RUN RUN RUN

天野満

 らんらん、と歌いながら少年は走る。
 空には雲ひとつなく、平原はどこまでも広がっている。
 吹き抜ける風は少しも澱みを抱えておらず、少年のシャツの裾を軽快になびかせていた。
「よう、走るのは楽しいか?」
 一羽のカラスが少年に話しかけた。少年は走りながらコクリと頷く。
「それは良かった。お前さん、名前はなんていうんだい?」
 少年はポカンとした表情で、カラスを見つめる。
「なんだ名前が無いのか。じゃあ今日からお前はニコだ。額に傷が二個あるしな」
 カラスにはニコと名付けた少年の顔がパッと明るくなったように思えた。
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。で、お前、走るのは楽しいか?」
 ニコは首を傾げた。
「あれ、これはもう聞いたかな? すまんすまん。すぐに忘れちまうんだよ」
 ニコがクスッと笑ったのを見て、カラスは恥ずかしそうに続けた。
「物忘れが酷い代わりに空を飛べるんだぜ、俺」
 ニコは走りながらぴょんと跳ねて、すぐに地面に着地する。で、不思義そうにカラスを見た。
「お前は飛べないよ。だって人間だもの」
 カラスがそう言っても、ニコはぴょんぴょん跳ねるのをやめなかった。

 やがて雨が降り出した。雨粒がニコの服を濡らして、細い体に張り付かせた。
「雨宿りできる場所を探そう」
 カラスが提案すると、ニコはあたりをキョロキョロ見回した。よそ見したのがいけなかった。ニコは足をもつれさせてしまい、勢いよく転んだ。
「大丈夫か、ニコ」
 カラスは飛ぶのをやめ、ニコのもとに降り立った。
「やっちまったな、ケガしてる」
 ニコは転んだ拍子に膝を擦りむいて、真っ赤な血を流していた。自分のケガを見てもニコは泣いたりせず、ただ不思議そうに流れる血をじっと見つめていた。
「動けるか」
 ニコは立ち上がったが、足に上手く力が入らず、よろけていた。
「ここで待ってろ、助けを呼んできてやるからな」
カラスは翼を羽ばたかせて、雨のなかを弾のようにとんで行った。
 ニコは木の幹に背を預け、膝を抱える。木の枝からすり抜けてくる雨粒が、頭から足の先までニコをずぶ濡れにした。寒気に体をぶるっと震わせ、分厚い雲に覆われた空を見上げた。カラスの姿をどこにも見つけることはできなかった。
 いつまで経っても雨は止まない。ニコは地面に横たわって重い咳をした。起き上がるのも困難なほどの発熱をしていた。膝の傷が焼けるように痛んだ。いまだ、カラスは帰ってこなかった。
「これは、これは。いけない、いけない」
 混濁した意識の中でニコはしわがれた声を聞いた。黒い服をまとったひょろ長いノッポだった。ニコの何人分かというほど背が高かった。逆光で顔は見えない。
「こちらに、こちらに」
 差し出された骨と皮だけの手をニコは握った。その手は死んだように冷たかった。

「お食べ、お食べ。たくさん、たくさん」
 窓のない暗い部屋のベッドに横たわるニコの口元にノッポはスプーンを運んだ。人肌ほどに冷まされた乳粥をニコは力なく咀嚼する。
 ノッポの顔がランプの灯りに照らされる。青ざめた皺だらけの皮膚が、落ち窪んだ眼窩と鷲鼻に引っかかっていて、表情は全く読み取れなかった。
 粥をニコに食べさせ終わると、ノッポは何も言わずに部屋の外へ出ていった。
 ジメジメしたシーツに包まれながらニコはカラスのことを考えた。カラスはまだ自分を探しているのでないか。そうだとしたらあの木の下に戻らなくてはいけないような気がした。カラスがいつまでも自分を探し続ける様子を想像すると胸が締め付けられ、気がついたら枕元が濡れていた。
 膝に巻かれた包帯が解かれるころまで、ニコはその部屋から出ることなくベッドに寝て過ごした。ある日、ノッポのがニコを部屋の外に連れ出した。
 古い洋館の廊下には、赤い絨毯が敷かれ、見知らぬ肖像画が壁にかかっている。ノッポはニコと言葉を交わすこともなく、ドアを開けたり、階段を登ったり降ったりしてどこかを目指して歩き続けた。
 やがて大きな大きな鉄のドアの前につくと、ノッポは懐から鍵束を取り出して、扉を開いた。
 中は天井の高い大きな部屋で、天窓からは青白い月光が差し込んでおり、中央に石を切り出して作られた台がポツンと置かれていた。
 その光景を見たとき、ニコは急に頭痛と酷い動悸を感じ、大量の冷や汗をかいた。
 ノッポはニコを台の上に寝るように促す。しかし、ニコは首を振って、ノッポから離れる。途端、ノッポは獣じみた唸り声を上げながらニコを掴み、台に乗せて両の手足をベルトで拘束しようとした。ニコはジタバタして、ノッポを振り解こうとする。
「いけない、いけない。しずかに、しずかに」
 ノッポは谷のように深い眼窩の奥で黄色く光る眼をギョロギョロさせる。
「にえ、にえ。にんげん、にんげん。こども、こども。うまい、うまい。うまい、うまい」
 ノッポの口から垂れた生臭い涎がニコの顔に垂れる。ニコはノッポの顔面に頭突きを食らわせる。ノッポが怯んだ隙にニコは部屋の外を目指して駆け出す。ノッポがクモのごとく長い手足を使って四つん這いで追いかける。
 長い廊下を駆け抜け、ニコは通路の袋小路に行き当たってしまった。ノッポはもうすぐそこまで来ている。 ニコは窓を見る。下に広がる断崖。叫びながら迫りくるノッポ。
 ニコは覚悟を決める。あらん限りの力で助走をつけて、窓の外へ飛び出した。
 
 遠ざかっていくノッポの姿、散らばるガラス片、宙に浮いた体。
 ニコは、思い出した。
 かつて自分があの館の中に幽閉されていたことを。館の一室にずらりと並べられたヒトの骨を。 ある日、ノッポの目を盗んで逃げ出したことを。
 館の外に初めて出たとき、どこまでも行ける気がしたことを。
 気がつけば、走り出していた。
 ただ、自由に、自由になりたかった。もう、怯えなくていいように。
 すまん、遅くなった。
 声を聞いた、気がした。
 空を飛ぶ、黒い影の大群が自分にぶつかる。ニコが気を失う直前にみた最後の風景だった。

 木からたれた朝露のしずくが顔にポトリとあたって、少年は目を覚ました。深い森の中だった。頭に痛みを感じて手で擦ると、乾いた血が手についた。
 ここはどこだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。わからない。
 これからどうしようか。少年は立ち上がって大地を踏みしめる。
 足の裏から柔らかな草の感触が伝わってくる。深く息を吸い込むと、体に力がみなぎるような気がした。
 かくして、少年は走りだす。らんらんらん、と歌って。
 おや、あれは誰だろう。額に三つ傷のある少年の姿を、上空から一羽のカラスが見つけた。(了)

コメント