マサユキ・マサオ
「文子、さっさと荷物運びなさいよ」
「分かった、分かった。あぁっ! 机の中は私が出すからいいってば!」
葛城文子は母親の手伝いを借りて、引越しの用意を進めていた。念願叶って志望する教育系の大学に合格し、今春からは故郷を離れて下宿生活だ。入居予定の寮には高校の先輩も住んでいる。「絶対合格してね」という先輩の言葉を思い出し、文子は微笑む。
文子には手に取るもの全てが懐かしく感じられた。陸上部時代の賞状、後輩からの寄せ書き、使い古された教科書、どれも大切な思い出。中学の卒業アルバムを開くと、まだあどけない自分、そしてクラスメートの顔があった。みんな元気にしているだろうか。ふと竜之介の写真に目をやる。当時、大人びて見えた彼の顔もまだ幼く頼りなさ気に見える。全てが遠い過去に思え、しかし昨日の出来事のようにも思い出すことが出来た。
「ほら、また手が止まってるっ」
痺れを切らした母親が、せっかちに手を出してきた。クローゼットの上に積まれた荷物を、いっぺんに下ろそうとしている。その瞬間、母の体がのけぞった。勢い余った缶箱は、腕をすり抜け床に落下し、盛大に中身をぶちまけた。
「あーもう、だから自分でやるって言ったじゃん」
「そんなこと言ったってね、文子がぼけっとしてるのが悪いんだからね」
悪びれずに母は言った。二人で何か作業をすると必ず言い争いになる。あと一週間もしないうちに離れ離れになってしまうというのに、お互い意地を張ってしまう。親子揃って似た性格だな、と文子は思う。
「はいはい、文子が悪うございました。後は大丈夫だから任せてよ」
ポンポンと母の肩を叩き、追い出すようにして文子は一人になった。とりあえず一人になりたかった。そうして散らばった缶箱の中身を片付け始めた。そこには人に見せるもはばかられる恥ずかしいメモ書きや、自己表現だと言って書きなぐったイラストやらが入っている。
「あっ」
文子は手を止めた。
それがどうゆう経緯の物だったか思い出すまで数秒かかった。それは文子の持ち物では無かった。ガラクタに埋もれたそれを手に取り文子はぼんやりと見つめる。
「なぁに、ウダウダ悩んでんねん!」
「えっ?」
脳裏に彼の声が響いた。そうだ、これは彼の物だった。
文子は吸い寄せられるように記憶の糸を手繰り始めた。窓から初春の午後の日差しが差し込んでいる。一つ屋根向こうの道沿いを、中学生らしい女の子が二人並んで歩いていた。文子は、数年前の自分の姿を彼女らに重ねた。
四年前の新学期も確か、こんな春霞のかかった日和だった。桜の蕾が膨らみ始めた校門前を文子は歩いていた。
「三年生も同じクラスになれるといいね、って話聞いてる文子?」
「えっ? 聞いてるよっ! えぇっと、なんだっけ由美?」
「ほらぁ、聞いてなかったでしょ!クラスっ、一緒にっ、なれたらっ、いいねって!」
「そ、そんな大きな声で言わなくても分かるよ!」
江藤由美は文子の幼馴染で幼稚園時代からの仲だ。よっぽど縁があるのか、小学校では五回、中学一年、二年と同じクラスになっている。
「まったく、おとぼけさんなんだから。あたしがいなくても寂しがって泣いたりしないでよね」
「そんな、しないよぉ」
文子は大概こうやって由美にいじられていた。それが嫌というわけではなかったけれど、ごまかすように話題を変えた。
「ところで新藤先輩とはどうなってるの?」
「春樹? 相変わらずって感じかな。軽いイメージするけど案外根はマジメなんだよ。ギャップって奴に弱いんだよね、あたし。ははは」
由美はさらりと答える。文子はそんな由美を頼もしく感じていた。一人っ子の文子にとって由美は同学年でありつつ姉のような存在だった。何もかもが由美の方が大人びていて、羨ましいと思うことはあっても妬ましいと思うことは無かった。
「ところで文子はどうなの?」
「何が、どうって?」
不意の質問に戸惑う。
「何がってさぁ、誰かいないの?」
「えぇ?」
苦笑いするように由美が溜め息を吐いた。
「好きな人っ、居ないの?」
「あ、えっ?」
文子の視界に丁度その姿が飛び込んできた。
「……くん」
「えっ? 聞こえないっ」
「何でもないっ!」
そう言って文子は校門に駆け出した。
「ちょ、ちょっと! 待ってよぉ!」
慌てて由美が後を追う。
文子は彼にちらっと視線を送る。彼はいつも通りに沢山の友達に囲まれて笑っていた。文子は目を瞑ってその横を駆け抜けていった。
「ちょっと! 急に何?」
「うん、走ってみたくて」
「ふぅん」
文子はぎこちなく笑ってみせた。振り返ると彼の姿は無く、見失ってしまった。
「鮫島のこと見てた?」
由美が唐突に聞く。
鮫島竜之介。野球部のキャプテンで女子の人気も高い。
「えっ、いや、そんなんじゃないってば!」
「ふーん、そっか」
こうゆう時に突っ込まずにいてくれるのはありがたい。しかし、文子は由美の観察眼に心底恐れ入っていた。いつからだろう。文子は、竜之介の姿を無意識のうちに目で追うようになったのは。
中学三年の新学期は、ぼんやりと春霞のかかった不思議な天気だった。皆が少し浮き足立っている。女子グループが円陣を組んでわぁわぁ騒いでいる。いかつい男子がゲラゲラ笑っている。文子は胸の高鳴りを抑えてクラス表に目を通した。
(葛城、葛城、っと。あった!)
自分の名前を見つけた瞬間、更に心臓が高ぶる。
「おっしゃ! 竜之介、同じクラスだな!」
竜之介が白い歯をこぼし、友人とじゃれあっていた。男子グループの中で照れ笑いする彼の姿を遠目に見て、思わず心臓が高鳴る。
「文子! 同じクラスだねっ!」
「えっ? あっ、うんっ!」
文子は由美の喜声にうわの空で返事をした。不意に文子は竜之介と目が合った気がした。その時の文子には、薄ら明るい春霞が天使達のカーテンレールのように見えていた。
「合格おめでとう!」
ぼんやりとしていた文子の携帯が鳴った。由美の声を聞いて、文子も笑みがこぼれる。由美が自分のことの様に喜んでいる姿が受話器越しに見えるた気がした。
「ありがとっ、誰から聞いたの?」
「文子のことは何でもお見通しよ」
母だな、と文子は思った。文子の母親と由美の母親の間でおおよその情報は筒抜けである。
「由美はまだ仕事始まってないの?」
「うん、今日はまだ休み」
「そっか、久しぶりに会えない?」
「今日はごめんね、彼氏とデートなんだ」
由美と新藤がどうなったかは聞いていない。ただ、由美はいつ頃からかデートの相手をハルキとは言わずに彼氏と言うようになった。文子は自分の知らない、その彼氏が由美と一緒に歩いている姿を想像した。
「ありがとうね由美。今ね、久しぶりに昔のこと思い出してたの」
「昔? 幼稚園の頃とか?」
「そんな昔じゃなくて、中学の頃とか。特に中学三年生の頃のこと」
「なるほど。鮫島のこと考えてたんでしょ。文子、鮫島のことばっか見てたよね。文子ってば、分かりやす過ぎ」
竜之介の名が出て文子はふっと息を吐いた。以前の様に動揺することは無くなったが、やはり反応してしまう自分がいた。
「それもあるけどね。由美、佐久間って覚えてる?」
「佐久間?」
由美の脳裏に彼がぱっと思いつかなかったのか、少し考えている様子だった。
「佐久間って、佐久間茂のこと?」
「そうそう、下の名前は私も覚えてないけどね」
「文子聞いてないの?」
「えっと、何が?」
「佐久間、死んだよ」
「えっ?」
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