抜け猫たちの世界へ

天野満

 快活な人生を送りたいと思って生きてきたのに、いつの間にやらカツカツな人生を送っていた。
 学校では成績が良くなくカツカツ、仕事でミスしてカツカツ、意中の人に振り向いてもらえなくてカツカツ、と硬質な音が生活の中に溢れかえっていたのである。
 今もキッチンの戸棚からカツカツ音が聞こえるので、中を確認してみたら、空っぽになった米びつがカツカツ、と鳴っていた。
 米を入れてあげれば、米びつが重くなって静かになるのでないか。
 俺は米を十キログラムも買ってきて、米びつを満たしてやった。すると、米びつの音は収まった。
 しかし、今度は財布がカツカツ鳴りだした。米を買って金が無くなってしまったからだ。
 来月の給金が入るまでの辛抱と、質素倹約に努めていたら、また米びつがカツカツ鳴り始めた。おかしい、まだ米は残っているはずなのに、と中身を見てみたら、わけのわからぬ虫が大量にわいて、カツカツ、と音を立てて米を食っていた。
 人生はカツカツ鳴ってるのに、好物はトンカツなのに、俺は負けている。米を食われて負けている。

 これまでの人生、俺は可能な限り勝負事を避けて生きてきた。
 例えば、学生時代。部活なら体育会系の部活は避けて、コンテストとは縁の遠い部活を選んできた。社会人になってからも、仕事なら、同僚と営業成績を競うあうような雰囲気の職場は避けて、仕事を探した。
 勝負事を避けてきたのは、体育会系の部活や仕事など、大がかりで勝敗が重要な要素になってくるものに限らない。
 レクリエーションや友人との遊びにおいても、優劣のつくような行為は可能な限り避けてきた。
 なぜなら、本当に勝負事が苦手だからだ。

 なんで、勝負事が苦手かといえば、勝っても負けても苦々しい思いが残るばかりであるからだ。
 勝者の影にはいつも敗者がいる。自分が勝てば、相手に悔しい思いをさせてしまうし「相手は悔しくて悲しい思いをしてるんだろうな」と思ってしまい気持ちがモヤモヤしてしまう。かといって、自分が負ければ、それはそれで悔しい気持ちになる。
 それが勝負の世界で、その中でしかわからないこともある、とはわかってはいるし、一つの美のあり方だ、とは思う。だがそれでも、俺は勝負事をできるだけ避けていたい。
 そんな思いを抱えて生きているのだから、競争する必要性のない分野に興味を持つことになる。俺が音楽や文芸の世界に足を踏み入れることになったのは自然な流れであったのかもしない。

 ところが俺の思いをあざ笑うがごとく、世間は何かにつけて「勝ち組」だの「負け組」を決めたがる。俺はこの「勝ち組・負け組」という指標が大嫌いである。
 収入、社会的地位、恋愛・結婚――。他人と競い合う必要のないものまで、勝敗をつけたがる。
 こともあろうに、芸術の分野においても本の売上冊数、コンサートの動員数など、格付け、競争、ランキングの概念が流入して来ているのである。あくまで経済的な指標においてのことだと、頭でわかっていても、本質から離れてしまっているような気がして釈然としない。
 人間みな、生きているだけで心が不安で不安でしょうがない。だから、自分が勝者あることを確認して安心したいのかもしれない。気持ちはわからんでもないが、どうにもモヤモヤした気持ちを抱えてしまう。そもそも勝負の土俵に上がった覚えもないのに、見知らぬ誰かに負けだの決められることには疑問しか出てこない。
 不思議なことに、誰に言われるでもなく、自分で自分のことを負け犬です、と言うている人がいたりする。彼らは優しすぎたのだ。内なる社会性に屈服してしまったがために、自分で自分を敗北させてしまったのだろう。オイタワシヤ。

 俺は勝ち組にも負け組にもなりたくない。
 勝つでも負けるでもない、逃げるでも立ち向かうでもない、第三の選択は無いものだろうか。
 第三の選択――該当しそうな言葉といえば何だろう。「抜ける」「脱する」「埒外」などの言葉だろうか。
 土俵の上で戦うでもなく倒されるでもなく、土俵の上空に浮かび上がって、扇子を片手に舞を踊っているかのようなイメージ――。
 勝ち組になるのも負け犬になるのも御免だ。でも、美人で優しいお姉さまの飼い犬にはなりたい。もっというなら、犬より猫のほうが好きなので、飼い猫になりたい。しかし、飼い猫になったら、俺の「抜けたい」「脱したい」という気持ちはどうなるんだろう。舞を踊りたい気持ちは、文学の魂は、どうなるんだ。わからない。全ては混沌の中。泥っぽくて、ヘドロっぽい混沌。聞いたことのあるようなフレーズ。俺は、俺は、俺は。

 そうか、俺は抜け猫になりたいのか。

 抜け猫。なんだかすごく自由な響き。重力が軽くなったような気分。
 世間が言う、勝った負けたの外側には、抜け猫たちの世界があるに違いない。その世界で大事なことは、勝ちや負けではない。己が信じる、己の道をただひたすらに進んていくことが大事なのだ。誰かが勝ちも負けも決めない世界。いや、決めてくれない世界。俺はそこでニャー、と鳴いて、たくましく生きていきたい。
 すぐにそっちに行くから、待っててよね。
 俺は勝ち負けだらけの世界を「了」の一文字で締めくくり、虹の橋を渡った。

「この文学、めっさおもんないじゃん!」

 あ? お前、今なんつった? てか、誰やねんお前。
 反米田蔑太郎〈あんちこめだべつたろう〉? なんちゅうハンドルネームしとんじゃい。
 俺のエッセーが面白くないやと?
 じゃあ、蔑太郎よ。いつか名作エッセーを書いてやる。予告しとくぜ、その作品を読んだら、お前は死ぬ。なぜなら、面白すぎるからだ。お前は抱腹絶倒ののち、肺の中の酸素を完全に失う。ついでに腸も捻転する。よって死ぬるのだ。
 いいか、蔑太郎、絶対に逃げるなよ。
 これは俺とお前との真剣勝負なんだからな!

 どうやら、俺は「文学の面白さ」というジャンルにおいて、途方も無く勝ち負けにこだわるらしい。
 抜け猫たちの世界が、スゥ~、と遠ざかっていく。
 凡、凡、凡。どこからか聞こえる鐘の音が心に、じーんと響いて。(了)

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