彼の思い出

 ナイスボール!

 バシっと小気味の良いキャッチング音が鳴り響いた。ふと窓から見下ろすと、校庭で少年達がキャッチボールをしている。文子はぼんやりと竜之介の姿を目で追っていた。
「なぁに、ぼんやりしてるのよ?」
「なんだ、由美か」
「なんだ、じゃないでしょ、部活行かなくていいの?」
「あっ、そっか、ヤバいっ」
 文子は急いで教室を飛び出した。後ろで由美が手を振っている。文子は小柄なわりに「走る」という能力において秀でていた。彼女が自分自身を誇れる唯一の特技と言っても良かった。実際に短距離走では市内で賞状を貰うほどの成績を残していた。
 文子はグラウンドを走る時笑みを浮かべていることがあった。誰もが文子のことを走ることが好きな少女としてしか見ていなかったし、文子自身もそう見られることに満足していた。佐久間に出会うまでは。
「葛城、お前走りながらいつも鮫島のこと見てるやろ?」
 ニタニタ笑って文子に呟いた。
 彼の名は佐久間茂。竜之介と同じ野球部だった。

 文子はその日、いつものように運動場のトラックを走っていた。すると、不意に誰かが自分に叫んだ気がした。
「危ないっ!」
 ほんの瞬きをするほどの瞬間、視界に白球が飛び込んできた。えっ?っと言う間もなく文子の頭に衝撃がはしった。
 気が付くと文子は保健室のベッドの上にいた。
「起きましたか?」
 小太りな保健の先生が事務的に問いかけた。
「あの、もう大丈夫ですから、戻ってもいいですか?」
「ダメですよ、あなた。仮にも当たり箇所が後頭部ですから、一応病院で検査することになっています。お母さんがお迎えに来ますからそれまで待っていなさい」
 そう言い放つと彼女は保健室から出て行った。しんと静まり返る。校庭を見ると他の陸上部員が無心な表情で走りこんでいる。試合を間近に控えた文子はもどかしさに苛立った。もう一度ベッドに寝転がると後頭部の打ち所が今更ながらずきずきと痛み出した。
 コンコンと扉をノックする音がした。部屋には文子の他誰も居ない。文子は寝たふりをしてそれを無視した。もう一度ノックがある。そしてガラリと戸が開けられた。
「失礼します」
 やや無愛想な男子生徒の声。文子がカーテンの隙間から覗くと、野球部の帽子とユニフォームが見えた。竜之介ではない。
「なんや、起きてるんかい」
 目が合ってしまった。同じクラスの佐久間だった。
「起きてんなら、返事してくれへんと困るわ」
 佐久間は中二の春に関西から転校してきた。彼は野球部の中では一際体が大きかった。しかし高校生の不良グループとつるんでいるとか、恐喝をしているとか悪い噂が絶えなかった。おかげで女子からはめっぽう嫌われている。野球部の仲間内でさえ、妬みも多少あれど浮いた存在の様に文子の目には映っていた。
「なんで、佐久間がここに居るのよ」
「野球部の顧問に言われたからや。一応同じクラスやしな。好きで来とるわけなかろ?」
 佐久間は椅子に腰かけると、落ち着きなく貧乏ゆすりや舌打ちを繰り返した。うつむき気味に視線を文子に向けたかと思えば、落ち着きなく視線をそらす。
 佐久間は何を苛ついているのだろうか。その様子を見ていた文子は、なんだか無性に腹が立ってきた。
「佐久間が謝りに来ても全然嬉しくないんだけど。竜之介くんは? 竜之介くんも同じクラスでしょ?」
 言ってしまってからしまった、と思った。佐久間はすかさず切り返してきた。
「せっかく来てやったのに失礼な奴やな。見舞いなんて一人で十分やろ。つぅか、なんでそこで鮫島の名前が出てくるんや?」
 文子は返答に詰まった。顔が赤面するのが分かった。早く母親が来てくれることを心から祈った。が、佐久間は続けざまに質問をぶつける。
「鮫島のこと、好きなんか?」
「なんで、佐久間にそんなこと言わないといけないの?」
「好きか、嫌いか、そんなこと何で言えんのや?」
 文子は黙った。佐久間も黙った。文子は佐久間がそのまま立ち去るのかと思ってじっと待った。しかし、佐久間は何やら考えている様子でそのまま椅子に座り込んだ。いつも見せることの無い薄ら笑いを浮かべている。なんだか手をもじもじさせて佐久間らしくもない。そしてさっきまでとは打って変わってぎこちなく話し出した。
「悪い、悪い。普通、俺なんかに言わねぇな。でも葛城、走りながらいつも鮫島のこと見てるやろ? 見え見えやで」
 文子は顔を上げて佐久間の顔を見つめてしまった。
 佐久間がこれだけ言葉を発していることが不思議だった。文子が驚いたような表情を浮かべると佐久間は満足したように鼻で笑った。
「図星か」
 佐久間がぼそりと言った。文子の中でさっきまでの苛立ちが再燃してきた。
「あんたこそ、私のこと観察してたわけ? やめてよね!」
 佐久間は薄ら笑いを続けている。
 そこに、文子の母親が迎えにやってきた。佐久間はすっと立ち上がって頭を下げた。
「野球部の代表としてお見舞いに来た佐久間と言います。この度は、文子さんにケガを負わせてしまいすみませんでした」
 別人の様に頭を下げる佐久間に文子は面食らった。無粋なくせに礼儀はわきまえているんだな、と文子は少しだけ感心した。
 佐久間が保健室を去ると文子の母親が文子に呟いた。
「佐久間君だっけ、しっかりした子ね」
「さぁ……どうだか」
 文子は病院に行き検査を受けた。異常は見あたらないと診断され、母親は胸を撫で下ろしていた。
 けれど、佐久間に見透かされていたというわだかまりは思いのほか深刻だった。
 文子は次の日仮病休みをした。しかし、仮病のつもりが本当に熱を出してしまい、三日間も休むことになってしまった。佐久間が薄ら笑いを浮かべて自分の秘密を言いふらしているような気がした。そんな被害妄想にとりつかれ悪い夢ばかりを見続けたのだった。

「文子、聞いてる?」
 文子はうわの空で窓から公園を見下ろしていた。少年達がキャッチボールをしている。小学校高学年くらいだろうか。華奢な体つきの彼らの中に、勿論佐久間の姿は見当たらなかった。
「ご、ごめん!ちょっとびっくりして……」
「まぁびっくりするよね。同級生が、なんて信じられない感じはするけど」
「死因はなんだって?」
「交通事故だって。原付で信号無視して突っ込んだらしいよ。佐久間らしいな、言っちゃ悪いけど」
 由美が「佐久間らしい」などと言うものだから彼がまるで私達のクラスに馴染んでいたかのように錯覚する。しかし、実際はそうではなかった。
「でも、何で今更になって佐久間のことなんか聞くのよ?」
「うぅん、色々あって」
「色々? 文子、実はあいつと深い関係だったりして」
「ち、違うよ! ただ、色々あって」
「気になるじゃんか。良い子だから、由美お姉さまに話してごらんなさいよ」
 由美はいつだって、人の心の壁を易々と溶かしてしまう。それを八方美人だ、と陰口を言う人も居た。しかし、文子にとってはそれが由美以外には許されない特殊な能力であるように感じられた。
 文子は受話器に向かってわざとらしく咳払いしてみせた。向こうからは何も聞こえてこない。聴く体勢を作っているのだと文子は理解した。
「しょうがないな、負けました」
「ありがと、話せるとこだけでいいからね」
「うん、実はね」

 結局、佐久間が文子のことを言い触らすことは無かった。というか、それだけの友達が彼の周りに居なかった。改めて佐久間の周囲を観察すると、思った以上に孤独であることが分かった。
 梅雨入りを迎えた五月下旬、クラスの雰囲気が固まり始めたところで修学旅行というイベントを意識し、クラス委員達がせわしく動き出した。由美はクラス委員のメンバーだった。班決めのあみだクジの時、由美は文子の耳元にそっと囁いた。
「右から二番目」
 文子は口の形だけで、やめなさいよ、と伝えたが内心は嬉しかった。多少のズルをしても由美と一緒のグループならきっと素晴らしい修学旅行になるだろうと思った。
「じゃあね、グループ発表するよん!」
 由美が悪戯心有り気な笑みを浮かべている。
「一斑、……二班、佐久間、……」
 チラっと佐久間の顔を見る。相変わらずムスっとした顔をしている。二班のメンバーになった人達はあからさまに失敗した、という表情を浮かべていた。
「三班、江藤、……四班……」
(あれっ?)
 文子が由美を見ると白々しく口笛を吹いている。竜之介はあまり関心が無いのか、問題集を片手に黒板を見つめていた。
「五班、鮫島、……葛城」

 文子は緊張していた。由美の策略によって文子は竜之介と同じ班になってしまった。班としての最初の話し合いは自由行動時間にどこに行くか、というものだった。
「俺はみんなが行きたいとこだったらどこでもいいよ」
 竜之介が笑って言う。それに甘えるように皆が予定もルールも無く勝手に意見を出し始めた。
「竜之介くんはどこか行きたい所無いの?」
 文子が恐る恐る尋ねる。
「うぅん、俺は本当にどこでもいいんだけどな、葛城はどっか行きたい所無いの?」
 逆に質問された文子は放心状態になった。
「え、えぇと私はお台場とか行ってみたいな、なんてね、アハハ」
 お台場は合同で行くから無し、というメンバーの声も文子には届いていなかった。
 佐久間に呼び出されたのは、その日の部活終了後だった。梅雨まっさかりで、じとじとと小雨の降る嫌な日だった。昼休み中、文子が一人で居るところへ突然現れ、部活終わったら話あるから体育館裏に来い、と言ってきた。有無を言わさぬもの言いに返事も出来ず、佐久間も文子の返事を聞かずに立ち去ってしまった。返事をしなかったのだから行かなくたっていいんだ、と文子は自分に言い聞かせてみる。しかし、なんだか恐ろしくなって結局来てしまった。佐久間は体育館裏の渡り廊下に寝そべって待っていた。
「遅ぇよ」
 むっつりとした表情で彼は言う。文子は意を決して叫んだ。
「ごめんなさいっ、佐久間とは付き合えません!」
 佐久間がむくっと起き上がる。
「何のことや?」
「だ、だから、付き合うのは無理って!」
「何言ってんねん、こないだの話の続きに決まっとるやろ」
「えっ!?」
「だからっ、こないだの続きやて」
 佐久間がじっと文子を見つめる。あまりに凝視するので文子は目のやり場に困った。しばし沈黙が流れた。小雨のぱらつく音と遠くで鳥達がさえずる声だけが湿っぽく響いた。
「葛城は鮫島のこと好きなのか?」
「そう、だって言ったら?」
「俺は好きか、嫌いかって聞いてんねん!」
 思わず佐久間の気迫に押され、消え入りそうな声で文子は言った。
「……好き」
「分かった、ちょっと待っとれ」
 佐久間はがさごそと形の崩れた通学カバンの中から何か取り出した。
「これ、知ってるやろ?」
 取り出したのは、最新のPSPと幾つかのソフトだった。
「そりゃ知ってるけど」
「結構、面白いんだぜ」
「だ、だから何なの?」
 佐久間は自らの説明不足に気付いたのか、その理由を語り出した。
「鮫島、ゲーマーやんか? ああ、知らんかったならそれでもいいけど、付き合いたいならお前もゲーマーになれ」
 あまりに短絡過ぎる彼の言い分に、文子は唖然とした。
「そんな単純な話ってないでしょ!」
「単純に聞こえるかもしれへんが、これが事実や」
 佐久間はまくし立てた。
「同じ野球部に居るのやから鮫島と話すこともある。大概の噂は耳に入ってきとる。あいつはな、自分のこと好きっていうだけで近寄ってくる女とは絶対付き合わへん」
「本気で言ってる?」
「ああ、本気や」
 佐久間の顔は本気だった。というか冗談を言えるタイプの人間で無いように見えた。仮に間違っていても本人は信じ込んでいるんじゃないだろうか。
「別にな、ゲームマスターになれって言うてる訳やないねん。ちょっとかじってみるだけやて。少なくとも今の葛城じゃ鮫島の気は惹けんと思うわ」
 文子は少しムッとした表情を作った。ブスだとか言った訳じゃねぇだろ、とぼそぼそ呟いて続ける。
「とりあえずこれやな」
 取り出したのは文子も聞きなれたゲームだった。
「ぷよぷよ?」
「そや、ぷよぷよや」
 力説する佐久間が次第に滑稽に思えてきた。
「自分、馬鹿にしとるって顔やな」
 文子の心中を見透かしたように佐久間が呟いた。
「えー、だってさぁ。ぷよぷよって……」
 子供っぽい。口先まで出かかった言葉を押しと止める。
 それを言ってしまったら、竜之介を否定してしまったことになる。
「最近の鮫島、馬鹿みたいにゲームやるんだぜ。学校にもこっそり持ってきてるらしい。野球終わったらゲーム、ゲーム、ゲームって感じらしいわ、いや、知らんけどな」
 文子には、そうゆう竜之介を想像することが上手く出来なかった。いつも友達に囲まれてにこにこ笑っている姿しか思い浮かべることが出来ない。
「葛城はあいつの良い面の方を見すぎや。まぁそれが好きってことなのかもしれんが。俺の知ってる鮫島は、葛城が思ってるよりドライでクールで醒めてて、そんでもって自分にしか興味の無い奴だ」
「何それ、ひどっ」
「俺がそう思うって言ってるだけや。葛城が好きって言うなら止めはせん」
「あのさ。なんで、そこまで私に構うわけ?」
 文子が気になっていたことを思い切って聞いてみた。するとからかい口調で佐久間は言った。
「俺なりの愛やねん」
「あぁ、えぇっと。ありがと」
 文子は冗談とも本気ともつかない佐久間の言葉に、思わず後ずさりしてしまった。

 修学旅行当日、文子は佐久間から無理矢理押し付けられたPSPとプヨプヨを持参してきてしまった。佐久間は言っていた。
「二人っきりになったらな、ええ雰囲気の会話しようなんて思うなよ。ゲームの話しろ、ゲーム」
 文子は楽しそうにみんなと笑い合う竜之介を見て、自分は佐久間に騙されているのだろうか、されているに違いない、だがしかし自分が竜之介くんの何を知っているのだろう、と自問自答した。
 私は佐久間のことを結局のところ何も知らない。
 あの頃の私は、自分のことで精一杯で、自分にかけられた言葉が何を意味するのか、何を思ってかけられた言葉かなんてことを考える余裕すら無かった。
「修学旅行って佐久間が疑われた時だよね」
 受話器越しに由美が確認する。
「そうだね」

 修学旅行当日、お土産売り場で文子は竜之介と二人になるタイミングがあった。文子は必死に付け焼刃のゲーム知識を駆使し、竜之介に話題を振った。驚くことに彼の反応は予想以上に良かった。むしろ専門的なことにまで突っ込まれて、文子が笑ってごまかすことの方が多かった。竜之介に関心がないであろうことを話題にすると文子がいつも知っている竜之介の表情になった。文子は少しだけ佐久間が言っていたことが腑に落ちた気がした。竜之介は笑ってごまかすのが上手いのだ。そして幸か不幸か、その笑顔は多くの人を魅了してしまう程チャーミングだった。
 そんな風に文子達が楽しんでいる最中、ちょっとした事件が起きていた。二班で財布の紛失があったのだ。誰が問い詰めるでもなく、真っ先に佐久間が疑われた。
 他の班にそれが伝わったのは修学旅行最終日のことだった。文子が知ったときには既に佐久間が犯人であるかのような扱われぶりだった。佐久間が現金で一万円札を持っていたのを見た、というたったそれだけの証言の為に。
 教師達は皆の前で佐久間を言及するようなことはしなかったが、明らかに彼を疑ってかかっている様子だった。
 文子は班員に責められている佐久間をチラッと見かけた。佐久間は薄ら笑いを浮かべ、
「盗ってねぇよ、いや、ほんまに」
 まるでジョークを言うように佐久間は薄ら笑いを浮かべていた。
 彼がそうゆう表情をするのは、心底焦っている時だ。周囲の人から見たらふざけているように見えるに違いない。
 佐久間は文子の姿を見ると、照れ隠しに笑ってみせた。
「うぃっす、鮫島とはどうなった?」
 つくづく笑顔が似合わない顔だな、と文子は思う。
 竜之介くんとは正反対だ。
「おい、どうなったかって聞いてんねん?」
 自分が追い詰められた状況の中、よく他人のことまで気にかけられるものだと文子は思った。
「わりと話せた、話せたけど、無理だよ。こうゆうのって難しいね、あはは」
 文子はごまかした。もう、竜之介に告白などできる気がしなかった。文子は、俯きながら言った。そして、出来るだけ笑顔を作って顔を上げたつもりだった。
 えっ、と声が漏れそうになる。佐久間は顔を真っ赤にし、奥歯を嚙みしめているのが分かった。今まで見たことも無いくらい彼は怒っていた。
「なぁにウダウダ悩んでんねん! もう勝手にしろっ!」
 それが文子が聞いた彼の最後の言葉だった。
 佐久間は修学旅行が終わると、一切学校に来なくなった。不登校なのか出席停止処分だったのか、文子には知る由も無い。教師は何も言わなかった。
 ただ彼の貸してくれたゲーム機だけが返す機会もなく、ポツンと文子の手元に残った。

「佐久間、本当は自分が文子とゲームしたかったんじゃないかな?」
 静かに聴いていた由美が呟く。
 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
 正直、文子には彼がどんな気持ちで自分に接していたか、いまだに良く分からない。
 荷物運びの途中だったのに部屋は散らかったままだ。
 文子は古ぼけたゲーム機を握り締めたまま、動くことが出来なかった。気付いた時には、そのスイッチを入れていた。スタート画面が映し出され、当時の色彩が鮮明に蘇る。淡く残された、彼の思い出と共に。 <おわり>

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