二人、夜行

福原大輝

 見渡す限りの荒野と夜空が青く広がっている。目の前には線路がずっと続いていて、そのレールの鋼鉄は真鍮色に淡く光って僕達の進む道を照らしていた。
 太陽はとっくに過ぎ去って、空には帯状に星々が見えた。目前の線路と画が重なって、その星々の帯に沿って走る鉄道が頭の中に浮かんだ。けれども夜は深く、最終列車もすでに通っていった後なのだろう。汽車の音が聞こえることはなく、線路がきしむ音さえも聞こえない。何の音もしない荒野が果てしなく広がっていた。その日の月は暗かったが、その分星たちが青く光って、それは藍色の海の中に輝く夜光虫のようだった。
「こんな景色、あの時にもあったよね」
 突然、君は僕を試すように訊いた。君と僕はほとんど同じ背だけど、強いて言えば、君は僕よりほんの少しだけ小さいと思う。
 歩く歩幅はそれほど変わらない。淡々と疲れることもなく、線路に沿って僕達は歩いていた。
「覚えていないな。夏のキャンプのとき?」
 僕はそう言ったが、君はその言葉を聞いていないかのように空を見上げ、話を続けた。だから僕の言ったことは間違いだったかと不安になる。
「川が流れていて、その近くに蛍が飛んでいたね。まさに星みたいだったよ」
 君にはその情景が浮かんでいるようだが、僕にはさっぱり分からなかった。
「夜光虫のように?」
「蛍と夜光虫は別だよ」
 君はくすっと笑って、その音が辺りに響いて消えた。
「そうなんだ」
 やっぱりキャンプの話だ、そう思ってはいたけど、僕の記憶は不鮮明でそれ以上に何も言葉が出てこない。
「その川はどこなの」
 ようやく絞り出した言葉に、君は絶句した様子で一回立ち止まった。
「君は何も覚えていないんだね」
 君はその台詞の割に、僕をさげすむ様子はなかった。哀れんでいるようでもなく、もう既に別の事を考えているのかもしれない。
「そこまで虫は好きじゃないんだ」と僕は何に対してか誤魔化すように言った。
 ははは、と君は笑った。「知ってるよ」
「もうちょっと聞かせてよ。思い出せるかもしれないから」
 僕はお願いするけど、君はかぶりを振った。
「いや、君には必要ないよ。興味ないだろうし」
「興味あるよ。だって僕もいた話だろう? どうしても思い出したい」
 君は仕方ないというように、川の名前や色、そこで食べた料理や味の感想、蛍が住んでいた場所とか、そのときの情景を事細かに話したが、やっぱり僕の記憶は不鮮明なままだった。
 僕は過去の事なんかちっとも思い出せないんだ。
 僕がしょんぼりしているのに気づいてか、その後、君は唐突に訊いてきた。
「この先何かしたいこととか、かなえたいことはある?」
「この先? 将来?」
 将来、と君は短く答えた。
「したいことはない」
 僕は急な質問に驚いたが、即答できた。
 でも、それから僕は首を捻った。君が僕を見つめてくるから、何か回答しないといけないらしい。
 しばし答えを待ってくれた君にこんな素敵な答えをプレゼントしようと、僕はふざけた。
「世界中のみんなが幸せならいいな」
「本当に思ってる?」
 そう君は訝しんで、僕達は笑った。
 僕は本当にそんなことを思っているのだろうか、自分の心を確認していると、君がまた唐突に口を開いた。
「君は今、絵の勉強をしているだろう?」 
「何で知っているの?」
「知ってるよ」と君はまた同じように言った。
 君はなぜ、僕が絵の勉強をしていることを知っているのだろう。誰にも言ってなかった秘密のことだったのに。
 絵が好きなんだろう、と君は念押しに訊いてくるから渋々僕はうなずいた。
「絵はいいね。才能がないとできないよ」
「そうかな」
「いろんなことを表現して、人を感動させたり、何かメッセージを発信したりできる。もしかしたら人を幸せにすることができるかもしれない」
 そう君が言うから、僕は首を捻った。
「絵は人を幸せにはしないんじゃないかな」
「そんなの分からないだろう」
 君はきっぱりと言って僕を見たが、その後自信をなくしたのか目を逸らした。
「そもそも、そんなに絵にはこだわっていないんだ。かといって本当にやりたいこととかはないんだけど」
 僕は早口で一気に言う間、君は寂しそうな顔をしていた。だけど僕はさらに言った。
「このままでいいと思ってる」
「このままで?」
「うん、このままでいいんだ。先の事を考えるのは嫌いなんだよ」
「どうして?」
「君だって嫌いだろ?」
 そう訊くと君は首を振って、それからじっと見つめてきた。
「どういうこと?」
 僕がまた訊くと、君は誤魔化すように空を見上げた。僕達は誤魔化し合ってばかりな気がしてきた。お互いを誤魔化し合ったとしても、自分自身を騙す事などできやしないのに。
「先の事を考えるのは難しいじゃないか」
 僕は負け惜しみのように言うと、君はうなずいた。
「うん、それは知ってる」
「だったら君も一緒に考えてほしいな」
「いや、それは出来ないんだ」
 君の否定は思ったより早かった。なんで、と僕が訊くより前に君は答えた。
「君の人生だからね」
 当たり前のことなんだけれど、一気に君から遠ざけられたような気がして嫌だった。
 君はこれまでの僕のことをよく知っていた。どんな場面であっても、鮮明に僕のことを表現できた。でも僕は何にも覚えていなかった。空っぽの記憶だった。
 それでも君は、そんなに僕のことを知っているのに、この先のことはちっとも表現してくれない。僕達はいつかどこかで離れてしまって、それからはきっと助けてくれないんだろう。君の態度を見てるとそう思ってしまう。
 そんな事を考えて、長い夜を歩いた。線路は僕達のすぐ隣にずっと続いている。空と線路の淡い光で照らされた道を僕達は歩き続けた。そしてふいに君は言った。
「もうここからは一人で大丈夫かな?」
「うん、大丈夫」
 なぜだか僕は何の抵抗もなくうなずいていた。君と別れることを少しもいとわなかった。
「線路を歩くだけだろう?」
 僕がそれだけを確認すると、じゃあ、と言って君は背を向けた。
 でもあと一つだけ、君に訊いてみたかったことがある。でもその答えはすでに知っているような気がしていた。それでも僕の口は無意識に開かれていた。
「なんでここまでついてきてくれたの?」
「当たり前じゃん。君は僕なんだから」
「どういうこと?」
 そう訊きながらも僕はもう知っていた。
 ――君が、ほんの少しだけ昔の僕だってことを。
 最後にこれをあげるよ、と君は背負っていた鞄から何かを取り出した。
「駅に着くまで開けてはいけないよ」
 君が渡したのは、B5サイズのノートだった。普段鞄に入れているものよりは小さいが、分厚くずっしりと重かった。表紙は古びて赤茶けているのに、そのページは一度もめくられたことがないかのようで、ノートの骨格は新品のようだった。
 僕は君の背中を見送った後、一人で黙々と歩き始めた。真横には相変わらず線路が続いて、きっとこれからも共に歩いていくのだろう。
 考えたくないと言っていたくせに、この先の事を考えていた。君がいなくなって、やることがなくなったからだ。君の言いつけ通りノートを開くこともしなかった。
 世界中の人々の幸せについて考えてみた。僕はそれについてそこまで真剣に考えていないと思っていたけど、本当は考えていないとも言い切れないのかもしれない。そのこと自体は、この先の僕と関係あるのだろうか。絵の事についてもいろいろ考えたけど、結論は出なかった。頭の中は雑踏と化していた。
 やっぱり難しいんだよ、と君に言いたかった。
 こうして歩いていたら、やがて駅舎が見えた。夜はいまだに続いている。永遠に思えるほど続いた線路の脇にその駅舎はあった。駅は思ったより簡素で、改札はなく、駅員もいない。ただ古びた小屋があって、それが線路の隣にあるというだけで駅舎だと、僕は思った。
 僕はおそるおそるその駅舎の中に入った。中は意外にも清潔で、誰もいないようだった。隅にある茶色の椅子に腰かけると、隣の壁には時刻表が貼ってあるのが見えた。でも、ここで僕が待つのは始発列車ではない。
 ここで僕は、未来の自分を待っている。それが役目なんだと確信していた。
 「君」が現れるその時まで、暇つぶしに「君」のこれからのことを考えておくことにする。そして、考えたことをもとに僕はさっき別れた昔の自分みたいになって、「君」の将来について質問する。その質問に「君」は答えられなくてもいい。僕みたいに、別れた後にゆっくり考えたらいい。この先のことや、そしてこの線路がどこへつながっているかを。
 僕は昔の自分からもらったB5のノートを開いた。開いた途端、青白い光が目の前でポッと光って、その瞬間僕は全ての思い出を知った。光が終わって、ようやく見えたノートの文字はすでに知っているものだった。やっぱりキャンプのことだったじゃないか、とここにはいない君に言う。だが、ページをめくっていくとやがて白紙のページが出てきた。
 ここから先の物語は、きっと「君」にしか考えられない。この先のページは「君」が進むことで埋められる。
 「君」が現れたその時、僕はもう「君」にとっての過去になって、このノートに書いてあることを振り返って思い出に浸ることしかできない。
 駅舎の外には明けそうで明けない夜が続いて、僕は「君」を待っていた。

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