kenken
第一章 土色の明日
1
承応二年(西暦一六五三年)の話である。
二十二歳になる味噌職人の彦八は、走っていた。通り過ぎる風が、目に染みる。目に涙が浮かぶ。
心ノ臓が早鐘を打った。森林に囲まれた、人一人が歩けるだけの細い道を、躍起になって走った。味噌蔵へ急いだ。
露を帯びた土が草鞋に絡む。落葉を踏む。先ほどまで爽やかだった草木の匂いが、今は疎ましいものに感じた。
泣きそうだった。焦っていた。必死に足を動かした。喉が渇いた。
「はーはー、ぜーぜー」止まって休憩したい。水を飲みたい。
だが、父の一八の怒りまくる姿が脳裏に浮かんだ。怖い、怒られる。彦八は歯を食い縛り、さらに足を速めた。
道に沿って、円錐形の樹形をした杉の木が並んでいる。細長く直立し、枝葉が丸みを帯びた綿のように付いていた。杉の木の樹皮は人肌のような赤みを滲ませ、彫りの深い姿をしていた。
彦八は、杉の木の横を抜けると、視界が開け、森林を抜けたと思った。眼下に田圃が広がる。田圃を抜ければ、町に出る。
もう父にばれているかもしれない。鼓動が異常に速くなる。心ノ臓を加虐する。足が地面を蹴るたびに、後悔と自責の念が頭を擡げた。
なぜ、横になろうと思った。なぜ、寝てしまった。過去の自分がいたら、咎めたいと思う。
彦八は額から汗を滴らせていた。首や背中にも熱を感じる。息が荒い。休みたい、だが、急がねばならない。
前方に、黄金色の稲穂が実る田圃が迫る。頭を垂れ、一年の労苦が結実し、後は収穫を待つ。土から剥き出しになった石を避けて走る。下り坂の道が彦八の足を速めた。
突然、身体が宙に浮かんだ。地面に落ちている石に蹴躓いた。胸から地面に倒れた。胸と頬に痛みが走る。
起き上がると、着物に泥がついていた。体のあちこちに痛みを感じた。草鞋が脱げていた。
頬に触ると、血と泥がついていた。目から涙が溢れた。急がなきゃ。着物についた泥を払い、草鞋を履くと、また駆け出した。田圃の畦道を走った。
畦道には、柳蓼が生えていた。円柱形の茎をしていて、葉が尖っている。彦八は柳蓼を踏んで、先を急いだ。
ほんの休憩のつもりだった。一八から頼まれた、味噌の天地返しの途中で、味噌蔵を抜け出し、二町ほど離れた野原で横になった。野原には池があり、彦八の好きな目高が泳いでいる。鉄葎が黄緑色の花をつけていた。そこは、彦八のお気に入りの場所だ。町人はほとんど通らず、一人になれた。そこにいれば嫌な思いを忘れられた。
目が覚めた時には、夕方になっていた。赤く染まった陽が西に傾いていた。慌てて起きると、駆け出した。
2
畦道を走り、一町ほどすると、平坂街道の先っちょに出た。急に人の気配が多くなった。
彦八の勤める味噌屋は、街道沿いに建っている。昔からある豆味噌を作り、町人には味噌を、旅人には味噌おにぎりを振る舞い、そこそこ繁盛していた。
駆けていると、何人かの町人が振り返った。彦八は気にしている暇など一切ない。さらに駆け出した。
前方に純助がいた。こちらに向かって歩いてきた。純助は同じ五人組の一人で、薬屋を営んでいる。身体つきは中肉中背で、木綿の着物を羽織り、医者でもないのに、総髪に髻を付けていた。
医者気分なのだろう、好い気なものだ。
薬を売り出したのは、ここ最近だが、不思議と繁盛している。町では腹痛が流行り、純助に銭を与えていた。
純助は走る彦八を、訝しげに睨み、腑に落ちない顔で尋ねた。
「どうしたんじゃ? いったい、何を慌てとる?」
「急いでいるんじゃ、一八に叱られる」彦八は走りながら、言葉少なく答えると、純助を置いて、先を急いだ。
3
半町ほど走ると、味噌屋に着いた。
一八は、店の前にいるだろう。彦八は、一八の目に入らぬように、裏手に回った。自然と緊張した。手足が小刻みに震え、喉がごくりと音を立てる。全ての音を逃さぬよう、耳に集中する。
微かな音にも目線を送り、反応した。すーはー、自分の息の音が聞こえる。極限まで集中した心は、どんな些細な変化も見逃さない。
彦八は無事に、井戸に着いた。井戸は無人だった。彦八は蓋を開け、釣瓶をゆっくりと井戸の中へ落とす。
ぼちゃんと大きな水の音がした。やっちまった。彦八は、焦った。一八に聞こえたのではないか、急いで周囲を見渡す。
一八が飛んでくる気配はなかった。ふー、よかった。肩を下ろして息を吐いた。
彦八は、できるだけ音を立てぬよう、滑車に繋がれた縄を、慎重に引っ張った。ざーざー、釣瓶から水が落ちる音がした。どきっとした。
周囲に変化はない。心ノ臓が痛い。小刻みに震えて、歯型が噛み合わない。そのままなんとか縄を引っ張った。
水を汲んだ釣瓶が滑車から上ってくる。眼前に釣瓶が上がった。急いで、盥に水を張ると、井戸に蓋をして、釣瓶を載せた。
盥の水を、手で掬い、手や顔に付いた泥を洗い流した。頬に痛みが走った。転んだ時につけた傷口に触れた。濡れた手でそっと、傷口の泥を落とす。
なんでこんな目に遭うんじゃ。彦八は気持ちが滅入り、頭を落とした。また涙が溢れた。音を出さぬよう、静かに泣いた。涙で視界が歪む。目を閉じても涙が止まらず、着物の裾で涙を拭いた。
泣き終わると、盥に残った水を手で掬い、口に含んだ。冷たい水が乾いた喉を潤す。
久方ぶりに爽快な気持ちになった。ふー、息を吐いた。さらに水を飲むと、余った盥の水を静かに流し、片付けた。
4
彦八は足音を立てないよう、忍び足で味噌蔵に入った。
また、緊張し始めた。足が震えるのを感じた。足元が覚束ない。震える歯のかち合う音を聞きながら、注意深く周りを窺う。
陽が傾き、味噌蔵の中は薄暗く、蔵の奥は、闇に溶けていた。人の気配はなかった。ぷーんと、濃厚な味噌の匂いがした。
味噌蔵には、幅六尺ほどの味噌の入った樽が、百個ほど置いてある。一つの味噌樽に、千六百貫ほどの味噌が仕込んであり、味噌の上には重石として、八百貫の石が円錐状に置いてあった。樽には僅かだが、小さな割れ目があり、そこから、汁がこぼれていた。
彦八は一八がいないのを確認すると、大きく息を吐いた。ふー、ばれていないようだ、急いで天地返しをしよう。
彦八は急ぎ足で、味噌樽に階段を掛けると樽を登った。味噌を抑えるために、積み上がった石を三個ほど、胸に抱えると、足早に階段を降りる。
地面に石を置くと、また階段を登る。それを繰り返す。かなりの重労働だ。顔が火照って、暑くなる。額に薄っすらと汗が出る。背中も熱を帯びる。
本来は三人一組で行なう作業だが、今日は他の二人が休みのため、彦八一人で行なっていた。石は二百五十個ほどある。
石を積む職人になるのに、十年は掛かると言われている。
彦八は、味噌職人になって十二年ほど経つ。もう仕事は覚えた。立派な職人だ。だが、今もって味噌は苦手だ。仕事だと割り切っているが、他の職人のように味噌と向き合う仕事はできない。味噌を愛せない自分がいた。精魂を込めて作れなかった。いつもどこかで、手を抜こうとした。
自分は味噌作りは向いていないと思う。さすがに十二年もやっていると、顔には出ないが、心の中では、顔を顰めてしまう。
石を十個ほど下ろした時、先ほど飲んだ水で、冷えたのか、急に腹が痛くなった。手でゆっくり腹を摩るが、痛みは止まらない。ぎゅるるる、腹から嫌な音がした。慌てて、味噌蔵から出ると、店の外に作られた厠に向かった。
厠から声が聞こえた。
「うーん、はああああ、うんうん」誰かが気張っている。
彦八は泡を食って、肛門に力を入れた。待てない。腹がさらに鳴った。ぎゅるるる、ぎゅるるる、やめてくれ、早く代わってくれ。彦八は、厠の扉を叩く。
「今、入っている。静かにせんか」太い声がした。一八の声だ。
一瞬、彦八は動きが止まった。わー、声にならない悲鳴を上げた。あやうく、身が出るところだ。腹も悲鳴を上げた。
ぎゅるるるる、ぎゅるるるる。助けて! しんぼう堪らず、彦八は、さらに扉を叩く。普段なら反抗心すら湧かない一八に、初めて殺意が沸いた。殺したい、本気で思った。
「わかったから待っていなさい」一八は静かに扉を開けると、縮んだ巨体を伸ばし、颯爽と出て行った。
彦八は、獲物を見つけた鷹のように、鋭い速さで厠に入った。できたての糞尿の臭いが、鼻を刺す。だが、気にしていられない。
慌てて、褌を取ると、糞尿を入れる穴に跨った。腹に力を入れる。
下痢だ。突き上げるような痛みが走る。そのまま垂れ流した。軟便の音がした。ふーふー、息が弾む。
尻に違和感がある。まだ、出しきれていない。さらに腹に力を入れる。ぐーと、便が弾けるように、押し出され、肛門から飛び出した。ざーざーと音を立て、穴に落ちた。もういいだろう、はぁー、大袈裟に息を吐く。自分の便の臭いがした。臭い。
彦八は気を取り直して、紙で股を拭いた。呆けたように空を見つめた。出るものを出したからだろうか、痛みが治まった気がした。
もう、踏んだり蹴ったりだな。少しだけ落ち着いた彦八は、絶え間なく続く不幸に自嘲気味に笑った。頬を触ると、傷口の血は固まっていた。
井戸で念入りに手を洗うと、また味噌蔵に入った。陽は沈み、辺りは暗くなっていた。
蔵の中は闇となり、積んである石も確認できない。どうしよう。まだ味噌の天地返しがしていない。間に合わない。彦八は焦った。顔が上気する。緊張が走る。
先ほどの一八を思い出して、恐怖した。頭の隅では、どうやって誤魔化すか、考えていた。
石が多かったから、思うように進まなかった。階段が壊れたから、終わらなかった。いや、いっそのこと、天地返しは終わった話にしたらどうだ。
そうだ、そうしよう。彦八は決めた。誰も見ていた者はいない。このまま終わった話にしよう。
夜目が冴えてきた。手探りで石を確認しながら、取り除いた石をまた、一つ一つ積み上げていった。良心は咎めたが、一八に怒られるよりはマシだと思った。石を積み終わった。腹を決めた彦八は、そ知らぬ顔で味噌蔵を後にした。
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