天野満
暮れの雑踏する駅前に、ため息が紛れて消えていくーー。
ため息をつくと幸せが逃げるよ、と言ったのは誰だったか。
家族? 友人? 先生? それともテレビかラジオで聞いたことだったか。
誰だっていい。それが明らかになったところで、このため息が止まるわけでもない。
能力が低いがために、あるいは何かしらの事情で上層部に嫌われた社員は閑職に追いやられる。いわゆる「窓際族」だ。しかし、本当の窓際族は窓際の席ではなく、追い出し部屋ーー倉庫同然の埃っぽくて薄暗いオフィスーーに叩き込まれる。
もともと高いキャリア志向も金銭欲もなかったので、自らの境遇をむしろラッキーにさえ思っていた。が、やることがないというのは思っていた以上に人の精神をすり減らす。日々、何もせずに過ごしているはずなのに、疲れがどんどん溜まっていく。それでも、とりあえずの生活のために仕事を辞めるわけにはいかない。
C’est la vie.〈仕方ない〉
転職? 独立?
そんなコネや能力があればとっくにやってる。
袋小路で頭を抱える前にね。
工場のベルトコンベアを流れる部品のように改札を通過し、ホームで列車に押し込まれる。駅員がけたたましいホイッスルを鳴らし、電車のドアが閉まる。
車窓の外に広がるオフィス街の明かりは空虚で遠く、自分には無関係に感じられた。
狭っくるしい六畳一間のアパートに帰るやいなや、床にカバンを投げ捨て、バスルームに向かう。
髭と顔の産毛をカミソリで剃ってから、洗顔フォームで顔の油脂分を洗い流す。化粧水を染み込ませたコットンで肌を保湿する。それからグリーンベースの化粧下地、白のファンデーションを順に塗る。
メイクはアイラインが命だ。だから引くときはいつも緊張する。特に利き手と逆側が難しい。震える手で、慎重に目を縁取っていく。次にアイシャドウを塗り、仕上げにリップを口紅に塗る。
カバーネットを被るのを忘れていたのに気がついた。メイクを崩さないように気をつけながら髪の毛をネットに収納し、その上からウィッグを頭に被り、さらに黒のキャスケット帽子を被る。
やあ、セラヴィ、やった会えたね。
ーー君に俺の人生を君に捧げよう。
ーーだから、俺に生きる喜びを教えてくれ。
彼女は笑った。鏡の中で笑った
闇に溶け込むような黒の衣を纏い、金色の髪を夜風になびかせば、世界はなんと美しい。
鼻歌を歌いながら、足を一歩踏み出すたび、心は天へと舞い上がる。退屈な公園の遊歩道が、無機質な自販機の明かりが、生命を宿して鼓動する。
ーー夜中に女装して、近所の公園を徘徊するなんて、正気じゃないのかもしれない。
ーー会社の人間にバレたら人生が終わるかもしれない。
でもやる価値はあった。
初めて世界を美しいと感じることができたのだから。
チリンチリン。
背後から鈴の音がした。振り返ると、遠くに誰か人がいるようだった。街灯の明かりが、その姿を照らした瞬間、足元から凍りつくような気分になった。
一輪車に乗った、全身黒タイツの狐面がこちらにやってくる。
気がつけば狐面と逆方向に走り出していた。
逃げなければ、殺られる。呪い?的なやつで、殺られる。多分あれは科学で説明できない何かだ。もし、人間だったとしてもまともなやつじゃない。嫌だ嫌だ嫌だ。翌日の朝刊に載るなんてゴメンだ。
〈公園で女装した男性の遺体が発見!〉
ーーハシモトさんですか? あの窓際族の?
ーーまことに遺憾です。あんな人と一緒に働いていたなんてねえ……。
ーーご冥福をお祈りいたします。知らんけど。
すみませんすみませんすみません!
もう女装して深夜徘徊なんて辞めます。勇気なんてクソ喰らえ。空虚さを抱えて、冴えないオッサンとして過ごすの最高。一生、窓際族でいいから女装姿で死にたくはない。
狐面との距離はどんどん狭まってくる。追いつかれるのは時間だった。
イチかバチかだ。
藁にもすがるような思いだった。公衆トイレの個室に入ってカギを閉め、口元を手で押さえて息を殺した。
見つかりませんように。
ドアの向こう側で、ジャリジャリと音が聞こえる。タイヤが砂道の上を転がるときの音だった。
狐面は俺を探している。
一体、なんのために?
ドアを開けるか否かーー。
どれだけの時間が経っただろうか。外からもう音はしなくなった。
警察に連絡するべきだろうか。ダメだ。そんなことをしたら俺が女装して深夜徘徊しているのが世間にバレてしまう。両親に、知人に、会社の人間にどんな風に思われるかーー。
ゆっくりドアを開けて外を見る。
狐面の姿はない。音を立てないように、危険が来てもすぐに反応できるように身構えながら、公衆トイレを出た。一体、ヤツはなんだったのか。わからないが、すっかり気分が乱れてしまった。もう散歩どころではない。俺が何をしたっていうんだ!
C’est la vie.〈人生って、こんなものさ〉
家に帰ろうと、公園内を歩いていると、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。
狐面か! と思って、耳を済ませて警戒していると、その音の異様さに気がついた。
まるで、口を塞がれた人が出す呻き声ーー。
まさか、さっきの狐面か!
声のする方へ駆け寄ってみれば、怪しい大柄な男が女の人を羽交い締めにしているではないか。
「なななななななな、何っ、を」
何してんだ! とか、バシッと言ってやるはずだった、が、狐面と遭遇したときの恐怖が残っていたのか、うまく声が出てこなかった。
助けて!
と、女性が叫ぶと、男は女性を手放し、弾かれたように逃げ出した。
慌てて男のあとを追う。女装の服はヒラヒラして走りにくく、どんどん距離を空けられてしまう。
段差を飛び越え、木立を抜けて、男を追い続けた。正義感だけで追っているわけじゃない。この公園で未解決事件なんて起こされては、女装して歩き回れる場所が少なくなってしまう。そんなことは許していいはずがない。息が上がりきったころ、ようやく男の姿を捉えた。
「ま、待って」
と、呼びかけると、振り向いた男が叫んだ。
「誤解だよ!」
「はあ?」
「引ったくりなんだよ、あの女!」
「なんだと!」
「アンタが来なけりゃ! 誤解されると思ってとっさに逃げたんだよ! つーか、あんた……なんだその格好」
「俺の勝手だ!」
ややこしいことしやがって。思わず踵を返して、先ほどの女ーーとんだタヌキーーのもとに駆け出した。
戻ったときには、もう女の姿は無かった。そもそも男の言っていたことは正しかったのか。いや、男が言ったことが嘘という証拠はーー。もう何が何やら、どうしていいかわからなくなった。
「なんて人生だ!」頭を抱えて叫んだ。
ごめんよ、セラヴィ。俺が不甲斐ないばっかりに! どうすりゃよかったのかわからなかったんだよ!
答えはすぐに見つかった。女の叫び声とともに。
叫び声のした方に駆けつけると、先ほどの女が、尻もちをつき、口をパクパクさせて震えていた。
女が指差す先には、さっきの狐面が両手を広げて一輪車に乗ったまま立ちふさがっていた。
夜の公園にいきなり、あんな奴が現れたら、誰だって腰を抜かす。
ウー、とパトカーのサイレンが聞こえたとき、俺は自分が女装していることを思い出し、その場を逃げだした。警察の事情聴取を受ければややこしいことになるのは間違いなかった。
パトカーからだいぶ離れたところまで逃げ続け、さすがに走り疲れてしまい、立ち止まって息を整えていた。
すると、聞き覚えのある鈴の音とともに、狐面が一輪車に乗ってこちらにやってきた。
勘弁してくれ!
逃げようとした、が、足がもつれて転んでしまった。
ううう、と涙が出てきた。こんなことなら、パトカーのほうに行けばよかった。
とうとう、狐面がすぐ近くにやってきた。一輪車から降りて、こちらに手を伸ばす。
許して、と後ずさりながら懇願した。
見覚えのある財布が狐面の手に握られていた。
「それって」
受け取って、中身を確認してみた。自分の財布だった。
「届けてくれたのか」
狐面は黙ったまま、腕を組んでモジモジしていた。
夜の公園のベンチに女装男と狐面の怪人が並んで腰掛けている。
そんな前衛芸術よろしくの光景を我々は繰り広げていた。
「さあ、遠慮せずに飲んでね」
狐面に自販機で買った缶コーヒーを渡した。財布を拾ってもらったのお礼のつもりだった。しかし、狐面は缶コーヒーを手にしたまま、微動だにしない。
「もしかして、缶コーヒー嫌い?」
首を横に振って否定している。もしかすると。
「お面してるから、飲めないとか……」
狐面が顔を近づけて、圧をかけてきた。何かが癪に触ったらしい。
「すみませんすみませんすみません」
圧を解いた狐面はこちらに一瞬そっぽを向けた。向き直ったとき、缶コーヒーのタブが開いていた。
面ずらして飲みやがったな、コイツ。ホッとしたような息をついた狐面を見て苦い笑いが湧いてくる。
「セラヴィっていうの。よろしくね」
狐面もセラヴィと同じような存在なのかもしれないと思うと、奇妙なことになんだか親近感が湧いてきていたのである。だから、セラヴィとして名乗ってみた。仮面について指摘したことを侘びたかった。自分だって、ウィッグじゃねえか、とか、メイクじゃねえか、とか言われたら嫌な気分になるだろうから。
狐面はおもむろにベンチから立ち上がると、腰のあたりから、巻物を取り出した。
〈玉藻〉
勝訴、と書かれた紙を掲げるように巻物を広げた狐面。
「ーーギョクモ?」
狐面は、体を震わせながら先程より強烈に圧をかけてきた。
「すみません、たまも、で読み方あってるんですね」
謝ると、狐面はどことなく満足げな様子になって、無言で会釈をしたのち、一輪車にまたがりどこかに消えていった。鈴の音が遠ざかっていく。
一体、なんだったんだ。
狐に化かされる、とは今日のために生まれた言葉だ、と思った。
溜まった疲れが急に襲ってきて、地面に大の字になって寝転がった。
あたりはシンと静まり返っていて、夜空には星が綺麗だった。
全く、なんて夜だ。
一人で大笑いした。生まれて初めて腹の底から笑ったような気がした。
Oui c’est la vie! 〈そうとも、これが人生さ!〉 (了)
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