福原大輝
ユビキタス先生は子どもたちに向かって言った。
「空を見てみなさい。あれが戦いの色だよ」
ミトは子どもたちと一緒に空を見上げた。いつもの、曇天のような鉛色の空だった。灰色の砂埃が舞っていて晴天であってもそう見えてしまうのだ。がれきの山の中で暮らしている子どもたちには慣れ親しんだ空だった。
「わからないよ」
「先生、どの色のこと?」
口々に子どもたちが言うのを聞き、先生は仕方ないというように笑った。
「いつか分かりますよ。先生にははっきりと見えています」
子どもたちは驚いた様子で再び空を見上げて言い合った。
子どもたちが集まっている部屋は部屋と呼ぶには頼りない。
ひび割れた天井は今にも壊れそうで、もしも今ここで戦いが起きているのだとしたら、一撃で破壊されてしまうだろう。先生は窓枠だったであろう壁の穴から空をのぞいていた。
「では先生に見えているのは何色だと思いますか……。では、パヤオ」
一人の子どもが元気よく立ち上がった。頬は灰色に汚れている。
「黒色ですか?」
「そうでしたら、夜にはずっと戦いの色なんでしょうか?」
先生が笑うとパヤオは首をかしげながら座った。先生は子どもたちを見回してから続ける。
「みなさん分からないですかね……。先生には赤い色に見えているんですよ」
子どもたちは驚きながらも興奮して空を見ていた。ミトは離れたところで鼻を鳴らした。先生から何度も聞いた話が、今再び繰り返されようとしている。
「赤は血の色です。血がにじんでいるような空の色が見えたら、それは戦いが始まる合図なのです」
子どもたちが目を輝かせてうなずくのを見る度に、ミトの心には暗いものが漂っていくのを感じた。
「では平和って何だと思いますか」
先生が訊くと、一人の子どもがまた立ち上がった。
「お母さんやお父さんがいることです」
「お母さんやお父さんがいたとしても戦いは起きるでしょうね」
ミトは驚いて顔を上げたが、先生は何事もないような様子で子どもたちを見つめている。別の子どもが立ち上がった。
「おいしいごはんがあることです」
「そうですね、それも平和なことです。ですが、それらの平和なことは戦いによって簡単に壊されてしまいます」
子どもたちは悲痛な顔を浮かべた。ミトもつられて顔をゆがめる。
子どもたちが言ったことは今も実現していない平和であり、それゆえの願いだった。その平和を願ったとしても戦いが起きるのなら、その願いさえも失われてしまう。既に不幸なはずの子どもたちに、もう一度不幸が訪れるかもしれない。それが切なくて、ミトは顔を上げることができない。
「本当に大切なことは……」
先生は子どもたちの顔を見回した。一人一人と目を合わせた後、口を開いた。
「空を見ることです。そして戦いが起きることをいち早く知って、安全なところへ逃げなさい。そこにきっと平和があるから」
ミトにとって、また子どもたちにとっても何度も聞かされた話だった。だが、子どもたちはうなずき、空を見上げて、自分も先生みたいに空の色を見たいと、口々に言った。その姿が自分自身が子どもだったときと重なって、ミトは口をつぐんだ。
先生は手を叩いた。
「先生が言いたいことはわかりましたか。では今日はここまで」
子どもたちは皆お礼を言い、四方のがれきの道へと駆け出していく。
一人の子どもが先生の前に立ち止まった。
「……先生って神さまみたい」
「さあ、どうかな……。気を付けて帰るんだよ」
うなずいて駆け出す子どもの姿ががれきの山へ消えていく。栄えている街から離れて、子どもたちは汚れきったぼろきれを身にまとい、ここで暮らしている。
先生は子どもたちを見送った後、がれきの道を歩き始めた。足元にはガラス片が積もっていて、ミトは子どもたちが心配になった。
子どもたちが住む区域を出て、街の方へと歩く。街の通りを抜けて、その外れに丘がある。その頂上にある家でミトは先生と暮らしていた。草原の中にポツンと立つこの家からは、空が一面に見渡せる。青かった空が翳って、今は西日が空を赤く染めていた。
「先生、赤はこの色ですか?」
訊いてみたが、先生は黙って見向きもせずに家の中に入っていった。
ミトはしばらく空を見つめた。赤色は紙に塗りたくった絵の具のように、薄く広がっていた。どうしても血の色には見えなかった。その後はやがて夜になっていくのだろう。向こうから藍色が押し寄せてきて赤は消えてなくなっていく。
肌寒くなってきてミトは家の中に入った。机にはいくつもの酒瓶が倒され、中身が飛び散っていた。部屋の左側にあるソファベッドには、大きないびきをかく先生がいた。ミトは溜息をついたが、やがて机上の酒瓶を片付け始めた。
その昔、ミトもあのがれきの山の中で生活していた。物心がつくころには親がいなくて、気が付いたらそこにいた。周りには似たような子どもたちがいて、そのすべてがみなしごだった。
先生と子どもたちを訪問するたびに、そのときのことを思い出して、子どもたちの姿が昔の自分自身と重なった。
がれきの山で暮らしていたある日、人狩りが街から来た。何が目的かはわからなかった。だが、逃げなければということだけを本能的に察知して、皆逃げた。子どもたちは迷路のように入り組んだ道を駆けていったが、次々と人狩りにつかまってしまった。ミトも人狩りから逃げているうちに、袋小路に追い込まれていた。だがそのとき、建物の影から誰かに手を引かれた。それがユビキタス先生だった。先生は白いマントの内に彼を隠して、人狩りから見えないように、丘の上の家まで連れて帰った。
人狩りの襲撃からミトだけが救われて、他の子どもたちは人買いにつかまった。そう先生は言った。自分が生きる事で必死だったから、他の子どもたちに直接手を貸して助けることはなかったが、必死に生きている子どもが他にいるという仲間意識がどこかにあったのかもしれない。だから、生まれて初めてミトは大切なものを失った感覚を味わった。
先生はその当時も子どもたちに対する授業を行っていた。泥だらけの子どもたちに向けて、平和の尊さや、それを脅かす戦いの不条理さ、それでもやがては子どもたちにも平和が訪れる、と言った。そのことを子どもたちは信じて疑わなかった。ミトも例外ではなかった。
しかし、ミトは先生と生活を共にすることで、その本性に気が付いていった。
丘の上に立つ家は薄茶色の整ったその外観に対して、部屋の中は乱れていた。掃除はされておらず、腐臭がした。酒の匂いが立ち込めていて、しばしば夜中には知らない女が出入りした。
ミトは先生から部屋の整理整頓や食事の準備など、身の回りの世話を任された。毎日大量の酒瓶を片付け、部屋の掃除をした。
先生は日中に外へ働きに出ることもなく、夜中は見知らぬ女たちと酒を飲み騒ぎ続けて、吐き散らかしそして眠った。次の朝には強盗が現れたのかというほど、部屋はひどい有様だった。実際に女たちは物を盗んでいったのではなかろうか。
最初の頃ミトは酒を片付けろとか、女を呼ぶなとか注意をしていた。だが、先生は親戚の集まりだとか大切な仕事だとか、正当そうな理由をつけてははぐらかし、嘘をつき、部屋に漂う酒の匂いは消えなかった。
その姿に、子どもたちに向かって平和を説いていた先生の面影はなかった。ミトや他の子どもたちが思い描いていた平和は、先生のあの面影とともに消えていった。ミトは先生の言うことを信じず、われ関せずに日々を過ごしていた。
ごくたまに先生は教会に行った。補助をするように命令され、ミトも連れられて行った。
その教会はすたれ切っていて、ボロボロの椅子と教壇があった。その教壇の前で先生は祈祷らしきことを始めた。正面の神棚へ向かって祈るようにしたかと思いきや、腕を振り上げて野太い声を上げた。普段から酒を飲んでいる人間とは思えなかった。そして振り向くと決まりきった話を始めた。空の色の話だ。赤い色が見えたらわき目もふらずに逃げなさい、と静かな声で話した。
教会に集まった僧侶や、神父、また、近くの村の人々は感謝の弁を述べ、先生に金を献上した。一度は遠慮するものの、結局先生はそれを恭しく受け取った。皆が明らかに先生を信じ、神として崇め奉った。
また、人狩りが過ぎ去った後に、がれきの山の中に住み着いた子どもたちにも同じことをした。いろんな村の貧しい人たちにも。全く同じ話が延々と繰り返された。
どの場所でも、ミトにとっては信じられない光景ばかりが繰り広げられた。いったい先生が何をしたというのだ。
こんな小手先のまじないのようなことをして、皆から巻き上げたその金で酒を買い、女を呼び、情けなくだらしない生活をして、そして、皆の未来は変わったのか。先生のあのよくわからない話を聞いて、皆は何を知ったのか。
なぜ彼等は疑うことを知らないのだろうか。
先生は皆を騙して金を稼いだ。その金で普通の食事を得られているミトは、先生の悪事に加担している一人だということを自覚した。その罪の心はミトを暗くした。
なぜ先生は自分を救ったのだろうか。自分はあのがれきの山の中にいた子どもたちと一緒に、人狩りに連れていかれた方がよかった、と思い始めていた。
それでも、先生は皆の聖人君子であり続け、正しくもないことを説いて、無意味な幸運を人々に与えた。そしてミトはそれを手伝い、その金で生活し続けた。
あるとき、ミトは先生に訊いた。
「人を騙してばかりで、先生に罪の心はないんですか?」
騙してなどいない、と先生は酒瓶を傾けていた。
「今は未来を見通そうとしているんだ」
「はい? 人からお金を巻き上げているだけでしょう」
いや、と首を振った後、先生は小さくつぶやいた。
「神はきっといるはずだ」
ミトは、先生が突然に訳のわからないことを言うのに慣れてしまった。
「あなたが神なんじゃないんですか?」
彼はからかったが、先生はふんと笑うだけで質問には答えない。
「私は確信しているんだよ」
「何のことですか」
「見えるんだよ。神がいるってことと……」
額に手を置いて眉間にしわをよせ、先生は目を閉じた。
「それと、プロペラをつけた車がここに来るのが見える。きっと彼等がこの世界を変えてくれる」
先生の話を聞き慣れたミトでさえ、何を言っているんだと思った。
「そんなのどうでもいいです。平和な世界が来ることを願っています」
ミトの言葉に反応して、先生は正気を取り戻したように、すぐにミトをにらみつけた。
「いや来ないね」
「なぜわかるんですか」
「空が赤いからだ。赤は戦いの色なんだよ」
「またそれですか! 何も見えやしませんよ」
溜息をついた後、じゃあきこうか、と先生は酔って焦点が乱れた目をミトに向けた。
「平和とは何か?」
「誰も不幸ではないことです」
ミトは即答したが、先生の答えも早かった。
「それは不可能だ。幸せは不幸せの上に成り立っている」
「そんな! あんた、教会の人とか子どもたちに平和はあると言っているじゃないか」
「だから平和なんてない」
「はあ?」
先生は一瞬、遠くを見るような目付きをしたが、やがて向き直った。
「だからこそ、未来の声に耳を傾けるしかないんだよ」
最後の言葉だけは、子どもたちに話すときの、『先生』の口調でそう言った。
ミトは溜息をついて、先生から背を向けた。
「政治は何も作らない。私みたいな人間が未来を導くよ……」
その後も先生は妄言を繰り返し続けて、満足したら眠った。ミトは毎晩こういうことに付き合わされている。先生に見えていることなんか心の底からどうでもよかった。
けたたましい轟音で目覚めた。子どもたちが殺されていく。そういう夢と区別がつかない感覚がミトの中にあった。
ユビキタス先生はめずらしくすでに身支度を整えて、白いマントを羽織っている。
なぜなのだろう。どこへいくわけでもないのに。
目を逸らさずに窓の外を見つめている先生のの姿を見て、いやな予感が胸をよぎった。ミトも窓から丘の下を見渡すと、子どもたちの住む区域に火が上がっているのが見えた。
彼は思わず家の外へと飛び出した。区域にはまんべんなく火が広がって、その周りさえも飲み込み始めていた。
なぜ平和な世の中は来ないんだろう。
戦いを起こしているのは誰なのだろうか。ミトには世の中の事情がわからない。だけど、人狩りだとか盗賊だとか、悪い人達はきっとたくさんいる。
彼等はなぜ戦いを引き起こすのか。そして関係のない子どもたちを巻き込むのか。
平和なんかない。先生が言ったことは確かなことなのかもしれない。
背後に先生が来て、同じように火が上がっているのを見つめていた。先生はもしかしたら火の原因を知っているのだろうか。
「なぜ?」とだけミトは訊いた。
「仕方のない犠牲だ」
そう先生は冷たく言い放った。
ミトが言い返そうとしたその途端、視界の端に色が映った。すぐさま空を見上げると、赤く染まっていくのが見えた。昨日見た夕焼けとは全く違う、赤色だ。
血の色だ、と咄嗟にわかった。
もしかすると今朝目覚めた瞬間からかもしれない。空が赤色に染まるのをはっきりと感じとっていた。そのことに違和感はなく、彼の心は疑うことを知らなかった。
戦いの色だ、と彼は悟って、横に立つ先生を見つめた。先生は一度頷いて、薄く、そして寂しそうに微笑んだ。
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