氷川省吾
榊陽介は唐突に目を覚ました。視界がぼんやりして、体がひどく重い。何かの夢を見ていたような気がするが、それが分からない。
少し経つと、自分の状況を把握した。ここは職場の仮眠室。狭い部屋に簡易ベッドが2つ置かれている。自分はその1つに寝ていたのだ。
体が動くようになったと思ったら、無意識のうちにベッドから出て立ち上がっていた。何をしようと思って立ち上がったのかが分からない。ややあって、顔を洗いたいと思っていたのだと気が付いた。顔や手がひどくべとついている感じがする。
まだ目がしょぼつくが、開けっ放しになっていたドアから廊下によろめき出て洗面所を目指す。トイレは仮眠室のすぐ近くにあるのだが、廊下に出た時に右に行けばいいか、左に行けばいいかが分からなくなり、少しまごついてしまった。人を感知したセンサーが廊下の灯りを付ける。ひどくまぶしかったが、すぐに目が慣れた。無味乾燥な、窓のない白い廊下。
そこでようやく洗面所のある方を思い出し、やや頼りない足取りでそちらに向かった。これほど簡単なことが分からなくなるとは、それほど疲れているということだろうか。
実際、仮眠室に行く前までは何日も眠っていなかった。3日か4日か。よく覚えていない。そもそも、ここに来てどれぐらい経ったのだろうか。3カ月以上になるはずだが、それもよく覚えていない。職場に窓が無い――正しく言えば地下にあるので窓があっても意味が無い――上に、外出が出来ないので日時の感覚がめちゃくちゃになっている。
ろくに風呂にも入っていなかったように思う。シャワーを浴びたか、どうだったか分からない。どうも体から嫌な臭いが漂っている気がして仕方がない。着たきりスズメだったせいか、それとも寝汗やら不健康な生活で体臭がひどくなっているのか。それとも両方か。
頭の中がぐちゃぐちゃになったまま洗面所にたどり着き、ろくに手元を見ずに、蛇口のセンサーに手を差し出す。手に当たる水の冷たさをしばらく感じた後、手で受けた水に突っ込むようにして顔を洗った。だが、2回目で手元が狂って水が胸元にぶちまけてしまった。
うげ、と思って見てみると、カッターシャツがびっしょりと濡れていた。驚いたことに、白衣もちゃんと来ていた。普通は寝る前に脱ぐはずだが、着たまま寝てしまったらしい。
しわくちゃになったら面倒だったが、予想ほどひどくはなかった。それにここの職場では、重要な場所以外での服装はそれほどうるさく言われることが無い。
ようやく頭がある程度働いてきたところで、榊は顔を上げて鏡の中の顔を見た。やせ型のボサボサ髪の男。しばらくまともに日に当たっていなかったのと、不規則な生活によって肌が青白く、無精ひげも合わさっていかにも不健康に見える。今年で30になったばかりだが、15年分は老けて見えた。
この職場に来る前はここまでひどくはなかったはずだ。仕事そのものの負担より、この職場の特異な環境がストレスになっているのだろう。これまでの人生に比べると、ここの環境ははるかに変わっている。
榊の人生は普通だった。医大の大学院を出て、製薬・バイオ関連の企業でしばらく働いた。世間的にはエリートと言えるかもしれないが、研究者としてはことさら変わったものではなかった。それが、さる縁でこの職場にスカウトされたことで変わった。
スカウトされた時の話では、超最先端で非常に重要な研究に携わる者を探しているとのことだった。話をする場所として案内されたレストランでは給与の話も聞かされたが、目の玉が飛び出るような額だった。10年ばかり勤めるだけで、残りの人生を働かずに過ごせそうなほどだ。
だが同時に、異常に高いレベルの機密保持契約を結ぶ必要があった。万が一情報を漏らした場合、訴訟どころか刑事罰を受ける。あるいはそれ以上のペナルティが。さらに就業中は外出が制限され、外部との連絡も取れない。そして仮に重大事故があった場合には、命を失う危険もある。
もはや脅しとしか思えないような内容であっても、給与の額が見せる輝きは曇らず、榊は大いに迷った。
そしてもう1つの魅力ある話を聞かされた。仮にこの仕事で重要な成果を残した場合、それはノーベル賞級の発見になる。成果は決して外部に知らされることは無いが、相応の身分が与えられる。何かがあってその成果が活用される場合、世界の救世主にもなるだろう。
誇大妄想が極まったホラ話に思えるが、スカウトをしてきた男が提示した身分証、そして〝交通費〟と断る場合の”口止め料”として出してきた封筒の中に詰まった札束を見れば、これがまぎれもない本当の話だと理解した。さらに、話し合いの場所として案内されたレストランの中の、従業員も客も全員がスカウトしてきた相手の仲間で、そのうちの何人かは上着のボタンを外している――腋の下から銃を取り出せるようにしている――ことに気づくと、もはや疑うことも出来なかった。
しばし考えた末、榊はスカウトを受けた。結婚もしておらず、親類縁者もいない。交友関係も乏しい。研究だけが今の人生の中の大半を占めていた。自分がいなくなっても誰も気づかないし、最新の研究に携わり、最高の給与を得ることが出来るのはこの上ない好機だった。
後で聞いたところによると、この仕事へのスカウトは榊のような人間を相手にして行われているようだ。生理学、医学、生物学、防疫学などのエキスパートであり、尚且つ他者との交友関係に乏しい人間。研究職の人間で孤独な者は多そうだが、意外と適合する者は少ない。それ故に、榊をスカウトした時の様な手間と金を掛けることもできるらしい。
奇妙な転職を行ってから2か月後。身支度を終えた榊は空港からヘリコプターに乗せられ、長い時間のフライトを体験した。窓にもカーテンがかけられていたので行き先は分からなかったが、かなり長い間海上を飛んだのが分かった。
そうして辿り着いたのは、絵に描いたような無人島だった。外見は伊豆諸島の青ヶ島に似ている。島全体が火山の頂上部で、内側がカルデラになっている。外側が火口の外縁に囲まれて中が見えず、上陸が困難な地形だ。
青ヶ島は活火山で、島には少ないながらも人が住んでいるが、ここは死火山で無人だと説明された。いるのは”職員”と”警備員”だけだ。
ヘリは無人観測所の横に作られたヘリポートに着陸した。仕事どころか人間が住む場所さえなさそうに見えたが、それは当然だった。これから榊が仕事を行うことになる”職場”は、その地下に作られて隠されていたからた。
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