福原大輝
身体を起こすのが億劫なこともあるし、ずっと寝ていたい。わたし、もうそこそこの歳なのかも。熟女ってテレビで言ってた気がする。
わたしがけだるげに身体を起こすと、ママが顔をのぞき込んできた。眉根を寄せて心配そう。
今日はわたし、散髪に行った。そのとき、美容師さんがいつもと違ってて、耳の下の毛を切りすぎちゃったみたい。
ママはそれを気にしているのだ。わたしが昼寝から目覚めた今でも。わたしは心配そうなママの顔をしっかりと見返した。
――この方がすずしくていいわよ。だから、そんな悲しい顔しないで。
毛が長いとかゆいから、と言ってわたしは首を振って見せた。
――ママ、心配しなくて大丈夫だよ。
でも、わたしの方もそんなママを心配していたから、それが表情に出てしまったのだろう。
ママはなおいっそう悲しそうな顔で、わたしの頭をなでてきた。
すぐに伸びるわよ、とわたしはぼそぼそと言った。
夕方になって、玄関で物音がした。
その直後、「ただいま‼」とリビングまで声が響いてくる。
うるさい子が帰ってきた、とわたしはうんざりする。
あみちゃん、今日はなんだかうれしそう。ランドセルを放って小躍りしている。学校でいいことでもあったのかしら。
そのとき、ママがわたしを向いて言った。
「今日、お兄ちゃんが久しぶりに帰ってくるんだよ」
――あ、そうだった。忘れてた。
それでうれしそうにしているのか。大声を上げて走りまわっている。
そのままの勢いで、あみちゃんはわたしを抱き上げた。そして、腕を握ってわたしを振り回し踊り始めた。強制的に伸ばされた身体は安定を失って、わたしはすぐに車に酔ってしまったように、頭がくらくらする。わたしは耐えることに必死で、声を上げることができない。
やっとあみちゃんはわたしを離してくれた。身体が解放されてわたしは安住の地を求めてふらふらと歩き回った。クッションにたどり着き、ため息をつく。本当にあの子は面倒ったらありゃしない。
お兄ちゃんが帰ってくるだけで、なんでこんなにうれしそうなのかしら。
そのとき、玄関が再び音を立てた。
「あ!」とあみちゃんは声を上げた。床を鳴らし、玄関へ走っていく。
その下をくぐって、わたしはあみちゃんを追い越した。それから、玄関で靴を脱いだお兄ちゃんに無我夢中で飛びつく。
――お兄ちゃん、お帰りなさい。お待ちしてました。
わたしは全身を投げ出す。お兄ちゃんはわたしをきちんと受け止めて、転ばないようにしてくれる。
「うれしい? ねえ」
そう言いながらお兄ちゃんはわたしを撫でまわした。
なんでこんなうれしいのかしら。
ご満悦なわたしは、嫉妬心を募らせたあみちゃんの視線に気が付かなかった。あとで仕返しをされることは、この時のわたしはわからない。
パパが帰ってきて、一家の食事が始まった。
芳醇なにおいはいつものごはんからは、絶対に感じられないものだ。わたしは鼻を膨らませて、食卓に近づいた。
パパはお酒を飲んで気分が高揚していて、大声で話をしている。ママは次々と食事を出している。
わたしはパパの椅子に手を伸ばして、食べ物のにおいを近くで感じようとする。パパはそれに気づいてこちらを向いた。
「ほしい?」とパパが訊いてくる。
――ほしいです。
「はいはい」
パパはわたしの口元に食べ物をさしのべる。わたしはパパの手をかまないように、それを口に入れた。非常に美味である。パパを見てわたしは感謝する。
――ありがとうございます。
わたしの感動はすさまじいものだった。しかし、美味なひと時も束の間、台所仕事を終えたママがパパをにらみつけている。
「あげたらだめっていつも言っているじゃん!」
「ごめん、欲しがってたから」
とパパは謝るけど、ママは怒ったままだ。
ママが怒るのは嫌なので、わたしはママに身を寄せて、精一杯のごめんなさいをする。
――ごめんなさい。わたしが欲しがるから悪いんです。
――でもほしいんです。いつものでは飽きてしまうんです。
わたしが必死に謝ったら、ママも笑顔になった。
――ちがう。そこじゃない。
わたしはお兄ちゃんに伝えようと、身体の位置を変えるがうまくいかない。お兄ちゃんの撫で方は要点を得ない。
――そんなんだからあなただめなのよ!
でもしばらくすると、
――そう、そこ、そう。
わたしは何も考えられないほど、気持ちよくなってきた。
――やればできるじゃない。
――あなたも……。むにゃむにゃ…………。
「あ、寝ちゃったよ」
呼びかけに家族が集まった。
幸せそうな熟女犬の寝顔を家族が見つめていた。
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