彼岸花

モモ

いっそ毒々しいほどの鮮やかな赤に目を奪われ、つい足を止めてしまったらしい。
先に行ってた友人がわざわざ戻って声を掛けてくる。
「おい、春秋どうしたんだよ? お前に花を眺めるだなんてご趣味があったとは思わなかったなあ……」
その言葉には揶揄の響きが含まれていた。確かに友人の言う通り春秋は花を見てという様なタイプでもない。だが、その時は足を止める理由があったのだ。
「……前期のテスト前、俺講義を休んでいたことがあっただろ?」
「ああ。大事な時期に必修講義を休むものだからどうしたのかと。ノート貸してやっただろ」
「お陰で留年の危機は免れた、恩に着るよ。おかげでこうやって旅行に来れた」
「もう夏季休暇も殆ど終わりかけだろ? お前、不義理しやがって……。おかげで大学2年の夏休みは殆どお前抜きだったじゃないか」
そう、友人の言う通りだ。春秋はこの夏休みの殆どをバイトにも旅行にも行かず家で引き籠っていた。元々インドア派だったという訳でもない。昨年の夏は大学で出会ったこの友人と共にリゾートバイトに繰り出して大いに稼ぎ、大いに遊び、大学に戻ってからはアジア系の留学生と間違われるほど夏を謳歌したものだ。
この友人、夏野は「春と秋の間には夏が居るべきだろ!」と初対面から何故か距離を詰められ、そのまま親友と呼ぶべき存在になっていた。気恥ずかしいので面と向かっては言ってやらないしあちらも言ってこないが、お互いにそう思っていることは察している。
夏野は初対面からの出会い方からして分かるように、人との距離の詰め方をよく分かっていない男だ。
二人で居る時は他の人に対しても喧しいほどだが、一人になると途端に静かだと他の学友達にも聞いたことがある。
大学以前の話をしたがらないし、長期休暇の時にも「帰省する金がもったいないし、退屈だから」と地元の悪口を言うばかりで碌に帰りもしない。
恐らく……、夏野は人間関係を上手く築けないタイプなのだろう。受け身気味な春秋とは相性が良いだけで、初対面では相当な勇気を振り絞ったものと付き合いが長くなる内に察せられた。
引き籠りな春秋など放っておいて、他の学友達と夏を謳歌すれば良かったのだ。実際、そういった誘いはいくつもあったが夏野はいつもなんやかんや「俺だけ楽しんでたら春秋がいじけるから」などと理由を付けて断っていたようだった。
この前偶然出会った別の級友からそんなことを聞かされ、「お前達、ほんと仲良しなのな」と笑い交じりに言われたのは記憶に新しい。
夏季休暇の終わる直前の9月中旬、意を決したかのように夏野から誘いがあった。そして春秋もようやく誘いを受け入れ、今二人でここに居るのだ。
「……悪かったよ。四十九日だったんだ」
理解していない顔の夏野に再び繰り返す。
「四十九日、俺のばあちゃんが死んでから49日経ったんだよ」


祖母は花の好きな女性だった。共働きの両親に代わり、小学校に上がるまでの春秋の面倒をよく見てくれて、散歩で見かける花の一つ一つ、名前やその由来などを丁寧に語ってくれたものだった。……オオイヌノフグリに大喜びしたことは幼子故許されたい。
春秋の家の目の前は田んぼであり、畦道や野原に咲く雑草一つ一つでよく遊んだものだ。
少し行くと川辺があり、そこは秋になると丁度今目の前に咲くこの花――曼殊沙華の群生地であった。周りが住宅地など風情が無かったため近隣住民しか来なかったが、実際そこの規模はなかなかのものだった。
割と背の高い花で、まだ幼い春秋がそこに近づくと顔のすぐそばに花が来る。その花というのも、チューリップや桜のような一般的な花の形状ではなく奇怪な見た目をしているものだから、色も相まって幼い春秋は怯えたものだ。おまけに祖母は毒まであるという! 

『あらあら……。怖がらないでハルちゃんたら。曼殊沙華はね、怖いお花じゃないのよ?』
祖母曰く、曼殊沙華は天上に咲く花なのだという。
『仏さまが居る天国に咲くお花なの。だから、少し変わった形をしているのよ』
そう言われれば現金なもので、先程まで怖かったはずの花が全く違うものに見えてくる。それに真っ赤なのも戦隊ものの赤みたいでカッコいい。赤はリーダーの色だ。
『色々なお名前があってね……。ハミズハナミズ。これは他の花と違って花と葉っぱが一緒に咲かないからなの。ね? 特別なお花なの。特別なお花だから、他の花とも形が違うだけよ。怖くないでしょ?』
それでもまだ少し怖気づく春秋に、祖母は優しく続けた。
『それにね、毒があると言ってもその毒は悪い毒じゃないのよ。曼殊沙華はね、こうやって水辺や田んぼの傍に沢山植わってるでしょ? これは昔のお百姓さんがわざわざ植えたものなのよ。ハルちゃんモグラって分かる? そう、おりこうさんねえ! 鼻がとがってて、目が小さくて、土の中に居るモグラよ。
モグラはね、たまーに土を掘りすぎて田んぼの土手に穴を開けてしまうの。そしたら大変! 田んぼに張ってあるお水が流れて、ご飯になる稲が枯れちゃうでしょ? モグラも溺れて死んじゃうの。
そんなことにならないようにね、曼殊沙華は毒でモグラを近づけないようにする役割があるのよ。モグラだけじゃないわ、虫よけにもなるっていうし……。良くないものを遠ざけてくれるの。
それにねえ手間暇かければ、曼殊沙華だって根っこが食べられるんだし……』

それを聞いた途端孫のお腹がぐうぐう鳴り出して、食べたい食べたいとせがむのを祖母はおかしくてたまらないとでも言いたげに笑っていた。
『ハルちゃんたら、食いしん坊さんねえ! 曼殊沙華は悪いものを寄せ付けない役目があるんだから、食べちゃだめよ。もっと美味しいものは沢山あるんだから』
そしてふっと真顔になってこう続けた。
『ハルちゃん、このお花はねえ……、ヒガンバナとも言うの。いつか……、いつかになったらこのお花を見ておばあちゃんを思い出してね。
大きくなったら、きっとハルちゃんにも意味が分かるから。
それとね、とても綺麗なお花だけど近付き過ぎちゃだめよ? なんでって……。近付き過ぎたら欲しくなるでしょ? 折ったりしたら汁が目に飛んで病気になるかもしれないし……それにヒガンバナのある所は水辺が多いからうっかり溺れてしまうこともあるかもしれないし……』
祖母は言葉を選んでいたが、最後は諦めてこう告げた。

『いいことハルちゃん? 兎に角、ヒガンバナより向こうに行ってはダメ。ヒガンバナは目印で、境界なの。悪いものを私達に近寄せないようにしてくれる大事なものなの。ハルちゃん、ヒガンバナの向こうに居る人から誘われても着いていっちゃだめよ』
それに幼い春秋はどう答えたのだったか……。祖母がうなずき返したのは覚えているのだけれど。


いけない、幼い頃の思い出に浸って黙り込んでいた。顔を上げれば、気まずそうな顔をした夏野が所在なさげに佇んでいる。
目が合えば、どういう表情をしたものか迷ったのだろう。その心情そのままに何とも言えない微妙な面持ちになっている。
「わりい……。知らなかったんだ」
「いいや……。俺も、何と言うか……、言えなくて。ばあちゃん、小学校に上がるまでは一緒に暮らしてたんだ。それでうちの父親の仕事の都合で別々に暮らし始めて……、小学生位まではよく遊びに行ってたんだけど、中学生辺りからはなんとなく、あまり会わなくなって。高校生になったら正月くらいしか顔を合わせないし、会っても何を話せばいいか分かんないし……。
そうこうしている内に、ばあちゃん、入院しちまって……」

そう、それっきり寝付いてしまった。お見舞いに行っても祖母は置物のように眠るばかりで、ヒトがモノになってしまったことに春秋は内心怯え……、後は両親に任せたまま知らんぷりをしていた。突如突き付けられた自らというもの――臆病、卑怯、無力――そういったものに向き合うことが出来なかったのだ。
そうこうしている内に祖母は逝ってしまった。文字通り眠るようにして……。

「なんだろうな……。俺は薄情な孫だったんだ。ばあちゃんが死ぬってことは分かってたけど、そこから目を逸らして何でもないふりなんかをして……。いざ事が起こる時までそうやってればやり過ごせると思ってたんだ。ばあちゃんが居なくなった途端、あれやこれや思い出して他のことが出来なくなった。悪かったな、夏野」
春秋の言葉に夏野はぎくしゃくと首を振った。そんな夏野を安心させるように春秋は笑いかけた。
「わかってるよ、もう踏ん切りつけなきゃな。四十九日も終わったんだ」
その言葉に今度こそ夏野は、何度も頷く。
そのまま「行こうぜ!」と足を進めるものだから、春秋も続こうとしたがそこで再び足を止める。
「夏野、お前どこからそっちに行ったんだ?」
曼殊沙華の花は切れ間なく咲き誇っており、二人の間を隔てている。左右を見回してもそれらしき道も無い。
「どこってそこら辺を適当に……」
「跨ぎ越えられるような足の長さしてないだろ、お前も俺も」
もしかして夏野は踏み越えていったのかもしれないと注意深く見るも、特に茎や花の折れた個所もない。
「春秋、いいからさっさとこっちに来いよ!」
「いや、待てって。こういうのは踏んじまうと来年以降花が咲かなくなることがあるんだ」
これだけ見事に咲き誇っているものを自分が台無しにするなんてことは避けたい。ましてや、これは祖母との思い出の一つだ。
「春秋、時間が無いんだってば!」
「花を踏みたくないだけだ、ちょっと左右に回り込んでみる……」

春秋はそのまま曼殊沙華の群れに沿って左右を歩いてみるも、どこまでも花は続いていて踏み越えられそうにない。
夏野は花を挟んで追ってきて早く来いだのと騒ぎ立てるが、渡る為の道も無いのに一体どうしろと言うのか。
「春秋、さっさと踏み折っちまえよ!」
とうとう春秋は観念してこう言った。
「なあ、夏野……。これはばあちゃんとの思い出の花なんだ。四十九日も終わったばかりで踏み荒らすのも忍びない。だから……、お前が一度こちらに来て道を作ってくれよ、そしたら俺もそっちに行けるから」
そう言った途端、先程まであれほど喧しく騒いでいた夏野が顔色をなくして黙り込んだ。
「……夏野?」
「……出来ない」
だろうな、と春秋は頷いた。先程から聞こえる川のせせらぎに耳を澄ませる。
「……この川は、俺とお前どちらの側に流れているんだろうな」
そうだ、大学生の男二人がわざわざ曼殊沙華を見に鄙びた田舎などに来るはずもない。
こんなに切れ間なく、永遠に続く花畑があるはずもないのだ。
「夏野、悪いが此処でお別れだ。お前と俺はこの花畑を離れてお互い逆の方に進まなきゃいけない。分かるな?」
夏野はただ涙を流していやだいやだと呟いている。それに構わず春秋は語り続ける。
「ここからじゃ分からないが……。多分、この水音は所謂三途の川のものだと思う。臨死体験って本当に花畑と川なんだな……。テンプレって感じだ。人間の深層意識とかユングとかフロイトだっけ? ああ……、まあ、どうでもいっかあ……」
そう今となってはどうでもいいことだ。すすり泣く夏野もどうせ、気にするまい。
さて、死因は何だったのか。二人同時ということであれば何かの交通事故かもしれない。お互い免許は持っていなかったので、恐らく公共機関の利用だ。高速バス事故が最近ニュースになっていたからその可能性もある。少なくとも互いのせいではない、そう思えばこんな状況なのにほっとした。まあ、片方が死亡するほどの事故だ。生き残った方もリハビリが大変だろう。
「夏野、俺はこの花畑を踏み越える気になれないし、お前は踏み越えられない。多分、俺達は分かたれてしまったんだ。それは悲しいことだけれど……どちらが生きるにせよ、死ぬにせよ、兎に角俺達は自分に相応しい所に行かなきゃいけない。分かるだろ?」
夏野は先程から嫌だ、寂しい、行かないでとそれしか言わない。それでも、二人このままずっと此の岸に留まっている訳にもいくまい。
「俺はもう行くよ。この花……、彼岸花が咲いたらお前を思い出す。お前も俺を思い出してくれ」
それだけ告げて、花畑に背を向ける。行かないでくれ! ! と背後からの絶叫は耳に入ったが、足は止まらなかった。
曼殊沙華は悪いものを近づけない役割がある。ならば、春秋が『悪いもの』になってしまっていたとしても、あの花が夏野を自分から守ってくれるはずだ。勿論その逆も。
春秋は振り返らずに歩き続ける。周囲は霧が立ち込め足元も定かではない。夏野の声ももう聞こえない。だが、恐ろしくはない。
これから先がどこへ続こうが、いずれまた懐かしい人にあの真っ赤な花と共に出会えると分かったのだから。

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