才能の華を咲かせるために

福原大輝

足元から風を感じた。それでも雄一は気にすることなく、目の前のプリントに集中して採点を続けた。だが、ふふんという笑い声にはさすがに声をかけた。
「才華ちゃんっ」
その声にビクッと身体を震わせるが、やがてうふふと彼女は笑った。
小学一年生の才華は床で四つん這いになってこちらを見上げる。
「ここから入らないっていつも言ってるでしょ」
雄一は足元の窓を指さした。開けられたままの窓からは春の風が入り込んでくる。
彼女は立ち上がってスカートのほこりを払う。
「だって、こっちからが近いんだもん」
たしかに教室の玄関は、建物の回り込んだところにあり、この窓からが最短かもしれない。だが雄一は諭すように言う。
「小さい子が真似するからやめなさい」
彼女も十分小さい子なのだが、教育的にいつもこう叱るようにしている。
えー、とわざとらしく言った彼女は地窓を閉めに戻った。それから、靴を置きに玄関へと行く。そっちのほうが手間じゃないのだろうか。
プレハブで作られたこの教室には、子供たちが来る一時間前から雄一と教室の塾長が先に入って準備をする。そのとき、教室の窓を開け換気するのだが、雄一が地窓の鍵を閉めることはない。叱ったこととは矛盾するのだが、才華の遊んでいる姿を邪魔したくはなかった。
教室には、雄一と塾長がいて、白い長机に子供が五、六人いた。子供たちはそれぞれ自分の学力に合った教材を解いている。まだお昼過ぎだから小学生にもなっていない子ばかりだが、彼らは一人で勉強するということを身につけている。助けを求められれば雄一は手を差し伸べるが、基本的には、子供の自立を重んじている教室である。
教室は静かな空気に包まれるかと思いきや、
「なんで、違うの」
才華は隣で飛び跳ね、駄々をこねている。
三学年先の教材に取り組んでいる彼女にとっては、確かに難問である。
「もう少し考えてきて。できるから」
だが、雄一はそっけなくそう言った。彼女は不満そうに、赤で×がつけられたプリントを振り回しながら席に戻る。だが、やがてもう一度雄一の元に現れて「わかんない」とプリントを投げつけてくるので、雄一はそれをそのまま返す。何度かプリントを投げつけ合うのを繰り返して、諦めた彼女はふてくされて席に戻る。
最初はわからなくて当然である。そのように壁にぶつかることが大事だと雄一は思っている。問題にぶつかって立ち向かうことが子供たちの成長につながる。
時間がたつと、もう少し大きな、小学校の低学年の子たちが現れ始める。才華と同じくらいの歳の子ばかりで、彼女も走ってその輪の中に入る。
彼らは教材を机上に出しながら、輪になってそれぞれの学校であったことを話し始め、教室は活気づいていく。その雰囲気を壊したくなかったが、雄一は気を引き締めてそのうちの一人に声をかける。
「智弘君、席でやりなさい」
「はーい」
智弘は聞き分けのいい子であり、彼に声をかけたらまわりのみんなもそれに従う。
彼らは十分に賢い。集中するとすさまじい力を発揮して、上の学年の問題も正解を導くことができる。
そして、大人の顔色を見て行動する。
日が陰ってくる頃、才華が教室に来るときは通らない、玄関の扉が開かれた。
「すみません塾に行かないといけないんです」
眼鏡の女性はいつもこうして早口でまくし立てる。彼女は才華の母親だ。
また別の日には、ピアノが、スイミングが、英会話が、……いろいろな理由がそこに入るが、口調はいつも同じだ。
あらあらと言う様子で、塾長はわざとらしく時間をかけて才華を探すふりをする。
才華は荷物をまとめ始めた。教材が終わっていないときはその残りを持たせて、塾長は才華を玄関へと導く。
「ありがとうございました」
才華は困ったような笑顔でいつもそう言う。丁寧に頭を下げるその姿は雄一の目に寂しく映った。親の前では先ほどまでの快活な様子は消え、才華はしおらしい女の子になる。母親は才華の背を押し出すように、教室から出て行った。
この教室も学習塾のはずなのにな、雄一は子供たちに聞こえないように心の中でつぶやいた。
夕方になるとそれぞれの教材を終え、子供たちはみんな帰っていく。
子供たちが学習した後の白机は黒鉛で汚れている。その汚れを布巾で落としながら、雄一は塾長に話しかけた。
「この子たちってどれだけ勉強するんですかね」
才華や智弘だけでなく、他の子供たちも同じように学年の先々まで進んだ内容を学習している。それなのに、ほとんどの子が他の学習塾や習い事にも通っている。
「ここだけじゃなくて、他の塾も行ったり、英会話とか、たくさん習い事したり、僕が子供の時には考えられないほど忙しく過ごしています」
そうね、と塾長は言った。
「そんなに焦って勉強する必要ないのにね」
最近は熱心な親御さんが多いから、とその後つぶやいた。

本棚の横で寝てしまった才華を起こそうとしたら、智弘に袖を引かれた。
「起こさないであげて」
今日は、低学年の男の子たちが激しく喧嘩をしていた。物の取り合いが流行っていて、それがエスカレートした結果、一人の男の子が才華の筆箱に手を出したように見えた。カエルの口が取り出し口になっている円柱状の筆箱だった。
才華は男の子と二人で筆箱を引っ張り合い、だがやはり力では及ばず、奪われてしまい泣きべそをかいた。塾長に問い詰められると、実は才華の方からこっそり手を出したようだった。これからはお互いに勉強の邪魔しないようにと、塾長は注意した。
その後才華はいじけた様子で教室にあるパズルを始めて、そのまま眠ってしまったということなのだ。
でも、やがて彼女の母親が教室に来てしまう。教材が全く進んでいないと具合が悪いと思った。
雄一は智弘に訊く。
「なんで起こしちゃダメなの?」
智弘は幼いながら、つばを飲みこんで思考をまとめてから話す。
「学校でも似たようなことがあって疲れていると思うんだ」
「似たようなことって?」
「物の取り合い。でもそのとき才華ちゃん、我慢していたんだ」
先ほどの取り合いのときの才華は、男の子に泣かされそうになっているのに、にやにやしていて、どこか楽しげだと雄一は思っていた。それが不思議だったのだが、智弘の話を聞いて納得がいった。
学校で騒ぎを起こしたら、家庭にまで連絡が行ってしまうということを危惧しているのだ。それで学校では我慢しているのであろうが、ここでは同じ学校ではない子供の方が多い。我慢せずに発散しているのかもしれない。
雄一は才華の閉じられた瞼からしずくが一つ落ちるのを見た。
そのとき、扉の音が鳴り、雄一は驚いた。見上げるとそこに才華の母がいた。
寝ている才華をにらみつけ、一気に怒声を上げる。その勢いで才華だけでなくその場の全員がそちらを向いた。
何しているの、勉強は、
しっかりやりなさいっていつも言っているのにあなたはどうして……
すさまじい剣幕で言葉が繰り出された。
怒声が収まったころに、お疲れだったみたいで、と雄一が言うと母親は彼をにらみつけて低く言った。
「すみません、失礼します」
母親はまだ靴を履ききっていない才華の腕を引っ張った。振り向く余裕を与えられなかった才華のその表情を見ることができなかった。

「才華ちゃんがいなくなった?」
雄一は慌てて、携帯を落としそうになった。教室は休みで家にいる日だった。
そうなの、と塾長は言った。
「今うちの子の塾に迎えに行っているところで……。だからごめんなさい。行ってあげてくれる?」
「わかりました」
どうやら才華は家から突然いなくなったらしく、母親が探しているようだった。心当たりはないかと、塾長に連絡があったのだ。
雄一は急いで才華の家に向かった。そのまわりには、近所の親御さんや才華の同級生など、人だかりができていた。
才華の母はそこにいる人たちに対して、塾長から聞いたことと同じ話をした。とにかくいつの間にかいなくなっていたらしい。雄一は焦れて訊いた。
「きっかけか何かわからないですか?」
「きっかけ?」と繰り返し、母親は呆けた顔をした。
「わからないんです。普通に宿題していただけなんですが」
普通に、と雄一は脳内で繰り返した。
「今日はピアノがあるんです。それで呼びかけようとしたら……」
ピアノがあるんです、という彼女の言葉から雄一は耳をふさいだ。嫌な感情が広がっていき、それが表情に出ることを気にも留めなかった。
きっと母親には悪気がないのだろう。でもその言葉や言い方が雄一は嫌いだった。
とにかくこの辺りで探してみようと、誰かの父親らしき人が言った。
夕方過ぎ、空が暗くなっていた。捜索するその中に、智弘もいたので、雄一は訊いた。
「心当たり、ないよね」
智弘は小さくうなずいたが、その後ぼそっと言った。
「でも、きっときついんだと思う」
何がとか聞く前に雄一はその言葉の意味を理解していた。かがみこんで目線を合わせてから、智弘に訊く。
「智弘君は大丈夫?」
「才華ちゃんほどじゃないから」
小さく微笑んだ彼をいじらしく思った。
すると、突然に才華の母が話しかけてきた。
「先生、教室は今日お休みだとは思いますが、そのあたりを一応見てきてもらえますか?」
はい、と短く答えて雄一は塾長の家へ急いだ。教室の鍵は塾長が持っている。だがしかし、その途中であることに気づいて、踵を返し教室へまっすぐに向かった。
教室に着く頃には空が暗くなって、プレハブの教室は一層物々しく、向かう足が少しためらわれるほどだった。だけど雄一は一直線に教室に近づいて、玄関に回ることはなかった。
子供の背の高さくらいある窓を見つめ、そっとそれに手をかけた。音を出さないように動かすと、それは抵抗もなく開いた。雄一は細身だったので、なんとかその隙間から入り込むことができた。
暗い教室の中で目が慣れてくると、教室にあるパズルや本が散らかっていることに気が付いた。それらは次第に乱雑に入り組んでいて、その奥、玄関の前に、才華は猫のように丸まっていた。
「才華ちゃん」
小声で呼びかけると、彼女は顔を上げた。その後雄一に向かって走って、抱きついた。泣いているかもしれなかったが、彼女は少しも声を出さなかった。ただ震えていた。暗い部屋で雄一は何も言わなかった。
なんで家を出て行ったの? 習い事がいやだったの? 
聞きたいことはいくつもあったけど雄一は黙っていた。
彼女にとってはここだけが安寧の場所だったのかもしれない。広げられたパズルと本が彼女を取り囲んで、何者かから守っているようだった。
雄一は何も言えずにいたが、彼女は突然彼から離れた。
暗い中でも勝手知ったる様子で、塾長の机上のティッシュ箱を探しに行き、鼻をかんだ。
そして、帰る、と一言言った。
「お母さんに連絡していい?」と雄一が言うと、こくりとうなずいた。
教室に母親が迎えに来て、いつもの癖で才華は靴を履きながら言った。
「ありがとうございました」
彼女はいつものように、しおらしい女の子になってしまった。
また元の生活に戻るのはいやなのかもしれない。だとしたら、雄一は彼女を引き留めたほうがよかったのだろうかと思った。

「すみませんピアノがありますので」
才華の母はまた教室の玄関に入るなりそう言った。その様子はいつもと変わらぬように見えて、少し改めたようだった。才華が幸せそうな笑顔で教室を出て行く度雄一は安心していた。
塾長に事情を話したとき、また親子で衝突することがあるでしょうね、と言っていた。
「それでも、才華ちゃんのことが大切じゃないわけないはず」
確かに雄一もそうだと思った。
ただ大切で。
育ってほしいとそう思う一心で。
才能の華を咲かせたい、という気持ちが周囲の人を動かす。
子供たちは無限の可能性を持っている。その華を咲かせるために躍起になっている親や雄一たちがいて、その中で、子供たちは何を思うのだろう。そして、この日々を思い出したときどう感じるのだろう。
教材の答えを知って、大人になった彼らに訊いてみたい。
何が正解だったのって。

コメント