思い出の地図

福原大輝

思い出の場所なんだ、ってパパは言った。どうやらここは、パパがまだ小さかった時、ちょうど僕くらいの歳の時に過ごした場所らしい。パパの実家――僕のおじいちゃんとおばあちゃんの家からは車で一時間かけてやって来た。どんな場所なんだろう。胸を高鳴らせて来たけど、そんな期待はどこかへ消えて行ってしまった。
寂しそうな街だなって最初に僕は思った。僕が今住んでいるところと比べると、道が狭いし、人が歩いていない。住んでいる人がいるのかな、なんて不安に思っていたら、パパは大きめのスーパーのような場所に車を入れた。そこにはだだっぴろい駐車場があって、多くはないけど車が停まっている。僕はほっと一安心して訊いた。
「ここどこ? イオンみたいなとこ?」
「ジャスコ」
パパはそう言いながら車をバック駐車している。ジャスコ、と僕が繰り返すとパパはいたずらっぽく笑った。きっと冗談なんだろうなと僕は考えた。
「ここ行くの?」
「いや、停めただけ」
「あー、いけないんだー」
「ママみたいなこと言うね。帰りに寄って何か買うから」
いつもそんなに笑わない、なんてことはないけど、今日はパパ嬉しそうな気がする。ここってそんなに好きな場所なんだ。
パパは車にピッとリモコンを向けて鍵をかけた。振り返ると、スーパーの枠には見覚えのある赤紫色のカラーリングがあった。やっぱりイオンなんじゃないか。
パパは勝手知ったる様子で駐車場を出て、信号機のほうに向かった。赤信号で立ち止まって、ぼそりと言った。懐かしい。目の前には大きめのマンションが二つ。道路の左右に並んでいる。色は茶色でその外観はパパの実家のマンションに似ている。さっきまで実家にいたんだから、それに対する懐かしさではないはず。僕にとっては無機質なマンションが二つなんだけど、パパはずっとそれを見上げている。
懐かしい、ってどういうことなんだろう。僕も大人になったら分かるのかな。そんなにいいものなのなんだろうか。
信号が青になった。パパは考え込んでいる僕の手を引く。二つのマンションの間に続く道はかすかに下っている。目の前を橋が横切っていて、そこには線路が一本だけあった。僕たちはその下のトンネルをくぐった。振り返って見上げて、電車が来ないかなと思ったけど、来る様子はなかった。
誰ともすれ違わないでその道を進むと右側にお寿司屋さんが見えた。チェーン店じゃないお寿司屋さん。でもそこから先は畑が多かった。今歩いている道からすると左右の低い場所に畑があって、間違って落ちてしまう人もいるんじゃないかな。おじいちゃんとかだと落ちそうだ。パパはそんな畑さえもうっとりと見つめているようだった。畑の中に時折、民家やアパートが現れる。いいか悪いか見晴らしがよくて、全部の家が見渡せてしまう。その中の一つをパパは指さした。
「あそこに住んでたんだ」
畑の中にあるこじんまりとした真っ白のアパートだ。二棟仲良く並んでいる。
「どっち?」
興味もないけど僕は訊いた。
「奥の方のA棟」
やがて一つ角を折れると、そのアパートに近づいた。二階建ての真っ白のコンクリート壁、その一番上のところに黒いペンキでグリーンハイツと書かれていた。
「グリーンハイツ……」
「パパが住んでいた時は緑だったんだよ」
雨や雪に降られてペンキが剥げてしまったんだろうけど、グリーンハイツの外壁には少しもその跡を見つけることができなかった。名ばかりのグリーンハイツだった。その中央の一階の窓枠をパパは見つめていた。もしかしたらそこに暮らしていたのかもしれない。おじいちゃんやおばあちゃんも。おばさんーーパパの妹も生まれていたかもしれない。だけどそんなに見ていたら周りの人に怪しまれちゃうよ。
ふと後ろから視線を感じて振り返ると、そこにはほうきとちりとりを持っている女性がいた。顔にしわが多いからか、おばあちゃんより年上に見える。
「もしかして」
その後に女性はパパの名前を呼んだ。
アパートを見ていたパパは振り返ると、すぐに表情をやわらげた。
「ナガマツさん、お久しぶりです」
ナガマツさんという女性は慌てた様子でほうきとちりとりをその辺に置いた。
「いやあ、大きくなられて……。お母さんはお元気?」
「はい。もう今は子育ても終わって暇そうですけど」
「次は」
ナガマツさんは僕のほうを向いた。
「この子の番ね」
「そうですね……。あまり母のところには連れてこれてないんですが……」
パパとナガマツさんが話していると、グリーンハイツのもう一つの棟から物音がした。バタンと閉められた扉の音の後に階段を駆け下りる音。その後に顔を出したのは、茶髪を肩まで伸ばした男性だった。パパよりは少し若いんだろうけど、その表情は長髪に隠れて見えにくかった。でもこちらをじっと見つめていることは分かった。パパもその人を見つめていて、やがて声を出そうとしたそのときに、その人は車に飛び乗り、去って行った。
「今のって……ヒロくん?」
ナガマツさんはうなずいていた。
「ちっちゃい時に話したことあったかしら」
「少しだけ……」
パパはナガマツさんの方を向いているけれど、その意識は車の方に向かっているようだった。
ナガマツさんの後ろの方で女の子が、おばあちゃん、と呼んだ。ナガマツさんは振り返って笑顔を見せた。
「ではまた」
パパとナガマツさんは同じようにそう言った。ナガマツさんがほうきとちりとりをもって颯爽と孫のもとへと向かっていく様は、おばあちゃんというには凛としていた。
「ナガマツさんはどういう人なの」
畑道を進んでいるときに僕はパパに訊いてみた。
「近所のおばちゃんだね。たしかパパより年上と年下の子供がいたと思う……。一回おばあちゃんと行き違いになって家に入れなかった時、家に上げてもらったことがあったな」
「そうなんだ。ヒロくんは?」
うーん、とパパは苦笑いしながらうなっている。
「ペア登校っていって、一年生の子と上級生が一緒に学校に行っていたんだけど、パパが六年の時のペアの一年生がヒロくん。一緒に行こうとしているのに、離れて走り回ったり、勝手にパパのリコーダー盗って、畑の中に投げたり、いろいろされた」
ヒロくんの風貌と、その話が重なって僕は少し笑ってしまった。でも、やんちゃなヒロくんがなぜパパの担当になったのだろう。
「ヒロくん、パパのほうを見てたと思うよ」
「うん、目が合ったから分かるよ」
「話さなくてよかったの」
「うん……、忙しそうだったからいいんだよ」
畑が続いている中に、公園があった。僕の家の近くよりはずっと小さな公園だけど、子供たちがたくさんいた。この街の子供たちは外で遊ぶんだ。
「少し休憩しようか」
パパは公園に入って、すぐのベンチに座った。近くの子供たちはゴムボールを互いに投げつけ合っていた。かと思いきや、突然一斉に走り出してブランコの柵に手を当てる。そしてまた戻ってきてゴムボールを手に取る。これはどんな遊びなんだ。頭に浮かんだ疑問とは別にパパに訊く。
「ここで遊んだことあるの」
「うん、何回も」
「何して?」
「うーん。なんだろう」
パパは奥の方にあるブランコや滑り台、その奥にある記念碑のようなものを見つめていた。
「この子たちとあんまり変わらないんだろうね」
目の前の子供たちはゴムボールを投げつけ合ってどこかへタッチしに行く遊びに夢中になって続けている。これってどういうルールなの、この街の遊びなの、とパパに訊こうとした時、パパは立ち上がった。
「ちょっとパパ行ってくるから、休んでていいよ」
「どこに行くの」
「知っている人に会いに行ってくる」
パパは公園を出て左に曲がった。足取りは軽く、息が弾んでいるように見える。
僕は変な想像をし始めて、もしかしてパパが好きだった人なのかな、と思い始めた。一回そう思ってしまうと、もう変えられない。もし浮気でもしたら、と思って僕は目を光らせていた。公園から見て二、三軒となりの立派な家にパパは入って行く。出迎えたのはどんな人なんだろう。それを見ようとしたその時、
「なあ」
僕の目の前には、僕より少しだけ背たけが大きい男の子が立っていた。確かゴムボールの遊びをしていた子の一人だ。
「何?」
「もう一人いたらこの遊び楽しくなると思ってさ、一緒にやろうぜ」
男の子は気が強そうなのに、その手を伸ばした時は少し照れ臭そうにしていた。シャイなガキ大将だ。
「僕、その遊び分かんないよ」
「大丈夫だよ。すぐ分かる」
入ってみると、この遊びのわからなさ具合が面白かった。二チームにわかれてゴムボールを投げ合う。その最後にボールに触れた人がどこか場所を宣言する。それはブランコの柵だったり、滑り台の頂上だったりする。それを聞いたらすぐさまその場所を目指して走って、一番最初にタッチした人が、最初にボールを投げられる権利を持つ。そしてすぐさま広場に戻ってゴムボールを投げ合う。ゲームは無限ループする。どうやったら終わるんだ。そう気づいたときには僕はそのゲームの一員になっていた。
意味を考える前にゲームは進行し続ける。
とうとう僕が最後にゴムボールに触れてしまって、僕は滑り台、と叫んだ。叫んだ人は行く場所が分かっているから、最初にそこに到達しやすい。よくできたゲームでもある。
きっと何十回も繰り返した後、僕は横目で、ガキ大将の彼を見た。滝のような汗をかいている。彼も僕を見つめ返した。ふっと笑ったと思ったら、最後のボールに彼が触れた。彼はよく息を吸い込んでから、大声で宣言した。
「地面!」
全員が察して、その場で寝ころんだ。全員の呼気が空に舞って、漂う。僕たちは空を見上げていて、お互いを見てはいなくてもその存在を認識していた。徐々に呼気のリズムが落ち着いてきて、全員の息が整ったところで、一人が笑いだしたので、みんな声をそろえて笑った。
五時のチャイムが鳴りだした。みんな立ち上がって砂も払わずに、じゃあねと言い合って、公園を出ていく。ガキ大将の彼が僕に向かって手を差し出す。
「また遊ぼうな」
僕は少し考えたけど、その手を握ることにした。また遊びたいっていう気持ちは本当だったから。
みんなが公園を出て行った後、僕は服についた砂を払った。ふと目を上げると、僕がさっきまでいたベンチにパパが座っていた。いつもの笑顔で僕を見ている。パパは僕が砂にまみれていようと怒らない。怒るのは決まってママだ。
しかし、その笑顔が寂しそうに僕には見えた。
「会えなかった?」
パパはすごく残念そうにうなずいた。僕は遊んだ勢いよろしく、次々と訊く。
「誰に会おうとしたの」
「ひなちゃんっていう同級生」
やっぱり女の子なんだ。
「何して遊んでたの」
するとパパは周りを見渡した。
「この公園にも来てたよ。すぐそこのおうちだからね」
パパは一度息を吐きだした。
「何してたんだっけな……」
パパは珍しくなんとも言わなくて、公園の中に視線を漂わせていたけど、やがて明るさを取り戻しているように感じた。
「懐かしいんだ」
僕は一言でそう言った。本当は、パパはその子のことが好きだったんでしょ、と言いたかった。けれど、パパの気持ちを例えるのにはその一言で十分だった。その気持ちは僕には分からないものだけど、パパは今日ずっとそういう気持ちを持っているということは、見ていると分かる。
「懐かしいってどんな気持ち? そんなにいいものなの?」
パパは穏やかに笑って、僕に近づいた。いまさらのように僕の服についた砂を払い始めた。きっとママに怒られちゃうからなんだろうな。パパは答えないままに、砂を払い終えた。
「行こうか」
パパは僕の手を引く。それを見上げた僕の顔にパパは言った。
「もしかしたら、いつかここにもう一回来たいなって思うかもよ。それが……」
ええー、こんなに何もなくて畑ばっかりのところ、と僕は思ったけど、やめた。さっきまでいたガキ大将と仲間たちを思い出したら、そんな気がしてきたからだ。もうきっと彼らとは会えないんだろうけど、それでもずっと覚えていて、この日のことを思い出したり、そしてまた会いたいなってふと思ったりして。

この街は、パパにとって生きてきた証だったのだろう。
帰り道、夕方なのにいろんな場所に立ち寄っては、パパは思い出を話した。場所は暗くて見えなくなっても、そこであったことは鮮明にパパが話してくれた。帰り着いたのが夜中になってママにこっぴどく叱られた。
それはいいとして、帰りの車の中で、思い出はどんなものよりも価値があるんだってパパは言った。言った後で恥ずかしそうに笑っていたけど、僕はもうそれを笑ったりしなかった。
僕は今日あったことを地図に残しておこうと思う。パパと一緒に歩いた街の地図と、そこで出会った人たち。パパが前に住んでた家の近くに住むナガマツさん、とそのお孫さん。隣の棟に住んでたペア登校のヒロくん。そしてガキ大将と仲間たち。彼らの似顔絵と言った言葉、そしてあの面白い遊び。それを鮮明にいつでも思い出せるように、いつまでも忘れないように僕は絵を描いた。
パパが会いたかったひなちゃんのことは、ママにばれたら怒られそうだから、描かないでおいてあげるよ。そのかわり、鳥の絵を小さく描いておいた。今はどこかに飛んで行っちゃったかもしれないけど、いつか戻ってきて会えればいいね。

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