屍病

顔を洗って何とか脳が働くようにした榊は、先ほどよりは少しマシな足取りで洗面所を出てた。直後に自分が次に何をしようとしていたのかが分からなくなったが、すぐに自分の持ち場に戻ろうとしていたことを思い出した。仕事の続きをしなくてはいけない。重要な局面に差し掛かっており、それで徹夜続きになっていたのだ。
何度か道を間違えそうになりながら、窓が無い廊下を歩き続ける。途中にあるドアの窓からは、部屋の中に自分と同じように白衣姿の職員がいるのが見えた。いくつか開きっぱなしになっているドアもある。基本的にドアは常に閉めておくように決められているのだが、時折こうやって忘れる奴がいる。今日はそれが多いような気がした。自分と同じように疲れている者が多いのだろうか。注意しようにも部屋の中は空だったので、代わりに閉めておいた。
途中で職員の女とすれ違った。狭い職場なので顔を知っているはずだが、名前が浮かんでこない。ひとまず挨拶をしたのに、まるでこちらがいないかのように無視してすれ違った。誰もかれもダメダメな状態だ。これではいつかやばい事故が起こりかねない。
そういえば今は何時だろうか。腕時計を見ると、針は午前4時を示していた。普通の人間の認知力が最も低くなる時間帯だ。
自分は少し寝たのでマシになったが、彼女はどうだろうかと思って振り返ると、すでにいなくなっていた。足が速い。それともボケた頭が幻覚を見せたのか。
仮に頭がおかしくなっていると判断されれば、すぐに警備員がやってきて拘束される。仕事で取り扱っている代物に暴露していないかどうかを徹底的に検査され、大丈夫だと分かっても、危険だと判断されればクビになる。頭がイカレた人間に、危険物を取り扱わせることは絶対に出来ない。
精神面だけでなく、肉体面での異常も常にチェックされている。廊下の天井には、サーモグラフィーを搭載した自動判別機能付きの監視カメラがそこかしこにセットされている。こちらに引っかかっても、即座に警備員がやってくる仕組みだ。肉体面の健康管理は、働いている人間のためではなく、保安措置の一環として行われている。
廊下や各部屋の天井や壁には、カメラだけでなくスプリンクラーのようなノズルがいくつも備えられている。これも施設全体の安全が、中で働く人間の命よりも高く設定されている証拠の一つだ。
もし小規模な火災――施設全体やライフライン、重要区画に影響しないレベルの――が生じた時は、火が出た区画が封鎖されるとともに、各所に設置されたノズルから二酸化炭素が放出される。普通のスプリンクラーのように水を撒くと、”よろしくない”物が水に溶けて、それが流れたときに処理するのが手間だからだ。火元に人がいた場合は速やかに逃げないと窒息死することになるだろうが、それは大した問題とはみなされない。
別のノズルは緊急時に炎を消すのではなく、逆に炎を発生させる。爆炎と言った方が正しいだろう。
緊急と定義される事態はいくつかが想定されている。まず、政治的・軍事的な対応や自然災害によって、この施設が破壊される可能性が生じた場合。または、主・予備・補助の全電源を喪失して、施設や区画が完全停電状態に陥った場合。あるいは連絡が8時間以上途絶えた場合。
こうした事態が起きるとシステムが起動し、各所のノズルから酸化剤と金属化合物を含んだ燃料がエアロゾルとなって放出される。エアロゾルは散布開始から3分以内に施設中に充満し、これまた様々な場所に設置された装置から高密度サーモバリック爆薬が放出されて起爆する。4000度の炎と衝撃波が閉鎖された空間を隅々まで満たし、あらゆる生物を灰になるまで焼き尽くす。
その後、”焼却”された区画、あるいは施設全体が完全に閉鎖される。事後調査のために1か所だけ厳重に管理された出入口が残されるが、そこを残して全てが閉鎖される。
何かあった時には、この職場は中が焼き焦がされたコンクリート製の巨大な棺桶になる。中にいた生物は全て灰になっているので、巨大な骨壺と言ってもいいかもしれない。
そんな場所で働くことが、高い給与の代償だ。

榊は自分の姿がおかしな具合にならないように意識をしながら、カメラの下を通って目的の部屋の前に立った。頑丈なドアの横には掌紋センサーが備わった開錠装置が取り付けられている。
だが、いつもと違う部分があった。本来なら常にがっちりと閉まっているはずのドアが、中途半端に開いたままになっている。これは非常にまずい。なぜ警報が鳴らなかったのかが不思議だ。普通なら自動で閉まり、何か故障があればすぐに警報が鳴る。
何しろ、この先には榊の職場で最も危険な物が保管されているからだ。それを研究するために、この施設は作られた。〝それ〟はあまりにも危険だ。絶海の孤島の地下に作って、緊急時には中を黒焼きにする仕組みを用意する必要があると思わせるほどに。
閉め忘れ一つで、下手をしたら全員が黒焦げにされてしまう。中に誰かがいてそいつがミスったのであれば、ぶん殴って保安部に突き出してやるべきかもしれない。そう思って榊がドアを通り抜けた、何かにしたたかにつまずいて派手に転んだ。疲れているせいで手を付くのが遅れ、したたかに額を打った。
意外にも痛みはなかった。それでも、転んだみじめさは変わらなかった。ノロノロと起き上がってドアの下を見たが、つまずくようなものはなかった。疲れのあまり、老人のように何もないところで転んだというのか。見た目だけでなく、体の機能まで年老いてきているかのようだ。
不思議なことに、突如としてドアが自動で閉まった。榊が転んだことで、引っかかっていたものが取れたかのようだった。訳が分からなかったが、ひとまずは黒焦げにされる心配はなさそうだ。いずれにしても、ドアを開けたままにしていた奴にはきつく言っておく必要がある。上司にも報告するべきだろう。
困ったもんだと思いながら奥へと進む。その先にある部屋が、榊の主な仕事場の一つだった。大量のモニターとコンソールがいくつも並べられ、壁には大きなモニターが何枚も掛けられている。まるでロケットの発射管制室か、軍の作戦司令部のような見た目だった。
榊が入ってきたので灯りが自動で付いた。中には誰もいなかった。あのドアの開けっ放しは誰かが出た時に確認しなかったことが原因だろうか。とりあえず、上司が”出勤”してきたら報告しなくてはいけない。
榊は壁のモニターを見つめた。この部屋には研究室につきものの品の数々――試料を取り扱うグローブボックス、薬品類の収められた棚、顕微鏡が乗った机――などはない。そうした物があるのは、今いる部屋の隣のエリアだ。隣と言っても、戦車の装甲級の強度を持つ複合素材と、50cmの厚さに重ねられた防弾ガラスで仕切られた”隣”だが。
隣の隔離された区画こそが、世界でもわずかしかないバイオセーフティレベル”5”の研究施設だ。

バイオセーフティレベルは、細菌やウイルスといった病原体などを取り扱う実験室や施設の格付けだ。セーフティレベルが高いほど、厳格な隔離、検疫体制が敷かれている。
レベル1なら16歳以下立ち入り禁止、飲食・喫煙禁止、微生物の取り扱いは訓練を受けた人間に限定する、などの条件がある。これが2になると1の条件に加えて、バイオハザード警告標識の掲示、立ち入りの制限、実験中の施錠管理、高圧蒸気滅菌装置やクラスIIA以上の生物学用キャビネットの設置が義務付けられる。レベルが高い実験室ほど条件が厳しくなり、危険な病原体は高レベルの場所でしか扱えない決まりになっている。
最高レベルは4で、実験室に入るまでに化学シャワー室、衣服を使い捨ての物に変える更衣室、化学防護服着用室を通る必要がある。外部と直通にならないように、どの部屋もドアは1つずつしか開けられない仕掛けだ。
メインの実験室は空気も気圧を操作して中から外へ流れないようにして、排気は2重のフィルターを通した上で行われる。外に出る場合、持ち出される全ての機器は滅菌され、着ていた使い捨ての衣服は焼却され、実験動物も同じように「消毒」される。つまり化学防護服を着用した人間以外の生物は、一度入ったら生きて出られない。
このレベルの実験室が必要とされる病原体は、エボラや天然痘、クリミア・コンゴ出血熱のような、素人でも致死性と感染性が高いことを知っている代物になる。
高レベルの実験室は設置に多額の費用が掛かる上に、それほど危険な病原体を扱う機会はごく限られ、実際に使いこなせる人間も多くはない。そのため、世界にあるレベル3、レベル4の実験室はそれぞれ50に満たない。日本ではレベル3が12か所、レベル4が3か所だけだ。高レベル実験室を擁するのは、いずれも世界に名だたる研究機関として知られている。
だが、世の中にはそれを超えるレベル5の実験室が存在する。こちらはレベル4とは逆に、その存在を知られてはいない。正確に言えば知られてはいけない。普通の人々はおろか、優秀な研究機関に知られることさえ憚られる物を扱うための場所だからだ。
研究室そのものはレベル4に準じた構造だが、なるべく中に入らなくてもいいように、今までが防護服を着て手で行っていた作業の多くが、遠隔で出来るように工夫されている。
研究者は自分のアバターとでもいうべきカメラとアーム付きのロボットを操作して、中で各種の作業を行う仕組みだ。榊のいる部屋は実験室内部の様子を観察し、ロボットアームなどで遠隔で作業を行う制御室とでも言うべき場所となっている。実際に人間がレベル5に入って行う作業は、安全のために可能な限り避けられている。
基本的に実験室内に入りたいと思う者はいないので、制御室でほぼすべての作業を行えるシステムは、榊を含め全ての研究員にとってありがたい限りだ。何しろ、実験室内で事故に遭った場合、灰になるまで焼かれる方が救いだと思いたくなる未来が待っている。
これとほぼ同じ作りの研究室が、この施設には合計で3か所用意されている。榊がいるのは第1研究室で、第2、第3の研究室が、互いに対角・対辺に位置するように作られている。万が一どこかで事故があった場合は区画が2重の防爆ドアで区切られて封鎖された上で焼却処理が行われる仕掛けだ。互いに離して作ることで、1か所が壊滅しても、他の場所は生き残ってデータを保存できるようになっている。
これだけ厳重な対策を行っているレベル5だが、その真髄は別にある。徹底的な秘密主義と最強の検疫体制。無人地帯の地下に施設を作り、緊急時には中を職員ごと焼き払って危険物を処分する。レベル4の施設そのものを隔離し、いつでも焼き払える体制を保つのがレベル5だ。
ここに着任してレベル5についての説明を受けた際、同じ物が他の国にもいくつかあることも教えられた。ネバダの”ワイルドファイア”、アラスカの”ハイヴ”、シベリアの”ベクター2”、イギリス領南極地域の”ステーションN”、タクラマカン砂漠の”瘟部”。おそらくは他に何か所か。
それらが中に何を抱えているかについて、榊もオリエンテーションを担当した上司も知らなかった。国家レベルのやり取りでは基本情報は共有されているようだが、榊は知りたいとは思わなかった。恐ろしい物についての知識は、この職場で取り扱う物だけで十分だ。

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