かつて世界を滅ぼした魔法使いのごくありふれた日常

木乃セイ

穏やかな朝だった。あまりに穏やかなので、まるで時が止まってしまったのかと思われるほどだった。男はゆっくりと目を覚まし、そして、まだそこに世界が続いていることを知った。柔らかい朝日がカーテン越しに部屋へ射し込んでいた。
男は身支度をして、階下へ降りていった。仲間たちは既に食事を済ませていた。戸建ての住宅、朝日が照らすリビングルームに集うにはやや奇妙な顔ぶれだが、男の大事な仲間たちだっ
た。
彼らは男を振り返り、それぞれに声を掛けた。
「ほら、やっぱり寝坊した」
最年少の少年が笑った。ケイ、と呼ばれている彼は歳の割に物怖じせず、そう、彼はきっと恐れというものを知らないのだ。世界が滅びるかもしれない、と、男が最初に相談を持ちかけたときもそうだった。彼は陽気に笑っていた。
「参謀がいないから、作戦会議が進まなかったよ」
短髪が印象的な女性が言った。エミイ。物静かで冷静で、指摘はいつだって的確だ。男は彼女を、自分にとって一番の理解者であると考えていた。彼女もそうだ。世界が滅びるなどという荒唐無稽でしかない考えを、静かに頷きながら聞いてくれた。
「兄さん、トーストまだあったよね。用意してあげてよ」
「え? もう食べた」
「ええっ、じゃあ冷凍のパスタか何か」
「食べた」
「ええ︙︙」
エヌとエフ。ケイと合わせて三兄弟を名乗っているが、誰を長兄とするのかは決まっておらず、全員で互いを兄と呼び合っている。出自どころか、年齢も定かでない少年たちの不思議な絆は見ていて微笑ましいものだった。
「冷蔵庫になんか入ってるでしょ」
「冷蔵庫? 食べた」
「冷蔵庫は食べないでしょ!」
兄弟のやりとりはいつものことで、仲間たちも慣れた顔で聞いていた。朝食を食いはぐれたらしいと知った男は苦笑いを零し、そのまま食卓の空いた席に着く。
「あ、そうだ」
のんびりと手元の端末を見ていた青年が思い出したように言った。カイト。一見すると軟派で、ともすれば道化を演じがちな彼が、実はとても思慮深い一面を持っていることを男は知っていた。
「どうした?」
「あのさあ、なんだっけ。あれのあれが、あれだって言ってた」
「何もわからんが」
男は笑いながら言った。カイトは慌てたように取り繕おうとするものの、適切な語句がまったく出なくなってしまったようだ。
「いや、だからあれだよ。え? なんだっけ。マジで出てこない」
おろおろと視線を泳がせるカイトを、ケイが意地悪く笑った。
「覚えてねんだろ。出てこないんじゃなくて」
「ケイさあ、そういう言い方ほんとによくない。おれ歳上」
「カイトさんがしっかりしないからだめなんじゃん」
「︙︙だめかあ。だめじゃあ、だめだな」
諦めたようにカイトが肩を落とすと、仲間たちは一斉に笑い声をあげた。いかにも日常を切り取った、ごくありふれた光景だった。
「なんだその内容ゼロの発言」
「で、結局なんだったの」
「いや待って、もういい、調べるから」
「オレもそれがいいと思う。カイトさん自力で思い出そうとしたら百年はかかるもん」
「ケイはマジでうるさい。マジで」
世界の危機に集まった有志たちの作戦会議室にしては、あまりに穏やかで心地好い空間だった。誰も緊迫しておらず、呑気で、世界などはどうでもいいかのように振る舞っていた。
「エフ兄さん」
「なあに、エヌ兄さん」
兄弟たちがくすくすと内緒話を交わす。エミイは静かに微笑んでおり、ケイとカイトは放っておけば、いつまでもあの調子で喧嘩と呼ぶにも足らないじゃれあいを続けるのだろう。昨日もこの調子だった、と男は思いを馳せた。一昨日もそうだ。明日もそうだろうし、明後日だってそうに決まっている。世界滅亡の歯止めとなるべく集まったという意識が全員にあるにも関わらず、日々は穏やかに過ぎ去っていく。

それもそのはずだった。
男は穏やかに思いを馳せる。以前はもっと緊張感を持って、来るべき崩壊の日に向けてそれなりの対策を練っていた。そこに彼らがいてくれたのは単なる偶然にすぎないが、物語だって一度きりなら偶然が許されている。そこに彼らがいてくれたのは偶然だった。
ひとりでは立ち向かえなかっただろう。いや、世界は広いから、その真実に気づいたのが男ひとりではなかった可能性は充分にある。だが、その相手と手を組めない以上、それはいないのも同然だ。
その点で、仲間たちはそばにいてくれた。何度も助けられ、次第に恐慌に陥っていく世界のなかで、彼らと戸建ての家に集うことになった。泊りがけで遊ぶ友人たちのように過ごしていたのは最初の何日かだけだった。最初に止まったのは物流だった。次にインフラが不安定になり、そして徐々に、世界から人が姿を消しはじめた。
ひとりでは立ち向かえなかっただろう。だが、仲間がいた。それに事実として、世界を相手取った探索はどんなビデオ・ゲームよりエキサイティングだった。男は、そしておそらく仲間たちも、そのゲームの魅力に取り憑かれ、熱中するようになっていった。
世界崩壊。止まらない超常現象と、それを紐解く一冊の古書。
なぜそれが男の手に渡ったのだったかは︱︱なにせもうずいぶん前のことなので︱︱忘れてしまった。だが、男がその本の所有者であることは間違いがなかった。男は選ばれていたのだ。
「じゃあ、魔法使いだね」
エミイが笑って呟いたのを覚えている。
「かつて世界を救った魔法使いになるんだね、きみは」
そうだとも、と意気込んでみせた。この時代に世界を救った魔法使いなどという滑稽な逸話を遺すことも愉快に思えたが、それよりなにより、彼女が世界の一部である限りは、どんな代償を支払おうとも世界を救ってみせると思っていた。
そして実際に、探索は意外なほどに核心へと迫っていた。ほんのあと少しで届くといったところで問題が発生した。
最後の知恵の鍵を手にするために、人柱が必要だったのだ。熟考の余地はなかった。タイム・リミットが迫っていた。古書の内容を紐解けるのは男しかいなかったので、仲間たちが進んで人柱となることを受け入れた。進んで? 使命感から? いったい何が彼らをそうまでさせたのか、男にはわからなかった。
ケイは笑っていた。カイトは気遣うような表情で、エフはもしかしたら泣いていたかもしれない。エヌは人柱となったら食事ができなくなることをしきりに気にしていた。エミイは、
エミイは。
エミイは︱︱。

何もかも失って、使命だけが残された。

これがビデオ・ゲームだとしたら、悲劇的名作だなんて呼ばれたのに違いない。男は立ち尽くした。崩壊はすでに目前にあ
ったが、駆け出す気にもなれなかった。
一冊の古書。男には、その内容がすべて理解できるようになっていた。守るべきもののいない世界で、逸話となることがほんとうに自分の喜びだっただろうか。ビデオ・ゲームの英雄になったって、それを笑って冷やかす仲間たちはもういないのだ。
男は本を手に取った。男は頁を繰り、男は必要な呪文を唱えて、男は必要な儀式を行った。世界を再構築するために、まずは世界を滅ぼすことが不可欠だった。
世界は確実に崩壊に向かっていた。悲鳴、怒号、泣き声、笑い声、囁き声と絶叫、地響きと風鳴り、轟音と無音、そして︱︱。

目を閉じて、目を開くと。
男の望んだものすべてがそこにあった。
クリア前のセーブデータが残っていたビデオ・ゲームのように、男は再び仲間たちと共に世界に降り立った。あとはひたす
らな日常が続いていた。穏やかで、仲間たちに囲まれた幸福な世界。
望んでいたはずの世界だった。そこにはすべてがあり、完璧で、何もかもが満ち足りていた。

時折、吐き出してしまいたくなる。
ここには何もないことを。世界は作り物でしかないことを。
男がそれをしないのは、答えが明白だからだった。彼らはそれを受け入れるに違いない。男には確信があった。
彼らは受け入れるだろう。男がそれを望んでいるからだ。ここは男の望んだ世界であり、仲間たちさえも男にとって都合の
いい幻想にすぎない。何をどうしようとも、彼らはすべて許し、男を許し、みなが笑い、世界は続いていくのだろう。
明日も、明後日も、その先も、ずっと︱︱。

気が狂いそうだった。

「さあ、諸君」
男は言った。後悔は許されない。
「作戦会議をはじめよう。世界を救わないといけない」
おー! とカイトが拳を突き上げて、それに倣う者がいないことを訝った。ケイが笑い、エフとエヌはくすくすと何かを囁
き交わし、エミイは穏やかに微笑んでいた。

みなが笑い、穏やかな朝だった。
世界はどこまでもどこまでも続いていた。

END

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