代償

ほろほろほろろ

 夢を見た。車に撥ねられる夢だ。
 気付けば俺は通い慣れた通学路の一角を歩いていた。高い塀で縁取られた静かな住宅街。だが、周りの景色はすりガラス越しのようにあやふやで、遠のくほど白くぼやけていく。俺が前へ足を踏み出すと、前方のもやが晴れ、背後の景色は薄れていく。踏んだ地面に波が立ち、波紋が緩く広がっていく。そんな不思議な世界に何の疑問も持たないまま、俺は学校の方へ歩いていた。
 スマホで時間を確認するとまだ始業には余裕がある。たまにはのんびり行こうと、足の運びを遅らせる。
 その時、ふと視界の先に人影が見えた。同じ高校の制服を着た女子だった。背丈的に、俺より一つか二つ下だろうか。その子は俺に背を向けたまま動かない。見慣れない奴だと胸の内で呟きながら、その背後を通り過ぎる。
 その時だ。背後から猛々しいエンジン音が聞こえたのは。
 反射的に振り返ると、黒塗りの車が猛スピードで突っ込んで来ていた。進行方向の先には例の女子。しかしその子は、車の存在に気付かないのか動くことなく突っ立ったままだ。
 俺は心の中で何かを叫び、無意識に走り出した。女子を突き飛ばし、迫り来る車の前に躍り出た。全てが一瞬のことで、息する間もない。
 激しい衝撃と共に体の自由を奪われ、視界が一瞬黒く塗り潰された。
 撥ねられた瞬間のことは覚えていない。曖昧にぼやけた世界の中で、気付けば俺はバンパーのひしゃげた車と崩れた塀の間に挟まれ横たわっていた。
 目に見える景色とは裏腹に、両足に走る感覚だけは鮮明だった。じくじくとした痛み、どくどくと流れ出る血液の熱、晒された肉を撫でる風の冷たさ。
 声を上げたくて、助けてほしくて必死にもがく。だが、俺の声は誰にも届くことはなく、代わりに曖昧な世界は次第に縮小していく。痛みは少しずつ引いてゆき、俺の意識も薄れていく。最後、遠のく視界を巡らしてみるが、助けた女子の姿はどこにも居なかった。
 こうして夢は終わる。だが、一度では終わらない。何度も何度も同じ夢を繰り返し見た。同じ景色、同じ結末、同じ苦しみ。それを幾度となく経験し、俺は。
「先生! 貴博が! 息子が目を覚ましました!」
 母親の声を聞いて、俺は病院のベッドで寝かされているのだと悟った。

 ***

 意識を取り戻した俺は診察を受け、医者と話し、再び個室に戻された。どうやら俺は丸二日ほど目を覚まさなかったらしい。こうして意識は取り戻したが、怪我のこともあり、相当長い期間入院することとなった。母親は家まで必要なものを取りに帰る言い、部屋を出て行った。俺はまた、一人になった。
 静かな病室。ふと目を閉じると、すぐに夢の内容が思い出される。ぼやけた曖昧な景色、感じた痛みと苦しみ。その全てが幻だとしたらどれだけ良かっただろう。
 だが、全ては現実だ。
 通学途中、俺は車に撥ねられた。轢かれそうになった女子を突き飛ばして、俺が代わりになったのだ。思い出しただけでも、当時の痛みがぶり返すようだった。
 半ば無意識に足をさする。あの時感じた痛みを取り払うように。だが今は、その痛みすら感じることができない。俺の両足は、膝から下を失っていた。
 あるはずのものが無い。本来なら脛や足首のあった場所はすっかり空っぽだ。その事実を実感し、胃酸が込み上げるのを感じた。水を飲み下して何とか落ち着きを取り戻す。そして、長い溜息とともにベッドに背中を預けた。
「お前は立派な事をした」と、母親は何度も俺を励ました。身を挺して人の命を救った。それは人間として素晴らしいことだ、誇れることだと。
 果たしてそうだろうか。
 両足を失った俺は、もう二度と他人と同じようには振る舞えない。日常生活でも、社会生活でも苦労することが多くなる。
 これからの生活の苦労なんて想像に難くない。一生車椅子生活。これまで一度も自分がその立場になるなんて想像したことはなかった。これから俺は両親に沢山面倒を掛けるし、気も使わせるだろう。学校生活でも、友達や先生に気まずい思いをさせるだろう。そして何より、俺は二度と自由に駆け回ることができない。スポーツはおろか、気軽に町へ出ることすらままならない生活。これまで何気なくこなせていたことの多くが不可能になったのだ。
 そんな絶望に満ちた未来を前にして、俺は何を誇れるのだろう。俺は両足と自由を引き換えに、何を得たというのか。
「し、失礼します」
 その時、静かにドアが開かれた。医者でもなく、看護師でもない。か細い声の持ち主は、俺より年下の女子だった。
 その子は同じ高校の制服に身を包んでいた。少しおどおどした佇まいで、その顔に見覚えは無かった。
 見知らぬ女子が見舞いに来るはずもない。だから、彼女が何者か訊くまでも無かった。俺が助けたあの子だ。
 彼女は果物の入った小さなバスケットを胸の前で抱きながら、入り口の前で立ち尽くす。視線を向けると、少し怯えたように肩をすくませた。
「わ、わたし、岡田梨恵っていいます。あの、岩瀬さん、ですよね」
「……そうだけど」
「あの、えっと、先日は助けていただいて、ありがとうございました」
 岡田と名乗る女子は深く頭を垂れ、そのままじっと動かない。数秒の沈黙を経て、こいつは俺の言葉を待ってるのだと気付いた。
 だがこういう時、何と返したらいいのだろう。
「いいよ」なんて軽く返せるはずがない。軽い物の貸し借りをした訳ではないのだから。俺は両足を失った。一生物のハンデをお前の代わりに背負ったんだ。俺は決してそれを望んでたわけじゃない。俺はただ無意識に走り出しただけだ。もしこうなることが分かっていたら、俺はお前を助けなかったよ。
 なぁ、お前は俺に何て言ってほしい? 赦しがほしいのか? 怒鳴ってほしいのか?
 こいつのことを考えれば考えるほど、無性に怒りが喉奥からせり上がってくるようだ。
「……それで?」
 岡田は顔を上げると、きょとんとした表情で俺の顔を見た。
「え、えっと……」
「ここに何しに来たのかって訊いてんの」
「それは! あの、助けていただいたお礼をと思って」
 お礼、かぁ。その足しに果物盛り合わせを抱えてるわけか。そっか。
「それで? お礼を言われると俺の足は元に戻るわけ? それとも、それ食えば足が生えてくるってか?」
「い、いえ、そうではないですけど……」
「じゃあお前は何がしたいの?」
「わたしはただ、命を救っていただいたお礼がしたくて――」
「てめぇの自己満足に付き合わせんじゃねえよ!」
 テーブルに拳を振り下ろす。岡田は肩を跳ねさせ、バスケットから果物がこぼれ落ちた。
 若干後ずさる岡田に迫るように身を乗り出し、俺は両足に掛かった布団を勢いよく剥がした。包帯巻きにされた両膝が露わになる。
「本当ならお前がこうなるはずだったんだ! それを俺が肩代わりしたんだぞ! 見ず知らずの他人の代わりにな! それなのに何だ! 俺は両足の代わりにお礼と果物が貰えるってか!? ふざけんじゃねえ!」
「ご、ごめんなさい……」
 込み上げる苛立ちを躊躇うことなくぶちまける。そうする権利が俺にはあるはずだ。何せ俺は、こいつのために両足を犠牲にしたんだから。失った足は決して元に戻らない。こんな俺を何人たりとも非難できやしないだろう。
「礼とやらをしたら、お前は俺のことなんか忘れてのうのうと生きるだろうさ。事故のことなんざ綺麗に忘れて、俺への恩も無かったことになる! けどな、俺はこれから毎日毎日、足の不自由を自覚する度にお前を思い出す。あいつなんか助けなきゃ良かった、あいつのせいで俺の人生が壊れたと、これから何度も思うだろう。そんときに感じるやりきれなさがお前に分かるかよ!」
「い、いえ……」
「だったら独り善がりなことすんじゃねぇ! 迷惑なんだよ! 俺を! お前の自己満足の道具にすんじゃねえ!」
 机の上のペットボトルを掴み、岡田に投げつける。岡田は怯えた声を漏らしながら、バスケットを落として自分を庇った。それが俺をより苛立たせる。
「消えろ! 二度と来るんじゃねえ!」
「え、でも――」
「聞こえなかったのか!? 消えろっつったんだよ!」
「ひっ、ご、ごめんなさい!」
 岡田は背を向けると、ドアを開けたまま走り去っていった。
 ドアはゆっくり閉じてゆき、岡田の足音も遠のいていく。それにつられるように、俺は虚脱感に包まれていく。
 ベッドに倒れ込み、白い天井を見上げる。
 俺はこれからどうしたらいいだろう。
 家、学校、就職。これから起こる全てに、想像できないほどの苦労が満ちているのだろう。だがそれらに対して、この足を言い訳にすることはできない。人の命を救ったとしても、それだけで学校を卒業することはできないし、仕事が免除されるわけでもないし、一生分の生活費を貰えるわけでもない。人命を救ったという名誉は薄っぺらく無味乾燥で、他人にとって無価値でしかないのだと、今ならわかる。それに対し、俺が失ったものは大きすぎた。。
 ……俺は、これからどうしたら。
 いっそのこと死んだ方がまだ幸せだったのかもしれない。人の為に命を投げうって、そして死ぬ。そうしたら俺は今のように惨めな感情を一切抱くことはなく、世間では英雄譚の一つとして語られるだろう。あぁ、そのほうが絶対に良かった。
 どうして俺は死ねなかったのかな。
 ふとした考えを咀嚼しながら、俺を目を閉じた。

コメント