モニターに手を触れていると、突如として画面がブラックアウトした。どうじに部屋が一瞬だけ暗くなったような気がした。榊はぎょっとしたが、その直後にすべてが元通りになった。やはり気のせいだったのか。電源が落ちれば、問答無用でこの区画ごと消し炭にされる。やっと仕事が一歩前進したところで、そんな目に遭わされるのは惜し過ぎる。
この画面を消すように病原性タンパク質を失活させられる方法が見つかれば、予防や治療に役立てることが出来る。だがそう簡単にはいかないだろう。普通のタンパク質とはわけが違う。熱、紫外線、放射線への耐性がやけに高く。こいつを破壊できるエネルギーを与えた場合、ほぼすべてのタンパク質が分解するか変質してしまう。こいつを破壊する場合、感染した生物の体全部を損傷させるほどの処理を行わなくてはいけないのだ。すなわち、即死レベルのガンマ線をしばらく浴びせるか、灰になるまで焼き尽くすか。それが現在のところ唯一の「治療法」だ。
タンパク質の構造は判明したが、それはまだ入り口に過ぎない。榊の仕事はまだ始まったばかりだと言える。仮眠を終えたからには、やらなくてはいけないことがある。よれよれになってもやるべきことが。
そう考え、研究室内のシステムを動かす端末に向かったが、自分がこれをどうやって動かせばいいのか分からなくなっていることに気が付いた。無意識にやっていた動作を意識すると、どうすればいいのか分からなくなってしまう時のように。動作のゲシュタルト崩壊とでもいうか、歩き方が分からなくなったムカデというか、そんな状態になっていた。
少し寝た程度では疲れが取れなかったのか、一度緊張が切れたせいで、色々とリセットされてしまったらしい。よくよく考えてみれば、仮眠をとる直前にやっていた作業が思い出せない。疲れすぎて半ば自動的に行っていたのだろうか。まるで、この代物に感染してしまったかのようだ。
これに感染した場合、体だけでなく脳――人間としての人格や認知力、思考力までもが失われていく。肉体が生きながら腐敗していくよりも、そちらの方が恐ろしいかもしれない。榊のようなインテリはもちろん、自分であることが失われる恐怖はあらゆる人間にとってこの上なく恐ろしい。
感染して昏睡状態から目覚めた患者は、失認症、失語症、記憶障害、快感の消失などの症状を呈する。人や物の様態を正しく捉えられなくなり、言葉をまともに発したり理解したりできず、自分も周りの人も物も思い出せず、楽しいや嬉しいといった気持ちも失われる。
組織の壊死は筋肉や神経には及んでいないために運動機能は残ってはいるが、条件行動、運動制御、本能行動が損なわれ、動きは無気力で疲れきったような物になる。あたかも酔っ払いのようにふらつくばかりで、走ったり、梯子を上ったりすることが出来なくなる。失認や記憶障害のせいもあって、指先を使った細かい作業も出来ない。感覚の鈍麻に伴って痛覚も極めて鈍くなる。
こうした症状は例が無いので、便宜的に「意識欠陥活動低下障害(CDHD)」の名前が付けられている。
CDHDに加え、感染者は摂食を中心とする欲求行動や、攻撃行動の抑制が不可能になる症状を呈する。さらに、他の生物――牛馬から猫程度の大きさの範囲内にある動物――に咬みついて捕食しようとする、反社会的行動パターンを見せるようになる。著しく攻撃的になり、動物を見つけ次第取って喰おうとするのだ。
榊がぼんやりしているのは疲れと寝ぼけによる物なので、時間が経てば治る。それに対し、感染によって行動が変化してしまえば治療の手立てはない。体の組織構造自体が変化して、タンパク質レベルでの変性が起こっている。目玉焼きにした卵を生に戻す方法が無いのと同じだ。
榊がタンパク質の解析を行って何らかの成果を出せるとしたら、それはこのタンパク質を選択的に破壊したり、免疫系に排除させたりする、初期治療か予防の段階での話だろう。インフルエンザに似た症状が出た時点で、すべてが手遅れになっている。
治療方法は安楽死だけだ。だが循環器系と血液、組織の変異によって、撃っても刺しても、毒を注射しても死ななくなっている。中枢神経系を物理的に損壊させるか、全身を熱や放射線で”消毒”するしかない。
もしも自分がそうなったら? 機器の電源を入れるのをあきらめた榊は、自分が”あの”ような姿になった場合を想像した。ここに来たときに見せられた感染者の姿を。あれは一目見たら、誰もが二度と忘れられなくなる。
感染者の生きたサンプルは第3研究室で”保管”されており、施設に来た者は感染者の姿を1度以上目にするのが慣例となっている。研究者は自分がこれから扱う存在を理解するため。保安職員は万が一の際に、自分が対峙する”敵”の姿を知っておくために。
保管されているサンプルは8体。榊が最初に見たのは、まだ若い男性の感染者だった。データには感染前の顔写真を除いて個人情報は記載されていなかった。年齢、身長、体重といったと身体的データ、感染したのがいつかということだけ。感染前の顔立ちは、どこにでもいそうな普通の若者とでもいうべきものだったが、防弾ガラスと特殊鋼のフレームで作られた防護チェンバーの中の〝もの〟は全く異なっていた。
背格好だけは人間の形をとどめていたが、肌はどす黒さを伴った灰色となり、酷く乾燥してしわが寄っていた。目やほほの周りは落ちくぼみ、髪はまだらに抜け落ちて、頭皮にみすぼらしく張り付くだけになっていた。
皮膚や皮下組織があちこちで壊死しているせいで、顔の一部から頭蓋骨が覗いている。委縮してまくれ上がった唇から暗い褐色になった歯が覗いていた。片方の頬は皮膚がごっそり失われ、黒色になった筋肉がむき出しになっている。
服は感染前から着ていたと思しき作業服だった。もともとはネイビーブルーだったようだが、大量の黒い染みが手足や胸元に付いているせいで、酷くカビているかのような見た目になっていた。黒化した血液が壊死した組織から漏出し、あのように服を汚すのだと教えられた。
チェンバー内の〝それ〟は、無気力に立っていることを除けば、死後1カ月ほど経った死体その物の見た目をしていた。
見学は〝給餌〟の時間にセットされており、榊はその様子を目にすることになった。チェンバーは大きな仕切りで2つに分けられており、片方ずつ清掃および消毒をしたり、実験に用いるための拘束具を準備したりできるようになっている。
榊が見ていると、感染者がいない方の側に太いホースが接続され、接続口から1匹のウサギが送り込まれた。実験によく使われる日本白色種だったが、動きがやけにゆっくりとしていた。説明されたところによると、少量の筋弛緩薬を射って、感染者が捕えやすいように動きを遅くしているのだという。エサに関しては、遅くても良いのでネズミ以上のサイズがある生餌である必要があるらしい。
ウサギは不穏な空気を感じているのか、力ない様子を見せながら、しきりと周囲を嗅ぎまわっている。ウサギを送り込んだ接続工が閉鎖されてホースが外されて収納されたのが確認されると、仕切りがゆっくりと上にスライドした。
2つの部屋の間に空気が行き来するようになると、感染者とウサギが同時に反応した。感染者はそれまでろくに動かず突っ立っていただけだったのが、スイッチが入ったように仕切りの方に向き直った。ウサギの方は明らかに警戒し、恐怖にとらわれたかのように、よろめきながら仕切りから離れようとした。
仕切りが8割がた上がってウサギの姿が見えるようになるや否や、感染者は即座にそちらに向かって歩き始めた。チェンバー内は完全に密閉されていたが、設置されていたマイクを通して、スピーカーから凶暴なうなり声とうめき声を合わせたような声が榊の耳に届いてきた。
感染者は両手を前に突き出し、不安定ながらも速足ぐらいのスピードでウサギに歩み寄り、動きの遅い哀れな獲物を捕まえた。皮膚が腐れ落ちて爪もほとんどが剥がれた手に捕まれたウサギは暴れて指に咬みついたが、感染者は全く頓着せずに口へと運び、ウサギの顔にかじりついた。
スピーカーから甲高い絶叫が響き、ウサギの後肢が激しくバタつく様子がモニターで確認できた。感染者がウサギから顔を離すと、白い毛皮に覆われていた顔の右半分は、組織がなくなって赤い髑髏のようになっていた。感染者はウサギの顔の半分を少し咀嚼して飲み込むと、またウサギの体に咬みついて毛皮ごと肉をむしり取った。
普通の人が丸ごとのリンゴや桃を食べるときと同じように、感染者は生きたウサギの体をむさぼった。果汁の代わりに血やこぼれた体組織が床に落ちて汚していく。ウサギの体から死後の痙攣も無くなると、感染者は興味を失ったかのように食事を終えた。先ほどまでかぶりついていたウサギから手を離し、エサが与えられる前と同じようにその場に立ったまま動かなくなった。
チェンバーの中には、手と顔、体の正面を真っ赤に染めた腐乱死体のような”もの”と、先ほどまではウサギであった残骸、そこからこぼれた血や体液の水たまりが残るだけになった。
”あれ”を作り出す存在が、これからの君の研究テーマだ。案内をした職員がそう言ったのを、榊は今でも鮮明に憶えている。
屍病

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