかけることもしなかった。俺も大石も。追いかけて、なんて花たちは言わないから。
 ――でも、なんかさびしかったんだろうな。
 自分の想像がばかばかしくなって、高辻は吐き気を催していた。
 そんなことしらんと、自身にツッコミを入れて、ようやく高辻は現実に戻ってきた。とにかく今は試験に集中だ。だが、試験の対策授業も終わったら、あいつらとも会わなくなるし、こんなバカな考えをする事もなくなるのか……。
 ――まあ、別にどうだっていいか。
 やがて高辻は後期試験を受けることもなく、大学に入学した。また新しい場所へと進んでいくのだった。その庭で、見知った誰かと再び同じ花を見ることになるとは夢にも思っていなかったが、それはまた別の話で。

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