水晶の眼球

マサユキ・マサオ

 村田が眼球を意識し始めたのはいつだったか、はっきりと覚えてはいない。少なくとも中学生頃まで、人の目を見て話すことがどうしても出来なかった。部活の顧問からは、話をしている人の目をちゃんと見ろ、とよく注意された。そう言われても、村田にとって相手の目を見据えるということは困難なことだった。二、三秒見つめると、胸の奥がつっかえるような苦しさを感じて目線を下げてしまうのだ。なんとか正面を見て人と会話出来るようになったのは、村田が高校を卒業してからだった。その頃になると、自分の恐怖心が人の瞳孔とアーモンド状に切り取られた目の輪郭にあるのだと気付き始めた。村田は人と目を合わせる時、輪郭の中にある目ではなく眼球自体に意識を向けるよう心掛けた。眼球は脳から伸びた視神経にぶらさがるビー玉の様なものだ。眼球のイメージを持つことにより、村田はかろうじて相手の目を見て会話することが出来るようになった。
 これもいつからかはっきりとは覚えていない。村田は他人の眼球を観察する癖がついていた。通りすがりの人の横顔を見るたび、彼らの眼球がどうなっているだろうかと想像した。駅のホームや買い物中など、不意に目が合ってしまい怪訝な顔をされることもあった。気まずい思いをすることもしばしあった。あれほど他人と目を合わせることが苦手だったのに、眼の観察だけは止められなかった。視線へのトラウマが、村田の中の探求心をより一層大きくしていった。
 大学を出て給料を稼ぐようになってから、村田はキャバクラに通うようになった。会社の先輩の誘いで付いていったのがきっかけだ。彼女たちは、村田がどれだけ目を見つめても文句を言わなかった。目を見るのが好きなのね、とよく聞かれた。見つめ返されると、村田は動悸で息が苦しくなった。異性としての胸の高鳴りではなく、潜在的な目への恐怖だった。この「目」を克服しなくてはならない。村田は勝手に思い込んでいた。君の目が綺麗だからだよ。決まって村田は答えた。そう言いつつ、内心では眼球の全体像を探った。アーモンド形にくりぬかれた目が表層的な言葉や感情だとしたら、眼球は人間という生物そのものだった。
 時に意識的に、ある時は無意識に、村田は他人の眼球を想像したが、実物の眼球を見たことはなかった。初めて村田が眼球をその手にとったのは三十歳になってからだ。それは人間のものではなく、牛の眼球だった。

 村田が眼球と出会ったのは牛の屠殺場だった。眼球を求めて訪ねたわけではなく、そこが村田の転職先だった。
 令和二年の年の暮れ、村田は無職で三十歳の誕生日を迎えた。後先考えず仕事を辞めてしまい、三ヶ月が過ぎていた。人間関係が原因だったが、本当に辞めてしまうほどのことだったのか村田自身にも分からない。
 新卒から数えて、村田はそれまでに四つの会社に勤めた。全く向いていない仕事もあれば、続けようと思えば続けられた仕事もあった。四つ目の職場は後者の方だ。聞いたこともない、マイナーなカップ麺メーカーの営業だった。村田は、その会社に三年勤めた。三年というのは、それまでで一番長い勤続期間だった。それでも一年が過ぎた頃から、漠然と辞めることを頭の片隅に置いていた。決定的な何かがあったわけではない。澱のように積もったわだかまりが、ある日どうしようもなく耐えきれなくなり、村田は辞表を出した。
 仕事を辞めて一ヶ月は、ただ毎日映画を観て、貯金も無いのに数日置きにキャバクラに行った。二ヶ月が経った頃から漠然とした焦燥に駆られ、ハローワークに通い始めた。三回の転職活動と比べ、四回目は困難を極めた。コロナウイルスのせいか、思っていたより求人の数が少なかった。希望する求人の面接を幾つか面談で提示したが、アポイントの時点で断られた。ハローワークの職員には、過去の職歴が良くないから一つ会社を減らして書くように言われた。一刻も早く働き口が欲しかった。いっそ、人が嫌がる求人の方が都合が良いと思い始めていた。食肉加工場、未経験者歓迎、という求人を読んだ時、業務の内容はおおよそ想像がついた。屠殺業の求人だ。三年前だったら応募すらしなかっただろう。
 結局、村田はその会社に応募することにした。ハローワークから電話をかけると、武骨な雰囲気の声が聞こえた。求人を見た、と伝えると特に何も聞かれず、私服で良いから明日面接に来るように、と言われた。

 次の日、履歴書を持って面接に向かった。
 指定された事務所に着くと、面接もそこそこに、社用車の白いバンに乗るよう言われた。運転手が昨日の電話に出た採用担当らしい。多分五十歳前後、ダルマの様な体系をした男だった。名前は西岡と言った。道中で西岡に、血は大丈夫か、とだけ聞かれた。血が大丈夫なら採用されるんだろうな、と村田はぼんやり思った。
 作業場に入る前に、帽子とマスク、白いエプロン、ゴム手袋と肘まである青色のビニールを着けた。後の工程から順に見学するらしい。最初に見たのは、吊り下げられた大きな肉塊だった。数えてみると十頭分だった。テレビなどでよく見たことがあるやつだ。吊られている牛の他に、パレットに乗せられた解体済みの肉塊があった。スーパーで売ってるブロック肉と大して変わらない。
 何故、最後の工程から見るんですか。西岡に聞いた。
「ああ、それはねぇ。最初のとこから見ると、全部見る前に帰っちゃう人が多いから」
 村田は西岡の目を見た。眼球ではなく、瞼や目尻に現れる表情の機微を探ったが、そこから何か特別な感情を読み解くことは出来なかった。西岡の視線がじろりと自分に向くと、村田は動悸が激しくなった。しかし、その視線は何か意図を含んだものではなかったようで、再び作業場に向けられた。
 最初に見た肉塊は、枝肉という状態なのだと説明された。
 生きている牛が枝肉になるまで、大体四十分だそうだ。牛はほとんどが解体される前日に搬入され、係留場と呼ばれる敷地に待機させる。屠殺が行われる部屋は、係留場からは見えない。係留場から屠殺場までには細い一本道があり、業務の最初、その一本道に牛を並ばせ一頭ずつ屠殺場に誘導する。その先の個室には、ノッキングガンと呼ばれる屠殺専用の銃があり、鉄芯で牛の眉間を打ち脳震盪を起こさせる。そうやって気絶させた牛の喉をナイフで裂き、血抜きをする。この時、内容物が逆流しないように、食道と肛門に栓をする。以前、このセクションから見学をさせた応募者は、耐えきれず嘔吐して医務室に運ばれたことがあったそうだ。
 その後、牛にチェーンをかけて釣りあげ、脚部の切断と皮剥きを行う。作業員は脇の通路に何本も牛刀を並べ、とっかえひっかえしながら恐ろしいスピードで刃をふるっていた。
 皮を剥いたら臓物を摘出する。臓物と皮は別の会社が管理しているらしく、内臓の取り分けは覚えなくて良いと言われた。肉のみになった牛を、更に電動のこぎりで背中から割っていく。こうして背割きした肉から、毛や汚れを除去したものが、最初に見せられた枝肉になる。
 村田が見学を終えて事務所に帰ってくると、西岡に君は採用だと告げられ作業着を渡された。次の日から作業場に直接出勤するように言われ、契約書を書いた。村田が事務所を出ると、既に日が暮れていた。久しぶりに他人の視線に晒され、身体が重かった。それでも前の会社の様に、毎日アポイントメントをとって営業に向かうよりは良さそうだった。作業員は誰とも目を合わせることなく、ひたすら作業に集中しているように見えた。
 屠殺場の臭いと血による熱気は強烈だったが、多分耐えられるだろうと村田は思った。それより、ノッキングガンを打たれる直前の牛の表情を思い出した。表情というより、その眼球だ。村田は牛と目があった。少し離れたところからの見学だったが、大きな黒目の周りの白目が見え、押し出されそうなほど眼球に力が入っているのが伝わってきた。
 後で西岡に言われた。
「あんまり、牛と目を合わせちゃあかん。君はちゃんと顔を見て話してくれるし、それはとても良いことなんだが、牛と目を合わせるのはあんまり良いことじゃないぞ」
 そうか、自分は顔を見て話せていたのか、と村田は思った。安堵と共に、あの牛の目を思い出した。死への恐怖、怒り、そういったものがまざまざと伝わってきた。決して気分の良い経験ではなかった。生命が奪われる瞬間、流石に慄いた。しかし、人間と目が合うのとはだいぶ違った感じがした。なにより、あの巨大な眼球だ。生物としての眼球の美しさに村田は惹かれていた。

 屠殺場勤務の初日、村田は牛の眼を手に入れた。本当は眼球そのものが欲しかった。実際手に入れたのは、眼の中にある水晶体だった。
 初日は面接の時と同じで、ほとんど見学だけだった。定刻十七時の鐘が鳴る。皆が帰り支度し始めたのを見計らって、村田はクリーンゾーンと呼ばれる肉の加工場に忍び込んだ。
 クリーンゾーンとは主に肉と内臓を仕分け解体する場所のことだと教わった。その前段階、牛を失神させて喉を裂き、皮を剥ぐ場所がダーティゾーン。牛を失神させてから喉を裂くのがダーティゾーン。吊るされた首を切断するのはクリーンゾーンだったはずだ。村田は牛の頭部を探していた。正確に言うと、頭部ではなく眼球を探していた。
 廃棄ボックスと書かれたコンテナに、頭部はすべて放り込まれていた。牛は棄てるところが少ない畜産動物らしいが、頭部だけはBSE検査の後に焼却処分される。
 村田はコンテナによじ登り、その中の一つを持ち上げた。身体全体で力ませ、両手で抱えてやっと頭の一つを取り出すことが出来た。改めて牛の目を見た。先ほどまで黒く澄んでいた瞳が、白濁しつつあった。村田は傍らに並べられた牛刀を手に取り、眼球の周囲の肉を切り取った。頭部から切り取った牛の眼球は、思いの外ぶよぶよとした醜い塊だった。厚手の保護手袋の上で、ゼラチン質の眼がべったりと広がった。五百円玉ほどもある瞳孔を覗き込んでみても、目が合うことは無かった。やや青みがかったそれは、ほ乳類というよりも巨大な深海イカを思わせた。

「お前、なにやっとんじゃ」
 背後から声がした。川崎という年配の作業員だった。怒気を含んだ視線を向けられた。唐突な罵声に、村田は思わず目を伏せた。
「お前、新入りだったか」
「はい、今日からです。村田と言います」
「ボックス漁って、一人で何してたんだ」
 村田は足元の頭部と、潰れかけた眼球を見た。危ない人間だと思われたら、初日から首になるかもしれない。いっそ、辻褄を合わせつつ、本当のことを話した方が良いと村田は判断した。
「牛の眼が欲しかったんです」
 昔、理科の実験で解剖した時に興味がわいて、と付け加え牛刀を川崎に渡した。川崎は、その持ち手から刃先まで舐めるように見た。
「刃が欠けたら仕事にならんからな。教えられてないのに触っちゃいかんぞ」
 川崎は、眼の肉片を拾い上げた。こんなのが欲しいなんて、変な奴だな、と目の端で笑った。いえ、そうじゃなくて、と村田は頭を振った。こんな、カエルの卵の様な塊が欲しかったわけではない。
「その牛の眼玉、中身がどうなっているか見たいのですが」
 余計なことを言ってしまった、と村田は一瞬後悔した。しかし、川崎は黙って眼球を作業台の上に置いた。川崎は牛刀を握り直し、表面の皮を引くように二つに割いた。どろりとした半透明の中身が飛び出す。内側を彩る網膜は、翡翠のように深い緑色をしていた。村田は、牛刀に集中する川崎の眼を観察した。初老の男性特有の、皺に埋もれた深い目をしていた。同時に、今まで見たことが無い妙な光彩をしていた。
「失礼ですけど、川崎さんの右目、義眼ですか」
 また余計なことを言ってしまった、と村田は唇を噛んだ。余計かもしれない言葉は一度飲みこんでおくぐらいが丁度良い。今までの職場でも散々学んできたはずのことだ。
 しかし、川崎は何でもないことの様にそれに答えた。
「よう気付いたな、初対面の奴に言われたのは初めてだわ」
 そう言って自分の右目を指さした。水晶みたいで綺麗やろ。そう言って笑った。
 肉片の後処理をどうして良いか分からず、村田は川崎がすることをただ横で見ていた。眼球からこぼれ落ちた漿液をふき取りながら、川崎はビー玉状の粒を摘まみ上げた。
「これが牛の眼玉の水晶体だ」
 欲しいんだろ、と村田の掌の上に粒を置いた。眼球全体の生々しさとうって変わり、それはまさに水晶のようだった。
「西岡には黙っとき。あいつ、管理には厳しいから」
 改めて、川崎の横顔を観察した。最初の怒気は完全に消えていた。義眼だという右目も、よく観なければ他人には区別がつかないだろう。ただ、村田が漠然と恐怖してきた視線が川崎の右目には無かった。焦点の合わない瞳には、一種美しささえ感じられた。
 村田は牛の水晶体を胸ポケットに入れて、作業場を後にした。更衣室を出ると、川崎が先に着替えて待っていた。作業場は熱気に満ちていたが、外は寒空だった。川崎は無言で自販機の前に立ち、缶コーヒーを二本買った。甘いのか苦いのか、どっちが良いかと村田に尋ねた。村田は、甘い方の缶を受け取った。
「こうゆう仕事やから、色んなこと言う奴がおるよ。でも、必要以上に他人の目を気にしたらやっていけないし、そもそも、本当に相手が考えてることなんて分かりゃしないんだ。世の中分からないことだらけさ」
 川崎は独り言のようによく喋った。
 自販機の薄ぼんやりとした明かりのみが二人を照らした。見渡すと、この作業場の周囲はまばらに街灯があるだけで、店や工場の類は少なく、田畑のみが広がっていた。
 何故義眼になったのか聞きそうになったが、村田は押しとどめた。それ以上何か会話をすることもなく、並んで缶コーヒーを飲んだ。二人の息だけが白く長く宙に伸びた。
 その時、村田は不意に気付いた。今まで村田が恐れてきたもの、それは突き詰めると他人から自分に向けられる感情だ。更に言うと、その感情があまりに不明慮であることが恐ろしかった。そうか、分からないことが恐ろしかったのか。それじゃまるで幽霊を恐れるのと同じじゃないか。目は感情の影法師の様なものだ。見つめれば見つめるほど輪郭は歪み、ぼやけていく。
 胸ポケットの中にある水晶体を指で摘まみ、取り出す。水晶体は自販機の明かりを受け、柔らかく光を屈折させた。水晶体は眼球の一部に過ぎなかったが、川崎の義眼とどこか似ていた。もしかしたら、川崎の義眼は水晶で出来ているのかもしれない。水晶の眼を埋め込まれた川崎となら、村田は視線を交わしても平気でいられるだろうか。そんな想像を巡らせて、川崎の眼球をイメージしようとしたが、その像が出来上がる前に川崎が村田の肩をポンと叩いた。
「帰ろか」
 村田は頷いた。急に身体に触られるのは苦手な方だったが、不思議と嫌ではなかった。
 去り際、明日から頑張れ、なんとか続けられるように、と川崎は村田に呼び掛けてきた。きっと、続けられる人間の方が少ないのだろう。村田も今までのことを考えると、どれだけ続けられるか自分でも分からない。とにかく、明日から改めて新しい仕事が始まる。牛を切り刻み、肉にする。毎日他社に営業に行くよりはマシかもしれない。けれど、実際仕事をしてみてどうなるか、向いているのか向いていないのか想像もつかなかった。世の中は分からないことばかり、という川崎の言葉を頭の中で反芻してみた。
 胸ポケットに手を当てると、水晶体の丸い感触が確かにある。眼球の柔らかさに比べ、水晶体は指で押しても潰れないだけの硬さを保っていた。川崎の義眼はどうなのだろうか。柔らかいのか、それとも水晶の様に硬いのか。いつか、あの義眼を手に取って触れてみたい。夕闇に去っていく川崎の背を見ながら、村田はそんなことをふと思った。
<了>

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