福原大輝
「だから、俺はカンニングなんかしてねえんだよ!」
金髪を左半分刈り上げている男が身を乗り出してそう言ってきた。両耳にあいているピアス穴とこの態度を見る限り、犯人のその態度だった。
「落ち着いて、その時の状況を聞かせてくれる?」
対して、大石和哉のこの落ち着き払った態度は、刑事か弁護人のそれだった。
高辻修介は改めてカンニング犯(疑い)の顔をよく見たが全く思い出すことができなかった。どうやら彼らの中学のときの同級生らしい。高校は違って、再びこの大学で合流し、そのつながりで今回大石は助けを求められた。
大学の講義の試験でカンニングをしてしまうと、その学期に受講した講義すべての単位を失う。実質留年を決定づけるものとなる。その疑いを晴らすために、大石は相談に乗っている。
きっと中学のときとは顔が全く違うのだろう。そもそも高辻は人の顔を覚えられる人間ではないから、中学の同級生の名前を一人も思い出せないような気がした。
大学の食堂の片隅で、大石とカンニング犯が向き合っている。二人を知っている人からしたら異様な光景かもしれない。
「物理なんたら概論の中間テストで、ケチつけられたんだよ」
「物理科学概論」
大石は静かに正した。おそらく学生便覧か何かで見たのだろう。
「そう、それ。で、なんかメモがそばにあったからって」
「何のメモ?」
「答えが書いてあるメモ、らしい。でもさ、俺がそのメモ見てわかるわけねえんだよ」
むしろ留年してしまえばいい、と高辻は思ってしまった。
なるほどね、と大石は冷静である。
「先生は平谷教授だっけ?」
「名前はそんなんだった。もごもごうるさいおっさんだ」
もごもごとうるさいって両立できるものだろうか、と高辻は思った。
「先生はずっといたの?」
「いや、最初にテスト配って帰ってって、最後に戻ってきてそのときに、そのメモについて言ってきやがった」
「そのメモは隣の人の可能性があるんじゃない?」
カンニング犯はうつむいて、うなり声をあげた。その時を思い出しているのだろう。
「……気づいたら俺の問題用紙の上にあって、なんだこれって思ったときに見つかった」
「だったら隣の人の可能性もなくはないか。メモは今どこにあるの?」
「先生が持って行った」
大石は腕を組んで考えた後、こう言った。
「先生に会ってみようと思うよ」
カンニング犯の方は「任せたぜ」とご満悦である。
そのとき彼の後ろから「カンニング森」とはやしたてる、彼と似た見た目をしている集団がいた。その集団らしく、ウェーイとあおっている。ちげえわばか、と彼も返す。
大石は聞きたいことはもうないのか、立ち上がろうとする。
「じゃあまた、思い出したこととかあったら教えてね、森くん」
「お前までやめろよ」
カンニング犯はこわもての顔でにらみつけてきたが、大石のきょとんとした顔に合点がいったようだ。
「もう名前覚えていないか。俺は吉永だぜ」
大石は人の名前を覚えているのだろう、と高辻は思っていただけに驚いた。大石も驚いている。
「でもさっき森って」
「この大学ではカンニングしたやつのことを『カンニング森』って呼んで馬鹿にするんだよ。……後で覚えてろよ、あいつらマジで」
カンニング森、という呼び方は一部の学部でよく使われているようだった。
大石と高辻の二人が所属する学部ではほとんどカンニング行為は行われないため知らなかったのだが、知り合いの筋をたどると、カンニングした人をそういじる文化があるようであった。大学らしいと言えばそうなのだが。
大石と高辻は、物理科学概論の講義を担当する平谷教授のもとを訪ねていた。
その扉をノックすると、吉永の言っていた通りもごもごとした声が聞こえた。扉を開けると、校内は禁煙なのにもかかわらず、部屋にはタバコのにおいが充満していた。壁はヤニのせいか、黄色く染められている。二人とも思わず鼻をふさいだので、平谷は換気扇を慌ててつけた。
へへへと笑いながらうちわを仰ぐこのおやじは、非常にクセがありそうで、吉永が少し不憫に思えた。
空気の入れ替えが済んだと思ったのか平谷はうちわを置き、椅子をすすめる。
「カンニングした子についてだったね」
大石は事前にメールでやり取りしていたようだ。大石たちは平谷の向いに腰かける。
「そうです。その時の状況についてお聞きしたいなと思って」
なるほど、とさきほどと打って変わって真面目腐った顔で平谷は話し始めたが、吉永の言っていることと違いなかった。そこで、大石は吉永からの話をする。
「吉永くん本人は、そのメモに見覚えがないし、正直見ても分からなかったと言っています」
「確かに、テストの内容としても理解していない回答だったな。けれども、不正行為を見逃すわけにはいかないね」
平谷は自身の不正には目をつぶり、きっぱりとそう言ったので、高辻は思わず部屋中を見渡した。大石が続ける。
「では、そのメモを見せていただくことはできますか」
「仕方ない」
と平谷は机に戻りその引き出しをあさり始めた。思ったより無造作に入れてあるようだ。
「これだ」
大石がそのメモを受け取り、高辻はそれをのぞき込んだ。
流体についての物理の方程式が書かれているようだった。その内容を高辻は勉強したことがなかったが、短い注釈はその理解を補完しているような気がした。
これほど細かいことをあの吉永が書けるだろうか、高辻は疑問に感じた。
大石が声を上げたので高辻はもう一度メモを見た。その最後に、筆記体でMORIと書かれていたのだ。
「最近身近に、森という名前に聞き覚えはありますか」
大石は訊いたが、平谷は首を振った。
「いや、知らないね」
その指は机をたたき始め、タバコを欲する合図なのかと高辻は想像した。
あくる日、吉永から大石に連絡があった。先輩から聞いた話らしいが、同じように筆記体でMORIと書かれたメモがテスト中に見つかったことがあるようだった。
「まあ、筆記体って何か知らんけど」
吉永は電話口で語った。
大石がその話をしながら、広い校内を歩いている。そして、事務に行ってみようと思う、と唐突に言った。
「なぜ? 前にも同じ事例があったか訊くのか?」
「それはよくないと思う」
「よくない?」
何もわかっていないんだけど、と大石らしくない前置きをした。
「森さんの存在をそこまで表に出さないほうがいい気がするんだよね」
「森さん?」
高辻の疑問符をそっちのけに、大石は事務室に入る。追う高辻は、学科の事務員に呼び止められてしまった。履修について事務側でミスがあったらしい。どうでもいいとは言い難かった。
その間、大石は帳簿のようなものを事務員から借り、眺めていた。その中を指さしながら、事務員に何か言って書き込む。その後大石が事務室を出ようとしたので、高辻は慌てて呼び止めた。
すると、試験監督のバイトをすることにした、と大石は短く言った。
「試験監督?」
「事務室で申し込みできるんだよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
高辻の思考をよそに、大石は表情を引き締めている。
「考えていることが合っていれば、来週中には話せると思う」
大石が去って、事務員との会話が終わり、すぐさま高辻は大石が見ていた帳簿を開いた。講義ごとに試験監督が二、三人割り当てられている表があった。その中に「森」と名乗る同一人物が数多くいることに気が付いた。
茶色の講堂の正面にある大きなエントランスから人が次々と出てきては、階段を下りてくる。
高辻は大石に呼び出されて、講義棟の前で待っていた。遅れて大石が現れて、一言だけ言った。
「そろそろ森さんが来るよ」
疑問はすぐに飲み込むしかなかった。ちょうどエントランスを出た男に大石が近づいて行ったからだ。
「森さん!」
森と呼ばれた長身の男性はけだるげにこっちを見た後、片眉を上げた。立ち止まって待っているということは、大石のことを知っているようだった。
「このメモ、森さんが書いたんですよね?」
大石は、平谷先生から預かったメモを掲げた。森はそれを静かに受け取った。
「あと五分だけ待ってくれる?」
そう言って森は階段に腰かけ、受け取ったメモを見ながらため息をついた。
五分たつと、鐘が鳴り、周囲の学生たちは吸い込まれるようにエントランスへと入って行く。中には駆け出す人もいる。そしてあたりに人はいなくなった。
森は大石を見た。続けていい、ということだろう。
「あなたは過去にカンニング扱いされたんですよね」
森は大石をじっと見つめ、黙っている。大石は意に返さず続ける。
「手口はわからないですが、周囲の人のせいでカンニング犯に仕立て上げられたのでしょう。それで『カンニング森』という言葉が生まれました。あなたが学部生の間はそれでずっと馬鹿にされてきたのではないかと思います」
森が黙って聞いているのは同意を表しているのだろうか。大石は続ける。
「大学院に入ると、馬鹿にしていた同級生たちも卒業して、人付き合いがほとんどなくなり、あなたが森という存在であることを誰も知らなくなった。でも『カンニング森』という言葉は残り続けた」
大石の言葉は考えられてきたのか、とても滑らかだ。
「そこであなたは森という名前を有効活用しようと考えて、試験監督のバイトを始めました。そこで、自分が過去にされたことの仕返しをしようと考えた」
具体的には、と大石は言葉を続ける。
「明らかにテストの出来が悪い学部生にカンニングの証拠となるようなメモを与えます。きっと、見つかってその学生が留年に追い込まれればいいと思ったんですよね。そしてその『カンニング森』という存在を印象付けることで、周囲から馬鹿にされるようにけしかけたわけです」
「仕返しのためにね」
ここでようやく森は口を開いた。フッと鼻で笑いながら、その手でメモを振った。
「この彼はどうなったの」
吉永のことを言っているのだろう、と大石も気が付いた。
「彼は留年を免れました」
「あ、そう。あんなんで留年しないんだ」
森はメモを破り捨てた。
「その話、事務の人とかにしたの?」
大石はかぶりを振ったが、森はそれを見ていなかった。
「まあ関係ない。もうこの大学から出て行くから」
森が背を向けたその瞬間、息を切らし現れたのは、あのヤニカスの平谷だ。
走る勢いそのままに地面に手をついた。
「森くん! すまなかった」
森は怪訝な顔で、平谷を見下ろし、次に大石の方を向いた。
「だれだよ、このおやじ」
「許してくれこの通り!」
平谷が足元にすがるのを、森は振り払った。
「なんだよ!」
平谷は再び土下座の恰好をした。
「君をカンニング犯に仕立てたのは、このわたしだ!」
「はあ?」
一瞬森は目を剥いたが、知らねえよこんなやつ、と正門の方へと歩き始めた。
「すまない!」
平谷は繰り返し続けたが、森は振り返らなかった。
「このヤニカスはなんなんだ」
ようやく高辻は苦笑している大石に訊いた。
「平谷先生は前にもカンニング犯を捕まえた過去があって、そのときのことを謝りたいらしい」
「え? つまり、そのときのカンニング犯が森ってことか?」
「いや、先生は全く覚えていないんだ。だから本当のことはわからない。でも先生は罪滅ぼしになればと思って名乗り出てくれたけど、思いのほか入り込んでいるね」
迷惑なことに、平谷は森の背中に対して、土下座で謝罪を繰り返している。
「いやいや、よく覚えていないやつのために、ここまでするか?」
高辻が言うと、大石は笑っている。
「タバコのことで問い詰めてみた」
それは脅しというものだ、と高辻は思った。
しかし、自分の不正を指摘されると、人はこうも態度を変えてしまうのか。情けない教授の姿に高辻はあきれ返った。
大石は携帯電話を耳に当てていた。
「もしもし、吉永くん。……うん、そっちに森さんが行った」
その後、短くうなずいて電話を切った大石に高辻は訊いた。
「吉永は今どこにいるんだ?」
「大学の正門にいる。他の『カンニング森』を連れて」
つまり、吉永たち、カンニング犯(疑い)が、森が歩いていく先で待っていることになる。
「それは……復讐なのか?」
「いや、感謝だ」
感謝、わからない高辻はただ繰り返していた。
「森さんはみんなを貶めようとしていたけど、そのみんなは、森さんを利用していたんだよ」
森さんのおかげで救われたんだよ、と大石はもう見えなくなってしまった森の姿を見ているかのようだった。
吉永も、カンニング犯に仕立てられたわけではなく、カンニング犯そのものだったわけだ。そして留年を免れた。大石への相談のとき、嘘をついていたわけだ。
正門前に並ぶ種々のカンニング犯たち。その拍手喝采の中を森が胸をそらせて歩いていく。カンニング犯たちがその恩師に感謝し、花道を作る光景は想像するだけで滑稽だった。
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