佐伯友子
足掛け五カ月の業務、年度末の波濤を辛くも乗り切った。退勤前に、ほぼ手つかずの有給をみすみす捨てるのも癪で、繰越なしの期限切れ間際に、なけなしの一日を駆け込み取得した。
職場を出るなり、携帯の音楽アプリで八〇年代シンセポップを鳴らす。骨伝導イヤホンの振動、ドラムのビートに、小走りで駅へと駆ける。夕闇を割って走る電車で、勢い一駅先へ行き抜ける。近いようで遠かった隣町で、唐突に探訪が始まる。
夕映えの商店街は、帰宅途中の勤め人と買い物客で賑わい、暮れ方の忙しなさで素朴な活気に満ちている。昭和レトロなアンティークにあふれた雑貨屋。駄菓子屋前のコインゲームに群がる小学生。タイムセールに突入したパン屋。油の跳ねる音と揚げ立ての匂いが充満する肉屋のコロッケ。ショーケースに並ぶ手作り豆腐、がんもどき、湯葉。照り映える篭盛りの果実――
新規オープンの幟に目が止まる。七輪焼きの店だ。立て看板には、手書きのおすすめメニューと、店内の写真が留めてある。和モダンの内装で、味のある雰囲気だ。自炊の及ばないプロの料理を供されるほどの働きをしたと、暖簾を堂々とくぐる。
カップルやグループを尻目に、カウンターの端席に座る。宵の酒場は程よく賑わい、柔らかく穏やかな間接照明が、隠れ家的な雰囲気を醸している。
ボードのメニューとお品書きから、焼酎のお湯割り、本日の刺身三種盛り、海鮮七輪焼きミニコースを注文する。
休日前夜、仕事終わりの外食が、毎週末の愉しみだ。慰労を兼ねて、一週間ぶりにまっとうな食事にありつく。朝は食パンを即席スープで喉に押し込み、昼はコンビニのおにぎりかミニ弁当。夜は先週末の作り置きでカレーかシチューかハヤシ、あるいは鍋元に冷凍野菜と安い茹で麺を突っ込む。食べるために働いているはずが、いつの頃からか、働くために食べている。
せめてもの週末は、心ゆくまま、食に時間をかける。椎茸の肉厚さ、香を入念に噛みしめる。ハンバーグに混ぜられた大葉、柚胡椒を、鼻と舌でじっくり探る。お湯割にアジ、シャケ、イカ、スルメ、肉、茸とあれこれ肴を含んで、マリアージュを試みる。
女子大生らしい店員が、空いた皿を下げながら声を掛けてくる。
「お仕事終わりのお食事ですかぁ?」
明るい髪色に濃いメイク、小柄ながらハスキーな声がよく通る。
ようやく独りになれて、ぼうっとしていたい。が、若い店員の接客、気遣いの声掛けを無下にもできない。
「ええ……仕事に一区切りついたんで、たまには」
話途中で、向こうのグループ客が手を挙げ、大声で店員を呼んだ。
女独りの孤食にも、若い子に絡みたがる酔客にも、等しく接しているのだろう。備え付けの調味料を綺麗に整え、密かに労う。
一時間半ほどで店を出て、酔い冷ましに一駅分歩く。三月末の夜風は未だ冷々と、火照った体に吹きつける。足取りは軽妙に、鼻歌交じりにネオンライトを浴びて進む。たこ焼きの屋台で、明日の自分への手土産に一パック買う。
いつもの駅前に戻り、週一通いのメディアショップで、DVD最新作と映像化原作コミックをレンタルする。勢い隣のコンビニでもカクテル缶、スナック菓子、レジ横の揚げ物を買い込む。
アパートの部屋に入るなり、靴もシャツも脱ぎ散らかし、着古したジャージをつっかける。調達した夜食をフロアに広げ、第二陣とばかりに、満杯の胃へぐいぐい押し流す。
テレビとパソコンの動画サイトを点け放し、大食いやら衝撃映像やらを流し見る。スマホ片手にフリマアプリとECサイトをサーフィンし、指一本でカートへ放り込む。
体力と時間を考慮する平日夜の節制を盛大に破って、暴飲暴食とエンタメ視聴にどっぷり耽る。自律自制から解き放たれ、健康と自由を浪費し、手軽な愉悦にだらだら身を任せる。欲望のままに振舞う独り時間、半ば熱に浮かされ、休日前夜は更けていった。
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