マサユキ・マサオ
微分のグラフは猫が疾走した跡である。
積分によって出された面積が、猫の存在を証明している。
それを教えてくれたのは、高校時代お世話になった数学の先生だ。
当時僕は、理数系科目、特に数学で大変な思いをしていた。
そのくせ頑なに自分は理系だと押し通して、理系クラスを選択してしまった。
亡くなった父親が数学教師をしていたせいで、数学が得意だと勘違いしていたのだ。
文理クラスが分かれてから、理数科目は意味不明な記号の羅列にしか見えなくなった。おかげで僕は、毎度のように数学で赤点をとることになった。
猫田先生は、毎回追試の担当をしている数学の先生だった。
猫田というのは本当の名前ではない。
いつも授業の最初に黒板にチョークで猫の絵を描いた。
何なんですかそれ、と誰かが聞いた。
先生はふざけた様子でもなく「猫だよ」と答えるだけだった。
次第に、猫について聞く生徒は居なくなった。
猫田先生は、猫を描くことを覗けば、眼鏡をかけたありふれた中年男にしか見えなかった。
誰も何も聞かない。先生自身も語らない。
それでも、毎授業五分前に教室にやってきて、先生は黒板に猫を描く。
ある日、僕は猫田先生に呼び出された。
高校二年生の十二月初め、期末試験を一週間後に控えた金曜の放課後のことだった。
一学期の中間、期末、二学期の中間試験。僕は三回連続で数学の赤点をとっていた。
ニ十点、二十五点、三十点、もはやお馴染みになってしまった点数群。逆に、正解した問題すらどうやって解いたのか分からない。
僕にとって高校数学とは暗闇でジグソーパズルを解くような作業だった。
クラスメートは、悩みながらもパチパチとパーツを埋めてゆく。僕が四隅のパーツを見つけ出す間に、ほとんどの人は既に半分以上作業を進めている。
追試にやってくるメンツは、毎回ほぼ固定だった。
しかし、二年生になってから見慣れた女子生徒が一人やって来なくなった。
後日、その女子生徒は学校を辞めたことを知った。
辞めた理由までは分からなかった。
先生に呼び出された時、脳裏に浮かんだのがその女子生徒のことだった。
ついに留年の危機か。
留年になったとして、僕は学校に通い続けるだろうか。
留年は嫌だな、と頭では思う。
でも必死になって、人一倍頑張ってまで三年生になりたいのか。自分でも分からない。
そんな薄ぼんやりした不安を胸に、僕は職員室の戸を叩いた。
僕が入室すると、猫田先生が無言で立ち上がり手招きをした。
職員室の中は石油ストーブで、むっとするような熱気が立ち込めていた。
手招きされた先の仕切り格子には「火の用心」のポスターが貼ってあり、僕と同い年のアイドルが微笑みを浮かべていた。
急に恥ずかしくなり、職員室をぐるりと見渡した。
知っている先生も知らない先生も、僕たちに気付かないふりをしているのか、手元の採点用紙やキーボードに集中していた。
格子の反対側にソファがあり、そこに座るよう言われた。人目を避けられて少しほっとしたが、逆に何を言われるのだろうかという不安も高まる。
猫田先生は対面のソファに座り、僕に幾つか数学の公式を質問をして、紙に書かせた。
覚えていたはずの公式は、半分も思い出せなかった。
すると先生は、僕の答案用紙を裏返し何かボールペンで描き始めた。
先生が描いたのは、いつも授業前に描いている猫だった。
「あの、その猫って、何なんでしょうか」
「あらゆる数学の問題は、猫が解決してくれる」
数学猫、先生はそう言った。いつだって数学猫は数式の中に居る。気付かないだけで。
僕は紙面上の猫に、シャープペンシルの先でそっと触れようとした。
その瞬間、単なる落書きだった猫がジャンプするように逃げたのだ。
えっ、と声が出る。思わず先生の顔を見る。
「君はどうも数学猫に嫌われているようだ」
再びノートに視線を戻すと、猫は最初見た時のポーズでこちらを見て座っていた。
先生が猫の鼻先に魚の絵を描いた。すると猫の前脚がひょろりと動き、ぱっと魚に飛びついた。
「これから数学の問題を解く前に、猫の絵を描きなさい」
先生はそれから、手作りの例題集を僕に渡した。恐らくそれは期末試験の類似問題だった。僕は少しだけズルをしたような気分になったが、スクールバッグの奥に素早くそれをしまい込んだ。
先生は面談で猫のことしか口にしなかった。
しかし、例題集には期末試験で重要な要点が、出来るだけ少ない文量で解説されていた。
冊子の最後には一言「猫と仲良く」と書いてあった。
僕はその日帰宅してからノートに猫の絵を描いてみた。
先生の前でやってみたように、シャープペンの先を近づけてみる。
猫は動かなかった。さっき目の前で起きたことは幻だったんじゃないか。そんな気がしてくる。
それは別として、先生のくれた例題集は非常に役に立ち、二学期の期末試験では赤点を回避することが出来た。
他にも僕の中で変わったことがある。毎週金曜日の放課後、猫田先生に質問をしにいくようになったこと。
以前は、数学についてすべてがチンプンカンプンで何を聞けば良いのかすら分からなかった。
猫田先生は、授業とは別に追試常連の僕の為に、簡単な問題集を作ってくれていた。
今思えば、僕の為だけじゃないのだろうけれど、僕にとっては非常にありがたいことだった。
それともう一つ、猫田先生の授業で、黒板に描かれた猫がグラフ上を走り回るようになったのだ。
あの日見た数学猫は、夢幻ではなかった。
しかし、それに気付いているのは先生と僕以外誰も居ない。
そして、数学猫の滑らかな疾走は、そこに示されるすべての事象を直感的に教えてくれた。
一旦分かってしまうと、何故今まで分からなかったのだろうと思う。自転車に乗れなかった子供が感覚を掴んだような、そんな気分だった。
三学期になると、僕はその感覚が馴染んできたように感じた。
そんなある日、僕は先生から教えられた通り、猫を描き、複雑な微分グラフに向き合った。
すると僕の軌跡とじゃれ合うように、猫が伸びをしたのだ。
僕は息を呑み、この機を逃すまいと書き込みを続けた。
猫は僕のペン先とシンクロし、試験問題の上を疾走した。
解き終えた時、僕は額の奥がじんじんするのを感じた。
猫がニャオーン、と物欲しそうに甘えた声で鳴いた。僕が魚の絵を描くと、素早く飛びついた。そして一つあくびをすると、元の静止した落書きに戻っていた。
僕は三学期後半には、数学だけは平均点以上とれる実力になっていた。
高校三年生になっても、猫田先生の元に聞きに行っていれば大丈夫だろうと僕は安心していた。
猫田先生が教師を辞めると聞いたのは、そんな矢先のことだった。
それは三学期の最後の数学の授業のことだった。
その日、先生はいつも通り授業の五分前にやってきた。しかし、いつもの猫を描かず、クラス全体をぐるりと見渡した。
皆、気怠そうな目で猫田先生に視線を集めた。
猫田先生は咳ばらいを一つして、今年度で教師を辞めて家業を継ぐことを淡々と伝えた。
父親が寺の住職をしていて、その跡を継がなければいけなくなったのだ、と。
僕にとっては全くの初耳で、思わず目を見開いて先生を表情を見た。
他の生徒は気の抜けた反応で、大きくざわめくこともなく、そのまま授業が開始した。
先生は結局、一度もチョークで猫を描くことが無かった。
「猫が家出をしてしまいましたので、今日で数学教師を辞めます」
先生は退任式で一言、それだけ言って壇上を降りた。
失笑するような声がそこらから聞こえた。
僕は一人、唇を嚙みしめて、その後姿を見つめた。
「数学猫が居なくても、教師を続けることは出来るんじゃないですか?」
退任式の後、僕は去っていく猫田先生を呼び止めて尋ねた。
先生は俯いて、少しはにかむように微笑んだ。
それでも、私には必要だから。先生は口ごもるように言った。
数学の問題を正しく解くことと、数学の世界には隔たりがあるのかもしれない。数学の世界を知らない僕には分からないことだった。
冬休み以降、自分の思う様に数学猫が動かなくなってしまったこと、まったく猫が動いてくれない日があることを、ぽつりぽつりと僕に語った。
僕に数学猫のことを教えたせいかもしれない。根拠の無い罪悪感がこみ上げてきたが、恐ろしくて口に出来なかった。
「何故、僕に猫の話をしたんですか」
ずっと聞きたかったことだった。先生は口数が少なく、数学以外のことで自分から何かを語ることはなかった。
「数学猫を見つけたのは、君のお父さんだったんだよ」
大学で僕の父と共に、数学科に所属していたこと。数学で苦労している僕をずっと気にかけてくれていたこと。生徒個人を特別扱いしたくなかったこと。そんなことを、最後の最後になってやっと教えてくれた。
どうやって父が数学猫を見つけたのか。父はどのように猫田先生に数学猫の存在をを示したのか。数学猫とは結局何なのか。
気になることが山ほどあった。聞くべきことは沢山あるのに、僕は何も聞けなかった。
「今まで、ありがとうございました」
「君も、今まで通り猫と仲良くしなさい」
それが猫田先生の最後の言葉だった。
高校卒業以来、僕は猫田先生と会っていない。
十年以上経った今、数学の問題を解く機会は無くなった。
戯れにノートに猫の絵を描いても、それがシャープペンシルの先を走り回ることはない。
微積分、ベクトル、指数関数のグラフを書いてみても、数学猫は現れない。
大学受験まで、くるくると戯れていた猫はまるで心を閉ざしてしまったようだった。
数学猫は猫田先生の元に戻ったのだろうか。
猫田先生は、数学者にも数学教師にもならなかった僕に、数学猫の秘密を教えるべきだったのだろうか。
それを思うと、未だにやりきれない気持ちがこみ上げてくる。
同時に、あの現象がやはり夢幻だったようにも思えてくる。
しかし、数学猫の存在を忘れていたある日のこと、書店の科学雑誌をめくっていてこんなことが書いてあるのを見つけたのだ。
「猫が数式を駆け巡って、僕を解決に導いてくれるんだ」
とある海外の若い数学者の言葉だった。今までにない新しい素数分野を開拓したホープ、雑誌にはそう書いてあった。
そうか、やっぱり数学猫は存在したのだ。
いつだってどこだって、気付かないだけで猫は数式と戯れていたのだ。
そして、自分を発見してくれる目を持った誰かを待ち続けている。
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