ほろほろほろろ
自宅のある古いアパートに虫が住み着くようになったのは、つい一週間前のことだったと思う。
初春の穏やかさも忘れるような仕事からの帰り道は、手を伸ばした先すら危ういほど深い闇に包まれていた。ぽつり、ぽつりと立つ街灯の頼りない灯が無ければ、自分がどこにいるかとっくに見失っていただろう。淡く照らされた夜道を足早に歩けば、自宅のアパートがやがて見えてくる。木製の三階建て。自宅は二階にあるので、外階段を上がらなければいけない。
ちかちかと点滅する灯に照らされ、狭く急な階段を上っていたときに、その存在に気が付いた。黒く斑に濁った壁に溶け込むようにして、一匹の虫が張り付いていたのだ。名前は知らないが大きな蚊のような虫で、ピクリともせず、ただじっと動かない。どこか不気味に思えたが、とはいえ所詮は虫であり、明日になればどこかへ飛んで消えるだろう。その時の私は特段気にすることもなく虫から人一人分離れて階段を上がっていった。
明滅する光の下、何気なく階段を振り返る。虫は相変わらず動かない。早く消えてと心の中で呟いて、私はその場を後にした。
「さっさと終わらせろよ。お前の仕事が遅いせいで皆迷惑してるんだぞ」
「全然だめだ。やり直せ。こんなのが通ると本気で思ってるのか」
「ほんとにお前は何もできないな。何のためにウチに入社したんだよ。さっさと辞めろ。邪魔だ」
この一月で、私はそれまでの人生分以上の非難を受けたと思う。
私は新卒でとあるIT企業に入社した。と言っても、その会社は心から願ったものではない。有り体に言えば、私は就職活動に失敗したのだ。
希望の度合いに差はあれど、周りの学友たちはおよそ自分の希望通りの会社に採用された。そんな中、私だけがこの有様だ。希望した会社からは全て落とされ、行く宛てのない私に手を差し伸べてくれたのは就活支援団体だった。しかし、時期的にもそこから紹介された企業は”あまり物”であり、募集要項は充実して書かれてはいるが、実態は簡単に想像がついた。だが、当時の私に選択肢は残されていなかった。知識もスキルも無い身でありながら紹介された企業全てにエントリーシートを送り、内定を貰ったこの会社に入社を決めた。
内定を貰った時は嬉しかった。自分に行き先ができたことを素直に喜んだ。だが今は、当時の感情の一片すらまともに思い出せない。
「おい! また同じミスしてるぞ。一体何度言ったら分かるんだ」
「はい、申し訳ありません」
「謝れば済む問題じゃないんだぞ。やり直せ、今すぐ」
「畏まりました」
入社してから一週間で私は実務を任された。研修など碌に受けていない。この会社は人員が全く足りておらず、従業員全員が眉間に皺を寄せてせわしなく作業している。文字通り右も左も分からぬ私でさえ駆り出される始末なのだ。そんな状態でまともに仕事などこなせるはずもない。私はミスを繰り返し、その度に上司から怒号を頂いた。降り注ぐ叱責は私の糧になることもなく、ひたすら体を強張らせるばかりで、思考の柔軟性を奪っていった。私はただ縮こまったまま頭を下げ、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
業務が始まり日が経つほど、上司の怒鳴り声の頻度は増した。初めは私の仕事のミスに対して。その次は私の態度について。最後には私がそこにいるだけで鬱陶しそうに扱った。上司の怒りのスイッチが一体どこにあるか検討が付かない。まるで地雷原を歩むように日々の業務に当たっていた。
「もういい。お前にやらせると永遠に終わらん。後は俺がやる、お前はもう何もするな」
「はい、申し訳ありません」
自身の精神が擦り切れる音が聞こえてくるようだ。ギリギリ、ギリギリと。やすりを掛けられるように胸が痛む。この状態が延々と続くことを思うと、痛みが更に増した。。
「はい、申し訳、ありません。申し訳……」
闇に満たされた帰り道で、無意識に上司の言葉を脳内で繰り返している。意図したことではなかったが、しかしそれを自覚しても尚止めようとしないのは、そうすることが愚かな自分への罰のように思えたから。私は罰せられなければいけない。誰かがそう言って私を責め立てているような、そんな気がする。
「申し訳ありません。申し、訳、ありませ――」
しかし、その思考はあるところでぴしゃりと断たれる。それは自宅のアパートに差し掛かかり、狭い外階段を見上げた時だ。
虫が留まっている。
壁一面を覆い尽くすように。
おびただしい虫の群れは気色の悪い長い足を壁に這わせ、細い羽をピクリともさせずにじっとしている。まるで何かを待つように、全体が同じ意思を持っているかのように、ただそこに居るだけだ。
虫は嫌い。大嫌い。何も考えていないように見えて、確実に私のことを監視している。奴らの行動の引き金が何なのかまるで見当つかない。足音か、そよ風か。息遣い一つでも間違えば一瞬にして襲い掛かってくるのではないか。そんな得体の知れないじっとりとした恐怖が背中を撫で上げる。
全身の毛が逆立つのを感じながら、私は鞄を持つ手に力を入れる。
初めは一匹だけだった。一晩経てばすぐに消えると思っていた。だが、私の願望とは裏腹に虫の数は日を追うごとに増えていった。今では階段の壁だけでは場所が足らず、玄関前の通路にまで虫の群れが押し寄せている。
私は鞄の中に手を差し込みつつ、息を止めて階段を上がる。虫たちと向かい合い、手すりに背中を擦らせながら一歩ずつ上っていく。そして玄関前に辿り着き、自宅に入った瞬間に鍵を全て閉めた。
扉を背にしながら、大きく息を吐くと共に力無く崩れ落ちる。この部屋の中なら安全だ。もう気を張る必要はない。
鞄から手を引き抜くと、殺虫スプレーを握っていた。あの虫たちがいつ襲ってきても対処できるように、常に一本は持ち歩くようにしている。家の靴箱の上にも、大量の予備が準備してある。
大丈夫、大丈夫。
まだ鼓動が落ち着かない自分を宥めつつ、よろめきながら立ち上がる。明日も早い。今日はもう、寝よう。
細く短い廊下を歩く。ふと何気なく背後の扉へ振り返る。
虫の声は聞こえない。
毎朝、玄関の扉を開ける手がずしりと重い。出社して上司と顔を合わせることが辛いというだけが理由ではない。重みを感じる要因の半分は例の虫だ。奴らは恐らくこれからも数を増やしていく。理屈は知らないが、昼夜を問わずこのアパートに住み着き、私の心を不安定にさせる。この状況はどう考えても異常だった。
ただそこに張り付いているだけならまだ良い。この扉を開いたとき、万が一にも虫がこの部屋に入ってきたらと思うと、ドアノブを握る手が強張る。そんな時には鞄の中に手を入れる。硬く冷たい確かな感触がある。ただの市販の殺虫スプレーだが、今の私には銃にも勝る安心感を与えてくれる。
そうして私は一呼吸置き、意を決してドアノブを回すのだ。
そこからの展開はあっという間の出来事だ。動かない虫の傍を通り抜け、出社した後は普段通り怒鳴られる。その繰り返しが私の日常。ただ、今日だけはほんの少しだけ違った。
私は初めて社内のいじめに遭ったと思う。女性の先輩社員グループの仕業だった。内容は単純で、私がお手洗いに席を立った隙を突いて荷物を漁られたのだ。
鞄の中身を見られた程度なら、普通の人にとっては大して問題ではないかもしれない。しかし私の鞄には普通とは言い難い物が入っていた。当然彼女らがそれを見逃すはずもない。
「うわ、あいつ殺虫スプレー持ち歩いてる」
「訳わからん。何で会社に持って来てんの」
「げぇ~、気持ち悪ぅ~」
彼女らは好き勝手言った挙句私からスプレーを取り上げた。幾ら返してとせがんでも聞き入れられることは無かった。そうする内に普段から私を怒鳴る上司が現れ、会社にこんな物を持ち込むとは何を考えて居るのかと、険しい顔で私を黙らせた。そのままスプレーは上司によって持ち出され、私の手元に戻ってくることは無かった。
その日の帰り道、私は肩を震わせながら歩道を歩いていた。怖い、怖くて堪らない。暗闇や不審者ではなく、あの虫共が何よりも恐ろしいのだ。今の私は丸腰で、もしも一斉に襲われたなら成す術もない。
もしやあの虫共は、このタイミングを狙っていたのではないだろうか。じっと動かず敵意のないように見せかけておき、私が無抵抗となる日を今か今かと待ち望んでいたのではないだろうか。であれば今日、私はどうすればいい? どうすればあの道を通り抜けられる?
やがて自宅のアパートが見えてくる。外階段の壁は黒く濁った木製のはずなのに、今や無数の羽に覆われている。そこに手を触れる想像をして、背筋がぐにゃりと曲がる思いだった。
鼓動が早い。呼吸も浅い。視界が歪む。足が重い。手先が痺れる。口が乾く。
奴らの傍を通り抜けなければ、決して部屋に辿り着くことはできない。
鈍い足を前へ押し出す。踏み出す度に途方の無い時間を掛け、一歩ずつ、体中の関節を軋ませながら前へ進む。
眼前に虫の群れが迫る。私の存在に気付かないでと切に祈る。吐き気を催しながらも手を口に当てることはできず、必死に唾を飲み込んだ。
気付かないでください。どうかお願いします。見逃してください。
頼りない呪文を唱えながら階段を上る。一段ずつ、ゆっくり、ゆっくり。
中盤まで上りきる。前方も後方も、虫が全てを覆い尽くしている。最早後戻りはできない。静謐な闇夜の中、自分の心臓の音だけが激しく響いている。その音があまりにもうるさく、聞こえないでと必死に祈りながら階段の終盤に差し掛かる。そして。
私のつま先が、何かを蹴飛ばした。
カラン、コロンと音を立て、それは階段の隙間から落ちていく。瞬間、それを合図と言わんばかりに、虫たちが一斉に私を凝視した。
心臓がぎゅっと握り締められる。
「ご、ごめんなさいッ!」
私は両腕で頭を庇いながら勢いよく階段を駆け上がった。それと同時に虫たちは一斉に羽ばたき始める。一心不乱に足を動かすが、背後から聞こえる無数の羽音が次第に距離を詰めてくる。まるでそれは大きな腕のようで、私の体に掴みかかろうと大きく手を開いた。
「ごめんなさい! 許してください! 申し訳ありません!」
私の叫びに一切反応することなく虫は襲い掛かる。その指先がいよいよ私の首筋に触れようかというとき、私は自室の扉を開いた。
「あ、あぁ……あ」
全ての鍵を閉めた私は、糸が切れたように座り込む。今でも扉の外ではやかましい羽音が鳴り響いていた。
「逃げた。逃げ切った。もう大丈夫、だいじょうぶ」
自分に何度も言い聞かせ、やがて呼吸が落ち着いてくる。所詮あいつらは虫の体。鉄の扉を隔てた今、あいつらの脅威に怯える必要はない。安心して、大丈夫、もう怖いことは起きないから。
次第次第に羽音が弱くなっていく。虫共は諦め、散り始めたのだろう。良かった。これで本当に脅威は去った。もう、本当に大丈夫。
息をつき、胸を撫で下ろした私はよろよろと立ち上がり、震えの落ち着いた腕を持ち上げて電気のスイッチを入れた。
白いはずの部屋の壁一面が、黒い何かで覆われている。
もぞもぞと蠢くそれは、大きな羽虫の群れ。
「――あ」
うるさく羽音を立て、一匹、また一匹と壁から飛び立つ。
「あぁぁ、あ、あああ」
やがてそれらは一つの生命体のように唸り、私の視界を埋め尽くした。
「ああああッ! ああああぁああぁあ!!」
自分が何者かすら忘れるほど叫び、狂い、暴れている。必死にもがいて、何かを振り回して、それを繰り返す度に意識が手元から離れていく。体の感覚は無くなり、考えることが出来なくなり。やがて視界はテレビの電源を切ったようにプツンと暗転した。
目を覚ますと、私は自宅ではない部屋のベッドに寝かされていた。ぼやけた視界の中で見渡すと、白い床、白い壁、白い天井に囲われている。ここが病院だと気付くまでそう長い時間はかからなかった。
「気付きましたか?」
声を掛けてきたのは、私と年の近そうな女性の看護師だった。彼女は柔和な笑顔を作り、落ち着いた声色で宥めるように言う。
「大丈夫ですよ。安心してください。ここは安全ですから。あなたを怖い目に遭わせる人なんていません」
怖いもの。……そうだ、あの日の夜、私は自宅で無数の虫に襲われて。
もう、虫はいない。まるで全てが幻だったかのように目の前から全て消え失せた。本当にそうなのかと、胸の中で誰かが問う。
「アパートの外で、大量の、数えきれないほどの虫に襲われたんです。逃げ切ったと思ったら家の中にも山ほどいて、そいつらに襲われたんです。あ、あの虫たちは本当にいなくなったんですか?」
「えぇ、本当です。この病院の設備は最新ですから、どんな小さい虫でも入らせません。安心してください」
「ほんとうに、もう襲われない。ここなら大丈夫なんですね」
「そうです。大丈夫です。うん、大分落ち着いてきましたね」
看護師さんは立ち上がり、先生を呼びに行くと言い残して部屋を後にした。
安心したせいか、焦りで火照った体が熱い。病衣の袖を捲ってみれば、じっとりした汗が痣だらけの肌の上に浮いていた。
痣。傷はそれしか残っていない。虫に刺されたり、咬まれたような傷は見当たらない。きっとここで気を失っている間に治ったのだろう。ほっと息をつき、静かな病室を見渡してみる。
独りぼっちになった個室に、微かな風が吹いている。空調からの風だろう。ほんのり汗ばんだ頬が熱を奪われて心地良い。ふと横を見ると水の入ったコップが机の上に置かれていた。わざわざ用意してくれたのか。心の中で感謝の言葉を述べるとともに手を伸ばす。そしてコップを手の平で握ったとき、ふと気が付いた。
私の手の甲に、それを覆うように大きな羽虫が留まっている。
(了)
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