壁にかけられたモニターの一つに、白衣を着た感染者が生存者に掴みかかる様子が映っている。生存者は腕を払いのけて逃げようとしたが、前に出した手を咬まれて指を食いちぎられた。ひるんだところに感染者は襲い掛かり、顔に食らいついた。
画面越しでは音は聞こえなかったが、生存者はひどい悲鳴を上げているのだろう。感染者が顔を上げると、口にぼろキレのようなものを咥えていた。生存者の顔の皮と筋肉を食いちぎったようだ。それを塩化し、掴んだままの生存者の顔に再び噛みつく。
モニターを見ていた者の一部は思わず顔を背け、ある者は眉間にしわを寄せながらも目をそらさず、またある者は表情を変えずに食い入るように見続けた。
レベル5研究室を備える施設のコントロールルーム。ここには施設の保安責任者と研究責任者、そして何人かの研究職員が集まっていた。第1研究室の者は数が少ない。漏出した病原体にやられ、感染するか、感染した者の餌となった。
責任者は、約72時間前に発生したこの惨事を思い返した。
バイオハザードの発生源は第1研究室だった。ここは病原体があっても感染を媒介する生物を扱っていなかったために、バイオハザードが起こる可能性が最も低かったのだが、思わぬ落とし穴があった。作業用ロボットを点検する際の消毒の手順を遵守しなかった間抜けがいたのだ。
本来ならばクリーンルームで防護服を着た上で完全に分解し、全ての部品の全ての面にガンマ線を照射して余すところなく有機物を焼き尽くさなくてはいけない。それを、ある整備員が手順を守らなかったせいで、ロボットに付着した病原体に暴露したことでこのような事態が生じた。天文学的に起こる可能性が低い事態だったが、発生したということが唯一の事実だ。
幸いにして第1感染者が他の区画に入る前に封鎖に成功した。中の人間は非感染かどうかに関わらず閉じ込めることになったが、それは最初から想定されている範囲内だ。
すでに再発防止のために整備手順の見直しが行われている。2度と同じことを生じさせない。
問題は封鎖した第1区画の処理だった。正しい処理手順では、封鎖を完了した後は〝焼却〟を行う。作動のためのキーは既に責任者の手の中にあった。
だが、72時間の猶予が与えられた。第3研究室の責任者からの幼生で、感染区画の状況をモニターしたいとの要望が入ったのだ。
転化してから間もない感染者のサンプルは数が少ない。そもそも、サンプルに〝使う〟生きた人間は、国の権限をもってしても簡単に手に入るものではない。それに下手に感染者を増やすと、管理に問題が生じる可能性がある。第3研究室は、めったに手に入れられないサンプルの行動を知りたがっていた。
同時に、実際の生活空間内における感染者の行動を調べられる機会でもあった。閉鎖された狭い実験室内での試験では、得られる反応が限られている。本当に感染が外の世界で広がった時に、感染者がどのように行動するのかというサンプルが必要だというのが、第3研究室の主張だった。
責任者は考え、72時間の猶予を許可した。
それから現時点に至るまで、研究員たちは可能な限りのデータを保存し続けた。咬まれた者が転化し、転化した者がさ迷い歩き、生存者の抵抗にどう反応するかを見続けた。
気が狂っていると人は言うかもしれない。だが、この病気が外に漏れた際に、今彼らが集めているデータが役立つかもしれない。彼らはやるべきことをやっているに過ぎない。事故の犠牲を無駄にしないという意味では、これが最も正しいともいえる。
そして、彼らのデータ収集も終わりに近づいている。あと2分で封鎖から72時間が経過する。生存者は、つい先ほど画面の中で食い殺された研究者が最後だった。ブラストドアの近くまでたどり着き、カメラに向かって手を振り、開けるように懇願する様子が何時間も録画されたが、やがて諦めて近くの部屋に閉じこもった。
だが、食料を調達しよとした際に見つかったのが運のつきだった。追いかけてきた感染者――元は研究員の女性だったらしい――を殴り殺したが、声を聞いてやってきた別の感染者に食われてしまった。2分後には一瞬で焼け死ねたのに、その機会を逃したことが彼にとっての不幸だと言えた。
「彼を知っています」
隣で声が聞こえ、責任者はそちらを見た。データ集めをしていた第3研究所の職員が、モニターに映る感染者を見ていた。
「この感染者か」
「ええ」
責任者はカメラに備えられているIDリーダーが読み取った情報をモニターに表示した。
「榊陽介」
「よく一緒に食事をしました。優秀な奴です。いや、奴でした」
「病原体の構造を解析に貢献したと聞いた」
「そうです。惜しい人材を亡くしました」
「まったくだ」
モニターの中で、72時間のカウントダウンが0になった。責任者はコンソールに近づき、首に下げたケースからカギを取り出した。コンソールの鍵穴に挿し込んでひねり、キーパッドで暗証番号を入力すると、赤いボタンを覆っている蓋のロックが外れた。
ボタンを押す前に、責任者はモニターをざっと眺めた。感染前の行動をなぞるようにうろつく感染者、廊下に転がる喰われた死体、まだ無傷の部屋、世界最高レベルの研究室。
責任者がボタンを押すと、各所から燃料が噴き出し、モニターが霞んで見えた。その2分後、猛烈な火炎が汚染された区画を舐め尽くし、設置されたカメラを全て破壊した。
感染した者たちの肉体が消し炭になるとともに、全てのモニターの映像が消えた。
屍病

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