山中 隆司
今、私は見知らぬ山伏装束の男に掴まって空を飛んでいる。あたりは水の底を思わせるほど仄暗く、星明りを思わせるきらめきが点在している。このまま本当におばあちゃんに会えるのだろうか怪しい。
なぜこうして見知らぬ男に掴まっているかというと、それはおそらくだが数時間前にさかのぼる。
真夏の寝苦しい暑さと喉の渇きで目を覚ました。冷たいお茶を飲むために、階段を降りると空からしわがれた声が聞こえてきた。声の方を見ると山吹色の山伏装束の男が月に照らされて浮かんでいた。見るからに怪しいので無視して冷蔵庫のある台所に向かおうとすると目の前にその男が下りてきた。
「お嬢さん。こんにちは。どこかに行きたいところはございませんか? どこへでもご案内しましょう」
「ホントに、どこへでも行けるの?」目の前の男を怪しみつつも聞く。
「ああ、この巻物を使えば、大隅国だろうと蝦夷だろうとひとっ飛びさ。それに常世の国にだって行ける」と手にした巻物を広げる。
月明かりに照らされた巻物を見ると、見たこともない文字が所狭しと書きつけられていた。この珍妙な巻物一つでどうにかなると思えない。もしそんなことが本当にできるとしたら。会いたい人が一人いる。
それは数年前に病気で亡くなったおばあちゃんだ。もう一度、会えるのであれば、どうしても謝りたい。
「じゃあ、私のおばあちゃんに会わせてください。どうしても伝えたいことがあるんです」
ふむ、と男は腕を組んで空を見上げ、言葉とも音ともいえる声を出した。
「お前のその会いたいというおばあちゃんとやらはすでに亡くなっているな。どうして会いたいと申すか? 常世の国は生者が行くにはあまりに危険な処ぞ」
静かに頷く。この男が言うようにおばあちゃんはすでに亡くなっているので、会って話す機会などない。会えるのであれば、ぜひ会って謝りたい。
今から十年前のあの日、七歳だった私は近くの駄菓子屋でお菓子を買いに行くための金を探してタンスをあさっていた。右上のに若草色の袱紗が目についた。この中に小銭が入っているかと思い、開けてみると小銭中ではなく梅のかんざしが入っていた。それは可愛らしくて、自分でもさしてみたところ思ったより似合っていることに満足した。元に戻そうとしたときに手を滑らしてしまい、畳の上に落としてしまった。運悪くその衝撃でかんざしの先端が折れてしまった。このことがバレると怒られると思い、そのままズボンのポケットにしまい自宅に持ち帰った。今も勉強机の中には梅のかんざしがしまってある。そのことをおばあちゃんにいう前におばあちゃんは亡くなってしまった。あれはおじいちゃんから贈られた大切なものだということは何度も聞いて知っていたのに。
落とされないようにしろよと男がいう。男を掴む手が男の二の腕をしっかりと掴んだ。
では、ゆくぞと掛け声とともに先ほどの巻物を広げると同時に一人ぐらい通れるぐらいの大きさの穴が出現し、男は私を連れてそこに飛び込んだ。穴の内部は思ったより広く、仄暗かった。男が高速で移動しているため、確かにしっかりと体に掴まっていないと落とされてしまいそうだ。恐る恐る下を見ると、底が見えなかった。落ちたらどうなるかは考えないようにしよう。後ろからいくつもの光の粒がついてきていることに気づいた。
ここで冒頭に行きつく。
「そういえば、まだ名乗っていないな。儂は愛知坊だ。お前は?」
「中根あかり」
「おかしな名だな。それは」
私の名前はそんなに変なのだろうか? あかりなんて没個性な名前をつけられたことを恨んだことはあったが変だと感じたことはなかった。私を連れて飛んでいるこの愛知坊という男のほうが名前にしても、空を飛んでいるこの状況にしても普通じゃない。
「あなたは何者なの。死んだおばあちゃんに会えるなんてありえないことを言って、誘拐しようって魂胆じゃないでしょうね」
愛知坊はカカッと笑い、口を開いた。
「お主のような小娘をさらってもなんの価値もない。それに無事に元の場所へ送るから安心してくれい」
そういわれても安心はできない。何しろ死後の世界に行くのだ。男にしがみ付く指の先が痛くなり始める。指先のしびれが限界に達し愛知坊の腕から離れかけた時、愛知坊は速度を緩め地面にゆっくりと着地した。
助かった。
「着いたぞ。ここが常世の国だ」
ここ来るまでに通ってきた仄暗い道とは異なり、明るく緑にあふれ、私たちがいる世界とあまり変わらないように思える。
「ここにいる者どもは生者を死に誘う。だから、儂から離れるなよ」
「あなたは、いいの? あなただって生きているでしょう」
と指摘する。
「それなら大丈夫だ。ここらへんにいる雑魚どもなら大抵は蹴散らせる。万一、儂が負けそうなっても空を飛んで逃げればよい」
愛知坊がこういっているのであれば多分、大丈夫だろう。ふと、現実の自分の身体が気になった。まさか、死んでいるわけじゃないないだろう。そんな私の表情を見て、愛知坊は口を開いた。
「浮世の世界にお前の体はない。心身ともにお前はここにいる。だからこそ、生者にとって常世の国は、」
突然、額に痛みが走った。そこに触ると血がついている。愛知坊は懐から素早く何かを取り出し空に向かって投げつけた刹那、周囲が瞬いた。
「大丈夫か? 少しだけ油断した」
時代がかった口調ではなく、優しい口調なので驚く。あの言葉遣いは演技なのだろうか。
「顔を怪我したけど、ピンピンしてるから大丈夫」
とポOKーズと一緒に返答する。愛知坊は安堵の表情を浮かべ、何か言葉を呟いた。
「なら、良かった。一応、魔除けの呪文をかけた。しかし、それでも完璧ではない。早く、おばあちゃんを見つけてしまおう。このあたりにいるはずだから」
そう言い残して愛知坊はどこかに行ってしまった。
周囲を見渡してみるほどに見慣れた景色に驚く。家の縁側に座っている人を見つけさらに驚かされた。それは亡くなったおばあちゃんその人だった。見つけたのはいいがなんと声を掛けたらよいのだろうかと迷っているとおばあちゃんも私に気づいたようで、驚いているようだ。
「あなたがここに来るのはまだ何年も先のことだと思っていました。ようこそというのも変かもしれないけれど、あなたにあえて嬉しいわ。今、お茶を淹れてくから待っていてね」
そう言い残して奥にある台所に入っていた。
「言い忘れていたが、生者のお前は常世国のものを口にしてはいけない。ここの食物は生者を死に惹きつけるだからな」
さっきまでどこかに隠れていた愛知坊が忠告した。分かったという代わりに頷いて同意を示す。縁側に座り、遠くを見つめてみるとここが死後の世界とは思えず、庭に植えられている沈丁花や松の木が自分は七歳の頃に戻ったかのように思わせるほどそっくりだ、いやそのものといっていい。
「おまたせ、あかり。冷たいお茶だよ。遠かったでしょう。何せ、400㎞以上の道のりを来たのですからね」
そんな距離を愛知坊につかまって飛んできていたのか! いったい現世ではどれだけ時間が経ったのだろうか。まさか、朝になっていないだろうか。そうなれば家で寝ているはずの私がいなくなったことを両親が心配するに違いない。心配だけで済めばいい。今後は自由に外泊ができなくなる可能性が高い。
大きく息を吸い込み気持ちを落ち着かせてから口を開く。
「おばあちゃんにどうしても謝りたいことがあってここに来たんだ」
おばあちゃんは目をパチクリさせ、ようやく口から出た言葉が謝りたいって何を、だった。
「十年前の夏、おばあちゃんが大切にしていた梅のかんざしを折って、それをこっそり家まで持って帰った。あの後、おばあちゃんが探しているってお母さんから聞いたとき、ちゃんといえなかった。だから、謝りたいの。あれは、おじいちゃんからもらった大切なものだって知っていたのに。本当にごめんなさい」
「ああ、そのこと。そんなことを気にしていたのね」と懐かしむようにいう。
「あれは大切なものなんでしょう。どうしてそんなことっていえるの?」
「それはね。あなたがあのかんざしを折ったことも持って返ったこともきづいていたからよ」と諭すようにいうので、あっけにとられているとこう続けた。
「あかり、あなたが帰ったあと、小銭を取り出そうと思ってタンスを開けたらなくなっていることに気づいた。多分、あなたが持って帰ったのだろうと思ったわ。それで良かった。いずれ、私が亡くなったとき、すでに亡くなってしまったけれど梅のかんざしはあなたに贈ろうと考えたから気にしなくていいのよ」
おばあちゃんにこういわれてしまっては折角、ここまで来た意味がないわけではないが無駄にした気分になる。でも、自分の思いを伝えられて良かった。
気づいたらベッドのいた。顔に痛み覚えて鏡を見た。
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