アントニオ・コンテ
これは私の父と叔父が体験したことです。父と叔父はローマに近いところの出身で、独り立ちするまではずっとその地で暮らしていました。
知っての通りローマにはいろいろな遺跡や名所があって、ちょっと気味悪い物にカタコンベ――地下納骨堂ですね――があります。ローマのカタコンベではサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会地下の物が非常に有名ですが、実はローマだけでも40以上あって、最近になって新しく見つかったものもたくさんあります。
父と叔父の出身の町でも、彼らが小学生ぐらいの時にそれが見つかったらしいです。それほど大きなものじゃなかったようですが、やはり文化遺産としては貴重ですし、観光名所にもできそうなので、すぐに封鎖して調査が来るまで立ち入り禁止の状態にされたそうです。
まあ、そういう物が見つかったらいたずら好きの子供が入ってみようとするのは常なので、そういうのを防ぐ意味もあったでしょうね。壊されると困るというのもあるし、危険ですから。
とはいっても、危ないからって遠ざけられると入りたくなるのが人心――特に子供の心ですね。カリギュラ効果っていうんでしょうか。父と叔父も、どうにかしてこっそり入ってやろうとたくらんでいました。
それである晩、うまい具合にスキをついてカタコンベに入りこんだそうです。
カタコンベは通路と奥の納骨室で成り立っていて、通路の左右の壁にも棚があってたくさんの遺骨が置かれていたとのことでした。古くてバラバラになってしまった物もあれば、まだ修道士の服を着たままの物もあったそうです。
入ったのが夜で、手には懐中電灯一つ。父と叔父は、もう泣きだしそうだったと言っていました。それはそうでしょう。大人の私でも、骸骨だらけの真っ暗な通路にいたら、それだけで心臓マヒを起こしそうです。
父と叔父も入ったことは後悔し続けていたのですが、意地なのか好奇心が勝ったのか、漏らしそうになりながら奥に行きました。通路自体は20m前後で、奥には少し広くなった部屋があったそうです。おそらく、一般の人や位の低い修道士の骨は通路の方に置かれて、もっと身分の高い聖職者が奥の部屋に収められたのでしょう。
父と叔父はそこまでたどり着いたのですが、考えていたのとはちょっと違っていたと言っています。通路では遺骨はすべて棚に作られた棚に置かれていたのですが、ここでは床にも骸骨が置かれていたと。壁にはちゃんとくぼみがあって骨が置かれているし、スペースには余裕があったのに、床にも骨がいい加減に放り出されていたそうです。しかも、服を着たままの物ばかり。
最初はちゃんと骨を納めていたけれど、後で何か余裕がなくなって遺体を適当に放り込んだのでしょうかね。無鉄砲な子供でも、それ以上は先に進めず、部屋の様子を見るだけ見たら引き返すことにしました。その場ですぐに引き返さなかった辺り、祖父母に聞いた通り、無鉄砲さと好奇心だけは人一倍の子供だったみたいです。
そうやって懐中電灯で見ていくと、床に転がっている骸骨の服がカトリックの物らしくない事に気が付きました。
もっと現代的な、長いズボンと色のついたシャツを着ていた骸骨が多かったと。そのころの父も叔父も、中世で現代のような染色された色鮮やかな服がほとんどないことなど知るわけもなかったのですが、神父様や修道士がそんな恰好をしていないことぐらいは知っていますからね。司祭様や司教様はもう少しきれいな格好をしてはいますが、そういう方の遺体が床に放り出されているわけもありませんからね。何よりそういう人たちの格好も、基本はローブですし、
さすがにちょっと気になって見ていると、骸骨が着ているその服に見覚えがあることに気づきました。父と叔父が小学生だったころ、あの肺炎のウイルスが世界的に流行していていまして、カタコンベが見つかったのはそれが何とか収束したころでした。父と叔父の町でも何人か亡くなった人がいて、骸骨の服が亡くなった人たちが良く来ていた物に似ている気がしたそうです。
壁にもたれている骸骨のシャツが仕立屋のじいさんのお気に入りに似ているとか、うつぶせに転がっている骸骨はシャツじゃなくて革ジャンを着ているようだけれど、トラックの運転手のおじさんが自慢していた良い革ジャンっぽいとか。そういう風に考え出すと、転がっている骸骨がみんな自分の知っている人の物じゃないかという風に思えてきて、一気に怖くなって逃げだしたとのことです。
その後は、まあ祖父母にばれてがっつり怒られて、役場の偉い人からもお説教を食らったそうです。
それから調査が入って、いつぐらいの年代の物だとか、誰が埋葬されているかとかのことが分かって、今では観光もできるようになっています。父と叔父はカタコンベが入れるようになってからも近づかず、そのまま独り立ちして違う町に引っ越してしまいました。
ただ、大人になって里帰りした際、カタコンベについて書かれた案内看板を見たそうです。そこには発見当時の写真が載せられていたのですが、床には骸骨は一つもなかったのです。壁のくぼみや棚に収められていた遺体は、すべて中世の聖職者の物ばかりだったと書かれていました。私自身も、その看板を見たことがあります。
父と叔父が見た床の骸骨は、何だったのでしょうかね。
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