デトリタスの雪

平田ヘイデン

 今日も雪が舞っている。
 教科書の写真と窓から見える景色を見比べる。写真に映る空は明るい青色にところどころ不定形の白い模様が入っている。一方窓の外は重苦しい色の空が町に蓋をしている。
 先生が教科書を読み上げる声が耳を抜けていく。
 第三次世界大戦を切っ掛けに、地球は寒冷化し氷期に突入した。戦争による汚染や物資の不足もあいまって、地球環境は人にとって厳しいものに変わってしまった。
 人は持ちうる知識や技術を全て使って、今の環境に適応した。遺伝子編集や、生まれてすぐ行われる適応手術などの、様々な分野の最新技術を惜しみなく使って人は絶滅を回避した。
 今私たちが着ているセーラー服やインナーも、大戦前と比較して保温性能が著しく高くなっている。
 先生はそんなようなことを、単調な声で五十分間話し続けて授業は終わった。
「面白くなかった?」
 先生が教室を出た瞬間におもいっきり欠伸をしていた私は、大口を開けたまま声が聞こえた方に顔を向けた。私の椅子の横で、幼馴染のアメフラシがしゃがんでこちらを見上げている。いつも楽しそうにきらきらしている目と、瞼が半分閉じた私の目が合う。
「どこが面白いの」
「種の存続の危機にどう対応したとか、聞いててわくわくしない? あの時人間が絶滅してたら、ぼくは今日授業を聞いて面白いとも思えなかったのかって想像したりさ」
「しない。・・・・・・でも空の写真は綺麗だと思ったよ。雪降ってないし。こんな景色見てみたいな」
「じゃあ見に行こうよ」
「雪降ってないとこなんてないじゃん」
「赤道の近くまで行けば雪はあんまり降ってないし、太平洋の辺りは戦争の影響が少なくて汚染物質の雲が薄いから、運が良ければ晴れてるかもしれないよ」
 図書館行こうよ、くらいの軽さで世界旅行に誘われた。アメフラシは頭がいいけど、たまにものすごく馬鹿なことを言う。
 私たちはまだ十歳になったばかりのこどもで、行ったことがある中で一番遠い場所は寮から公共交通機関で二時間くらいの、親が住む集合住宅だ。
 そんなこどもがどうやって何百キロも離れたところに行くつもりなのか。
「無理に決まってんじゃん。道分かんないし」
 きらきらした目を見ていられなくて、視線を落として吐き捨てた。最近できないことを自覚するのが嫌だった。再来年には特別頭がいい子以外はおとなになって働くことが決まっているのに、できないことが多すぎて怖くなる。
「大丈夫、行き方調べておくから。だから今週の金曜日お泊りの準備してぼくの部屋に来てね」
 行くなんて一言も言っていないのにアメフラシの中では私が行くことは決定しているらしい。
 断るのも面倒だし、作戦会議と称して泊りがけでおしゃべりするのはきっと楽しい。落ち込みかけていた気分が少しだけ復活して、私は分かったと返事をした。

 約束の金曜日。授業が終わって、アメフラシと一緒に私の部屋に荷物を取りに行くことになった。
 私より先に外に出て雪を避ける一人遊びをしていたアメフラシを呼ぶ。雪なんて毎日降っているのになんで厭きないんだろう。
 校門を出て、隣の敷地に立ち並ぶ寮に向かう。私の部屋は校舎から一番近い建物の三階で、アメフラシはその斜め隣の建物の一階だ。道すがら、アメフラシに話しかけられる。
「ウミウシちゃんは進学する気ないの?」
「うん。勉強つまんないし」
「一緒に進学コース行けたらもっとウミウシちゃんと遊べるのに」
 残念そうにアメフラシが小さく呟いた。進学しないこどもは十二歳でおとなの仕事を始めるので、進学するつもりのアメフラシと会う機会はきっと少なくなる。
「職場が学校の近くだったらいいな・・・・・・」
 それ以上話すことが見つからず、部屋に着くまでお互い黙って歩いた。

 お泊り用の荷物はもうまとめていたのに、荷物を一瞥したアメフラシは「全然足りない!」と言って、私の部屋を勝手に漁って無理矢理荷物を増やした。準備していた小さいリュックサックは、親の家に行く時に使う大きなリュックに替えられてめいっぱい詰め込まれた。破裂しそうなそれはとても休日に友人の家に泊まるための荷物だとは思えない。
 まとめた荷物を勝手に持って行こうとするので、ドアの前で立ち塞がってそんなにいらないと訴えた。しかし聞いてもらえず、アメフラシは窓から飛び出して行った。行先はアメフラシの部屋だろうから、今更荷物を取り返すのは手間が増えるだけだ。諦めてアメフラシの部屋に向かった。
 アメフラシの部屋は建物の陰になっていて私の部屋よりも薄暗い。半分開けたドアの隙間から、アメフラシが持ち出した私の荷物を跨いで部屋に入る。私たちの学年だと、部屋はベッドと小さなローテーブルで床のほとんどが埋まるほど狭い。ベッドの半分は大きなリュックサックに占領され、机と床にはたくさんの紙が散らばっている。アメフラシは床の紙の上に座っていた。
「その辺に座って」
 視線で示されたアメフラシの斜め前に座る。踏みそうな紙は集めて机に載せた。
「南に行く道と行き方を調べたよ」
 アメフラシが手を伸ばして、床に落ちている紙の中から数枚を無造作に取り上げて机に置いた。紙には読みやすい大きさのちょっと読みにくい癖字で、必要な持ち物や行く方法などが書かれているようだった。
「他にも危険な生き物とか、応急処置の手順とか」
 喋りながら、アメフラシはどんどん部屋に散らばる紙を机に重ねていった。部屋に散らばっていた紙はすぐに机の上に集まり、机の上の紙は紙束になった。表紙には『修学旅行のしおり』と書かれている。
「シュウガク旅行ってなに?」
 知らない単語だった。
「学校を卒業する前に同級生の友達と泊りがけで行く旅行のこと」
 友達と旅行に行くところを想像する。旅行と言えば、親と日帰りで行くものだと思っていた。今まで二・三回くらいしか行ったことがないそれは、いつもとても楽しかった覚えがある。アメフラシと旅行ができたら、きっと——。
「楽しそう」
「でしょう! それに勉強のためにする旅行だから、授業に出なくてもいいんだよ」
「え、学校休んでいいの?」
「旅行が授業だから休みにはならないって書いてあった」
「そんなのがあるなんて知らなかった」
 修学旅行なんて聞いたことがなかったが、アメフラシが調べた資料のコピーには確かにそう書いてあった。
「ね、行こうよ!」
 少し迷う。行ったことがない遠いところにこども二人で行けるのだろうか。
 でも、もうすぐおとなになるんだから、それくらいできなければ。それに一緒に行くのはアメフラシだ。困った時に頼りになるのはよく知っている。
「・・・・・・うん、行く」
 アメフラシの顔が、それは嬉しそうに綻んだ。がばりと腕を広げたアメフラシが私に抱き付いてくる。
「やったー! ウミウシちゃんと旅行行けるの、すごく嬉しい!」
 アメフラシの動きに煽られてばらけそうになったしおりを抑える。
「私も。行き方調べてくれてありがと」
 手に取ったしおりの束を整え、筆箱を探って見つけたホチキスで綴じておく。制服のポケットに入るサイズで持ち歩きやすそうだ。
 ページをめくり、気になっていた行き方の項目に目をさっと通す。船を使えば一晩で着くらしい。意外と簡単に行けるものなんだと知り、不安が軽くなった。
「じゃあ行こうか」
 私にくっ付いていたアメフラシが離れて、ベッドに転がっていたリュックサックをいそいそと背負った。
「今から?」
 私は驚いて声を上げた。同時に、アメフラシが私の荷物を増やした理由に納得がいった。
「夜の八時までに船が来る場所に行かないといけないんだ」
 慌てて時計に目をやる。
「あと二時間ないじゃん! どこに行けば・・・・・・そう言えば先生になにか言わなくていいの? 食べ物と着替えとあとなにが」
「全部準備できてるから大丈夫。ほら、行こうよ」
 ドアの前でこちらを振り向いたアメフラシは落ち着いていて、とても頼もしく見えた。小さい頃、一人で迷子になった私を迎えに来てくれたことを思い出す。私はアメフラシを信じることにした。
 暗くなった敷地内を静かに抜ける。明かりが二つ、夜の中で踊る。こんな時間に外を出歩くのは新鮮で、あとの予定も相まって気持ちが弾む。背負ったリュックサックは背中から少しはみ出るくらい大きいが、中はほとんど衣服で見た目より重くない。
 アメフラシのリュックサックは衣服に加えてなにか道具類も入っているようで、輪郭が少しごつごつしている。手提げ袋には大きな金具やロープが入っている。なにに使うのだろうか。
 街灯もない暗い道をライトで照らしながら進む合間に聞いてみた。
「町外れに捨てられた箱に入って、それを船に引っ張らせるのに使うんだ。そうすれば交通費がかからないから」
「それ大丈夫なの? 怒られない?」
「見つからなければ」
 アメフラシは胸を反らして、自信満々に言った。
 一抹の不安を覚えたが、他に行く方法なんて思いつくわけもない。
 怒られたらどうしようと考えながら、疲れて会話が減るくらい歩く。岩に囲まれた細い道から開けた場所に出て、ようやくアメフラシの足が止まった。
「着いたよ」
 ライトが、砂地にぽつんと転がる大きなコンテナを照らす。コンテナからは太いロープが何本も闇の中に伸びている。六面のうちの一か所は壊れてどこかへ行ってしまったのか、ぽっかりと開いた部分が上を向いている。大きさはアメフラシの背丈くらいの高さで、私たちと荷物でいっぱいになってしまうくらいだ。
 アメフラシは周囲を見回しながらコンテナに近付き、持ってきた金具を取り付けたり、ロープの結び目をを確認したりし始めた。
「これどうやって持ってきたの?」
 コンテナは金属でできているようで、とても一人で持ち運べるものではなさそうだった。
「もともとここに落ちてたんだよ。船には乗れないから、南に向かう船が通る航路で、船の代わりになるものがある場所を探して見つけた」
 落とし物と聞いて中身が気になり、コンテナの中を覗いた。中にはこども用のヘルメットが二つと厚手の大きな布が数枚入っていた。どちらも使用感はあるが小綺麗なので、これはアメフラシが入れたものだろう。
「あと十五分くらいで船が来るから、ウミウシちゃんは先に入ってて。ヘルメットを被って、コンテナが揺れても怪我をしないように壁を布とリュックで覆っておいて」
「分かった」
 アメフラシは私がコンテナに入るのを見届けて、コンテナから伸びるロープを辿ってどこかへ行った。
 私は布と自分のリュックサックだけでほとんど埋まったコンテナの中で、ああでもないこうでもないと試行錯誤を始めた。やがて、波の音に雑音が混じり始める。雑音がだんだん近付いて、船の音だと気づく。
 海を割る音がしっかり聞こえるようになった頃、アメフラシは戻ってきた。リュックサックを背負ったままアメフラシが残った隙間に体を詰め込むと、苦しくはないが全身なにかしらと密着しているような窮屈さだ。アメフラシは体をよじってコンテナの開いた面を塞ぐようにリュックサックを金具で固定する。私とアメフラシの体でT字を作っているような配置だ。
「電気消すよ」
 動きを止めて一息ついたアメフラシが、ライトを切った。私もそれにならう。真っ暗になると、ごうごうと水をかき混ぜる音が大きくなったように感じた。船がかなり近くまで来ている。
「揺れるから気を付けて」
 轟音の隙間から拾い上げた言葉は布越しにくぐもっていた。
 いくばくもなく、コンテナが傾いて激しく揺れた。思わず耳を塞ぐ。揺れはしばらく続いて、途中何度もガン、ゴン、とコンテナが壊れそうな程大きな衝撃を感じた。
 必死に耳を塞いで、喉を締め付けられるような恐怖に耐える。
 どれくらい経ったのか分からないが、連続で大きな衝撃があったあと、急に振動は収まった。
 そろそろと耳から手を離すと、ぱっと明かるくなった。ほっとして強張っていた体から力が抜ける。
「どこかぶつけなかった?」
 普段通りの声が耳に入る。アメフラシは怖くなかったのだろうか。
「どこも。・・・・・・壊れるかと思った」
「頑丈なのを選んだし大丈夫だよ。多分着くまでに何度かまたぶつかるけど、眠れるなら寝ておいてね。明日は六時くらいに船から離れるから、五時半には起きて準備を始めるよ」
「どうやって船から離れるの?」
「船に引っかけたロープを外すだけ」
「私にもできない?」
 簡単そうな口ぶりだったので、私にもできるかと思い聞いてみる。アメフラシに頼りきりなのが心苦しい。
「難しい結び方をしてるからぼくがやるよ。それよりも、今日はしっかり寝て船を離れたあとでぼくが仮眠する時に見張り役をしてくれない?」
「仮眠? 今日は寝ないの?」
「今日はぼくが見張り役。何かあった時すぐに対処できるようにね」
「分かった。明日は任せて」
 感じていた無力感が頼られた嬉しさで薄れ、思ったよりも大きい声が出た。
「電気切るね」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
 暗闇が戻る。
 明日は頑張ろうと決意を固め、目を閉じた。

 頬が痛い。あと妙に暑い。
 頭を動かすと頬を放された感触がした。つねられた?
 重い瞼をこじ開けると、薄明るいライトの光が目に入る。
「起きた?」
「・・・・・・おはよ」
 あまり寝た気がしない。南に移動して温度が上がったようで、ぴったりしたインナーの中に熱がこもっている。屋外でこんなに暑さを感じるのは初めてのことだった。インナーを着崩していると、布の向こうから語尾が溶けていて眠そうな声が聞こえた。
「ウミウシちゃんのリュックに入ってる食べるもの出して。朝ごはん食べよう」
 ぞもぞと体制を変えて、足元のリュックサックを探る。服を退けたその下から、腹持ちがよくて手軽に食べられるものが出てきた。適当に五・六個取り出す。
 食べ物を分け合って無言で食べる。海をかき分ける音をなんとなしに意識する。工事現場にいるような騒音なのに昨日はずいぶんすんなり寝入れたので、意外と自分は図太いのかもしれない。
 食べ終わってからすることもなく、六時まで中途半端に時間があった。自分のライトを点けてポケットに入っていたしおりを読むことにする。
 行き方の章では世界地図に辿る道らしき線が一本だけ赤道まで引かれていて、その横に『一晩船で移動』『朝六時頃浅瀬に付いたら離船』『帰りは臨機応変』と書いてある。
 持ち物の章では食べ物、着替え、サメ撃退グッズ、包帯、ライトなどが載っていた。アメフラシのリュックサックの中身は載っていないようだ。
 後ろの方は応急処置の方法と、危険生物一覧になっている。危険生物は多すぎて覚えられないので、触らない、近寄らないのがよさそうだ。擬態して見つけ辛いものがいるから、サンゴ礁にも触らないようにする。
 危険生物一覧の写真を眺めていると、前触れなく強い衝撃がコンテナを襲った。思わず悲鳴が飛び出る。
「うわっ!」
 コンテナが固いなにかに当たったようだ。不規則に響く轟音と揺れが続く。出発する時に一度経験したので、今度は前よりも冷静でいられた。
 揺れが継続的な振動に変わる頃、体が壁側に押し付けられる。直後に押し付けられる方向が垂直に変わった。コンテナが倒れたようだ。振動が収まり、船の轟音がゆっくり小さくなっていく。
「・・・・・・アメフラシ? 大丈夫?」
「うん。ウミウシちゃんも怪我してない?」
 返ってきた反応に胸を撫で下ろす。
「へーき。もう外出れる?」
「ちょっと待ってね」
 カチャカチャと金属がぶつかる小さな音。アメフラシの方から届くライトの光が弱くなった。
 視界を遮る布を避けるとコンテナの外に立つアメフラシが見えた。
 邪魔な布を入口から押し出すように退かして外に這い出る。腕を付いた地面から砂が舞い上がった。吸い込まないように急いで体を起こす。
 コンテナの外は明るかった。見上げた空からキラキラと光が降り注ぎ、白い砂地に刻一刻と変化する複雑な模様を描いている。町の空と同じくらいの高さにあっても、この空を蓋のようだとは思えない。町よりも雪がかなりまばらで、遠くまで見通せる。
「アメフラシ! ねぇこれすごい!」
 アメフラシが振り向く。いつもよりきらめく瞳と視線が絡む。
 思わず抱き合って二人で歓声を上げた。
「こんなに綺麗だなんて思ってなかった! ウミウシちゃん、教科書の写真の方の空も見に行こうよ」
「見たいけど・・・・・・息はどうするの?」
「ここを空の外に出さなければ大丈夫」
 アメフラシは着崩したセーラー服の胸元を下に引いて、鎖骨下の切れ目のような適応手術の痕を出した。
 切れ目の奥には水の中で呼吸できない人類が、水上で呼吸する機能と引き換えに得た人工のエラがある。
 アメフラシは背負っていたリュックサックを放り出して、空に向かって水を蹴った。私もそれに続く。
 目線がぐんぐん高くなる。ヒレのように靡くセーラー服のスカート。鮮やかな色の魚。遠くにそびえる青い影。
 空の一番明るいところを頭が突き抜ける。
 目を細めて水上の空を見上げた。濃い青に、陰影のはっきりした白い模様。水中から見るよりも輪郭がはっきりして眩い太陽が目を焼く。
 大昔のものだと思っていた写真の景色があった。
「雪が降ってない・・・・・・」
 水中では常に視界を漂っていた雪がひと欠片も見当たらない。
「水上ではデトリタスって言う雪のもとが出来ないから、雪は寒くないと降らないんだって」
「寒い時だけ降るの?」
「うん。水上の雪は凍った水の粒で出来てるから、暖かいと溶けちゃうんだよ・・・・・・ふあ」
 アメフラシの欠伸で思い出す。まだアメフラシは仮眠をとっていない。
「アメフラシ、寝なきゃ! 私ちゃんと見張りするから」
「そうだね、コンテナに戻ろう。今ならいい夢が見れそう」
 手を繋いで一緒にとぷんと水に潜る。
 見慣れた雪が舞う世界に戻ってきた。
 一緒に沈みながら、アメフラシが思い出したように言った。
「人が水上に住んでいた頃は、水中の雪はマリンスノーって呼ばれてたんだよ」

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