福原大輝
――世界が生まれた日の話を、お前さん、知りたいか?
……。
老人は返事も待たずに話し始める。
――あの日、マントの少年がここに舞い降りてのう……。
――青いマント……。そう、まるで空のような青い青いマントじゃった。
老人が見上げる夜空には、暗い中に薄く星が光っていた。その光景はとても青には見えなかったが、老人にはそう見えているかのように、夜空をじっと見つめている。
荒野は見渡す限り続いていて、夜空を遮るものは何もない。
——彼と見た夕日が今でも鮮明に思い出せるわい。
老人は記憶をたどり、その一つ一つを懐かしみながら話しているようだった。
そこは無だった。何の音もないし光もない。だが暗いということも、そのときの私は認識していなかった。私はただ、ぼうっとそこにいた。
そのとき、青い光がこちらに向かってくるのを見た。その光の進む方向を見て私は天を理解した。
私の目の前で光は減速を始めて、その光の中に人の顔が見え、さらにその周りをはためく布のようなものが見えた。
天から舞い降りたのは幼い少年だった。
彼は着地するやいなや、その体にまとう光の一部を地に向かって放り投げた。
その瞬間、私を包むこの空間は光で満ち溢れた。それは、少年が身にまとっていた青い光だった。
私は何かに起こされ、目を覚ました。地面は暖かくこれまでに感じたことのない感触がした。天は真っ青に染まっており、暖かい光が私を照らしていた。
体を起こすと、目の前にはマントの少年がいた。その肩から垂れ下がっているマントの色は、まさに天と同じ青だった。あの光の色はマントの色だったのだろうか。
「はじめまして」
少年は手を差し出す。その手につかまって立ち上がると、私は自分自身も少年とそれほど歳の違わない、幼い子どもだと気づいた。
周囲は草原に満ち、木々の生えわたる森の中に私と少年はいた。鳥の鳴き声が遠くで聞こえた。動物の鳴き声がそこかしこの茂みの中から聞こえ、生命の香りがした。
私が経験した「無」は何だったのだろうか。今の状況が信じられなくて、私は少年にこう訊いた。
「この森は君が作ったのかい?」
私は彼の傷一つない端正な顔を見ていたが、彼はやがてその首を横に振った。
「僕にそんなことできないよ」
彼は子どもらしくはにかみ、恥ずかしそうに体を揺すった。マントもそれに合わせて揺れた。
「僕はずっとここで暮らしてて、それは動物も木も花もみんな一緒だよ。だからここは、みんなで作った森なんだよ」
彼の答えに私は、頭の中に引っ掛かるものを感じた。私がこうして目覚める前のことは夢だったのだろうか。私が記憶の隅を探っていると、彼が私の手を引いた。
「さあ、遊ぼうよ」
私は彼に手を引かれるままに森の中を歩いた。森を抜けると川が見えた。そこでは、動物たちが水浴びをしていた。サイ、カモシカ、キリンにゾウ……。他にも様々な動物たちが一緒になってのんびりしていた。
彼がその集まりにおもむろに近づいていくと、動物たちは彼を迎え入れるように顔を摺り寄せてくる。
しかし、やがて私の存在に気づくと、動物たちはじっとこちらをにらみつけ、警戒の色を示した。
「大丈夫、僕の友達だから」
彼がそう言ったとたん、動物たちは私に近づいてきて、私の体のにおいをかいだ。
彼はその中のサイの鼻を撫で、その場にしゃがみこんだ。
「お願い。森の中を案内して」
サイはうなずくように短く鳴き声を発し、私をじっと見つめて、その後背中をこちらに向けた。少年が目で促すので、私は注意深くサイの背中にまたがった。少年も別のサイにまたがった。すると、サイはその巨体にもかかわらず、とてつもないスピードで森の中を走り始めた。
二頭のサイは風を切り、森の木々の隙間を旋回しながら走り抜けた。周りにいた動物たちもその後から、私と少年を取り囲むようについてきていた。私たちは木になっている果実を食べ、途中で見つけた湖で水遊びをした。そうして森を一周し終わったあと、山を登った。
山頂にたどり着いたときには、もう日が暮れかけていた。
動物たちは遊び疲れたのか、そばで眠り始めている。夕日が私たちを照らして、その顔や体を橙に染める。
マントの彼の澄んだ瞳には夕焼けがくっきりと映っている。その瞳に見とれていると、彼は私に言った。
「この夕焼けを表現できるのなら、僕はもう何もいらない」
「表現?」
その言い方に私は疑問を抱く。
「君と一緒にこの景色を見れたのなら、もう充分、これ以上のことはないということだよ」
再び彼ははにかんだ。
「この日の君とのことを記憶に残しておけば、僕たちはどこででも生きていけるよ」
「どこででも?」
私は彼の言っていることが分からずにいたが、彼はそれ以上夕焼けについて何も言わなかった。サイの鼻を撫でてやると、疲れ果てたのかおとなしくそれに任せている。
「約束をしよう」
彼は唐突に言った。
「僕たちは神さまになろう」
「神さまって?」
私は夢かと思っていた「無」の光景を再び思い出そうとした。だがその思考を遮るように彼は口を開いた。
「神さまになって、みんなと仲良く過ごすんだ」
そういいながら、彼はまだ元気に飛び回っていた鳥や、山に住んでいるサルたちとそこら中を走り回った。その姿に私は思わず笑った。
わざわざ神さまにならなくても、彼は動物たちをひきつけ、また動物たちも彼を頼りにしていた。
息を切らしながら、彼は私のそばに戻ってきた。
「約束だよ」
「うん」
私たちは堅い握手をした。
私たちはいつまでもここで暮らすんだ。それが当然のことのように思った。
また明日もその次の日も、森を駆け動物や植物と戯れ、私たちはこの森の生き物たちとともに仲良く過ごしていくはずだった。
しかし、終わりは突然に訪れた。
夜、森で眠っていると私は体がゆすられるのを感じた。目を覚ますその前に体が持ちあげられ、その後風と振動を感じた。
ようやく起き上がると、私はサイの背中に乗せられて、森の中を駆け巡っていることに気づいた。
「どうしたんだ?」
周囲に目を向けると、森の木々が赤い光で包まれているのを見た。
これは火だ。森が燃えているのだ。サイの背中の上で呆然としながら、私は山の上まで連れていかれた。
そこには、同じようにサイの背中に乗せられている彼がいた。
私と彼といくつかの動物たちは、山のてっぺんで火の手から逃れていた。
目下には見渡す限りの炎が森を包み込み、すべての木々が悲鳴を上げているように見えた。そして、まだまだたくさんの動物たちが森の中に住んでいるはずだった。
私は涙がこぼれるまま、マントの少年を見た。
彼はいつもと変わらない、子どもらしいあどけない表情で森を見下ろしていた。だが、私のほうをちらりと見た後、唐突に駆け出し、山頂の崖から飛び出した。私は呼吸も忘れるほどの衝撃の間に、彼は炎の森の中へと飛び込んでいった。はためかせた青いマントは炎の中でその青さをなくしている。私は恐怖を覚えた。
私が手を伸ばしたときには、とっくに彼の姿は点になっていた。
しかし、彼が森に飛び込み、その中に溶け込んだその直後であった。青い光が辺りを埋め尽くし、そのまぶしさに私は目を伏せた。
次の瞬間、私が目を凝らした時には、その青は森中を広がっていった。その後から、燃えてなくなってしまったはずの木々がよみがえり始めた。
静謐な森は恐ろしいほどにそのままの変わらない姿に戻って、私は再び夢かと思った。
だが、今度は夢で納得できない。私は彼の姿を探して動物たちと森を駆け回った。どこに行ってもあのマント姿は見つけられなかった。
彼を探しながら、私は息を切らして立ち止まり、あたりを見渡した。
そのとき突然に、私は自分の体が一気に浮かび上がり、上昇するのを感じた。
サイや動物たちは私の体をつかまえて引っ張るがその甲斐なく、私の体は動物たちからどんどん離れていく。
私が手足を動かしてもがいても、そのスピードが緩まることなく、私は天を越え暗闇の世界に入った。森全体そしてその天さえも見下ろす位置まで急速に浮かんでいき、私は上下の感覚をなくした。その後くぼみだらけの白い星に吸い込まれ、私は気を失った。
目を覚ますと、私は白くて広い部屋にいた。大きな窓ガラスからは暗闇とその中に青い星を見下ろせた。
——―何が起きているんだ?
部屋の中を走り回って探しても、何も見つからない。彼も動物たちも。そして当然森の木々も。
私一人だけがこの広い空間にいた。
——―一人にしないで。
森の叢とは対照的なこの無機質な床に突っ伏して、私は一人泣いた。
涙も枯れてしまった後、一人で過ごしていると、私のこれまでの記憶が芯のあるものになっていくのを感じた。
やっぱりマントの彼は、あの森を作ったのだと思う。
彼自身の光を削って森に命を与えたのだ。
そして、その森の危機が訪れて、彼は彼自身のすべての光を使い切って森を守ったのだ。
こうして彼が創造し守り抜いた森が目下にある、あの青い星だ。きっとそうなんだと思うようになった。
やがて私は、彼がもういないことを心の底から受け止める決意をした。私は青く光る星を見下ろしながら、彼は森を守るために犠牲になったということを誇りに思った。
——―僕たちは神さまになろう。
彼の言葉と夕焼けが頭の中で繰り返される。
——―本当は君こそが神さまになるべきだったのに。
私がこれからできることは、君が守ったあの青い星をこうして見守ることだけだった。
――こうしてこの世界は始まったんじゃ。
老人は長い話を終えるとこう訊いた。
――どうじゃ、信じたか?
—――わしのいうことを信じたかと、言っておるのだ。
……。
――お前さん、何も話さんな。
そう言った後、老人はいたずらっぽく笑った。
――嘘じゃよ。作り話じゃ。
――世界の始まりなんてそんなもんじゃ。誰にもわからん。
そう言って、夜空を見上げた老人は少しだけさびしそうな顔をした。だがそれも束の間、老人は瞬時に消えていき、星々の一つとなった。
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