祝福

ほろほろほろろ

 籠に囚われた虫が辿る道は二つ。自由と思考を奪われ、ただ餌を貪ることしかできない生き物として死ぬまで飼い殺されるか。或いは利用されるだけ利用され、その身から価値を絞り尽くされた後に無残に捨てられるか。人間は虫に対して情なんてものを持ち合わせることはなく、ただの消耗品として扱うだけなのです。
 一つの虫が潰れても代わりはいくらでも用意されます。次から次へと新しい虫が補充されて、人の勝手でその一生が際限なく消費されていく。言葉を持たない虫たちは人間の行いに意見をしません。もしかすると彼らは、これから訪れる残酷な未来について理解すらしていないのかもしれません。ですが彼女は虫じゃない。自我を持ち、言葉を持ち、心を持った人間なのです。故に彼女は、自分に降りかかる呪いを、悲惨な己の顛末を理解していたはずなのです。
 そんな彼女は自分の人生に何を思うのでしょう。あの方のために、私は一体何ができるのでしょうか。

 ***

 お屋敷の立つ丘から麓まで降りますと、街の賑やかな喧騒が聞こえてきます。飛び交う笑い声や活気のある市場の雰囲気、そして新雪を踏みしめて遊ぶ子供たち。雪化粧をした真冬の景色は、温かな空気に包まれていました。その光景を眺めていると、私もつられて胸の奥が温まるような気がします。道端で立ち止まり大きく息をはけば、白く濁った空気が静かな風に掻き消えました。
 荷台を引いた犬を従え、再び歩き出します。目的地は街の中心部に立ち並ぶ商店街、その一画に建つ大きな生地屋さんです。本日は買い物のために街まで赴いたのではありません。今日は月に一度の取引の日、つまりは商売です。
 冬の只中でも人の行き交いは活発です。明け方までは積もっていたであろう路上の雪は、道行く人々に踏まれてすっかり溶けています。そのお陰で歩きやすくはありますが、犬と荷台を連れた私にとって、人混みに足を踏み入れるのは億劫なものです。しかし街の人々は優しい方ばかり。すれ違えば私たちに笑顔を向け、顔見知りの方は挨拶をくれました。
「あら、お屋敷のメイドちゃん。今月も遠くからご苦労さまねぇ。すっかり冷えたでしょう。あったかいココアでも飲んでいくかい?」
「おばさん、おはようございます。すみません、これから少し用事があるので。お気持ちだけいただきます」
「あらら、そうだったわねぇ。まだ若いのによく働いて偉いよまったく。うちの息子も見習ってほしいくらいだよ。あぁ、引き留めて悪かったね」
 そんな他愛無い会話を数回挟む頃には、目的の生地屋さんに到着していました。
 荷台を外に停め、番は犬に任せて私は店内へ。ドアベルの音と共に中へ入ると、店主のおじさんが待ってましたというように立ち上がりました。
「お! いらっしゃい、お嬢ちゃん。今月分かい?」
「はい、今から運び入れても大丈夫ですか?」
「勿論だ。いつもんとこへ運んでくれ」
 私は荷台へ戻り、布で包まれた荷物を店内へ運んでいきます。量が多く、一人で行うには中々の重労働です。十分ほどかけてようやく全てを運び終えることができました。
「ご苦労さん。それじゃ、中身を確認させてもらうよ」
 お願いします、と頭を下げると、おじさんは包みを一つ机に乗せ、結び目を解きました。
 目の前に現れたのは、清く透き通るような白銀の生地でした。おじさんが持ち上げて広げてみせると、動きに合わせて端が靡き、眩い光を散らします。まるで月光を織り込んで作られたような幻想的な輝きに、おじさんは溜め息を漏らしました。
「美しい……」
 おじさんは生地を裏返してみたり、天井の明かりに透かしてみたり。そしてもう一度大きく息をついて私に向き直りました。
「何度見ても信じられんほどの美しさ、神々しさのあまり鳥肌が立つくらいだ。東の国から輸入されるシルクが生地の最高峰だと言われるが、この街に関しちゃそれは違う。お屋敷で作るこの生地が文句なしで一番よ。繊細で優美、滑らかな肌触り、まるで祝福そのものさ。女神様の纏うといわれる羽衣は、きっとこの生地から作られてるんだろうよ」
 祝福、おじさんはあの生地をそう表しました。何も知らない人の目にはそう映るのでしょう。私も、このような立場でなければ同じことを思ったはずです。街中で目に入れば思わずを足を止め、その魅力を延々と愛でたい気持ちになると思います。
「よしっ! お代はこれで問題ないかい?」
 検品が終わったところで、おじさんから金貨の詰まった袋をいただきました。枚数を数えてみると、先月より一割ほど多く入っています。おじさんの顔を見上げると、
「ここ最近は景気が良くてな。お屋敷はお得意様だし、来月からも頼むよってことで」
 来月からも、これからもずっと。
「はい、ありがとうございます」
 顔を伏せて袋の口を握りしめたまま、もどかしい気持ちが胸の中で渦巻いていました。
 取引はこれでお終いです。お屋敷へ帰ろうとドアノブを握ったところで、ふとおじさんが口を開きました。
「それにしても不思議なもんだよなぁ、この生地は。一体何から作られてんのかねぇ」
 ノブに手をかけたまま腕が固まり、肩越しに後ろを振り向きます。おじさんはにかっと歯を見せて笑っていました。
「なぁに、単に思ったことを口にしただけさ。本当に知りたいなんて思っちゃいないよ。他のやつらがこれを作れるようになっちまったら、折角のうちの看板商品があっという間に値崩れさ。これからも末永く、この祝福にあずかろうじゃない」
 一瞬、心が揺らぎました。ここで全てを吐き出したなら、もしかすると何か変わるのではないか、と。ですが結局、その決断に踏み切ることはできませんでした。
「えぇ、今後ともよろしくお願いしますね」
 最後は軽薄な笑顔を残し、店を後にしたのです。

 取引を終え、お屋敷へ戻る帰り道。街から離れるにつれて次第に賑わいが遠ざかります。お屋敷は林を抜けた先の小高い丘の上に建っています。そこまでの道は深い雪に覆われ、一歩一歩が重く感じます。長い道のりの中、頭の中に反響するのは生地屋さんのおじさんの言葉。
「祝福……」
 違いますよ。あれは皆さんが思うような高潔なものなどではありません。
 あれは深い深い人の罪。凝縮された醜い呪いの結晶なのです。

 ***

 私がお屋敷に連れてこられたのは、まだ物心ついて間もない頃だったと思います。どこで産まれ、両親が誰なのかは一切覚えていません。ただ事実として、私に愛情を注いでくれる両親はおらず、身を寄せられる場所はこのお屋敷のみでした。そんな私が旦那様から仰せつかったお仕事は、使用人としてお嬢様のお世話をすることでした。
 当時の私は無論礼儀や作法を知りません。そんな状態ではとても使用人として使えたものではありませんので、一人前の使用人となるため、厳しい指導の日々が続きました。所作や言葉使いから始まり、お屋敷内での決まり事、給仕の方法、使用人としての考え方や心構え、その他諸々を未熟な頭に叩き込んだのです。
 中でも旦那様が特に力を入れて教育してくださったのは、機織りの技術でした。これは我が家の生業であり、この技術を習得できなければお嬢様の使用人として使っていただけないとのこと。お屋敷から放り出されてしまえば最後、私に行く当てはありません。当時の私にとってこのお屋敷は、いいえ、いつか仕えるであろうお嬢様こそが、私にとって頼りの全てだったのです。そのために必死になって技術を学び、自分の物とし、遂に旦那様に認めていただけたのです。
 そうしてようやく、私はお嬢様の使用人となることができました。
『初めまして! あなたが私のメイドさんね? 末永く仲良くしてちょうだい』
 当時の眩しく溌剌とした笑顔を良く覚えています。まだお互い十歳の頃。世の中のことを何も知らず、ただの無力で純粋な子供だった日のことでした。

 お屋敷へ戻る道すがら懐かしい思い出に浸っていたからでしょうか、お屋敷へ帰り着く頃には昼の十二時を過ぎていました。私は急いで昼食の用意をし、お嬢様の待つお部屋へ向かいます。お部屋はお屋敷の最奥に位置しているのですが、お屋敷は奥へ進むほど闇は密度を増し、空気はどんどん重く息苦しくなります。奥へ進む者を拒むようなこの雰囲気が、私は甚く嫌いでした。
 やがて私は一つの部屋へたどり着きます。この屋敷の中で最も位の高いものの一つ。豪華に飾り付けられたドアは重く、私は息を止め、体重を乗せるようにドアを押し開けました。
 日光の届かない屋敷の最奥。漆黒で塗り潰された部屋の中で、仄かな光が揺らぎます。蝋燭の灯などではありません。それは一人の人間の髪から溢れているのです。
 彼女はソファに腰掛け、力なく背凭れに体を預けています。体の何倍にも長く伸びた銀の髪を無造作に垂らし、絨毯に触れることすら気にかけません。蛇のように床を這うその髪は、祝福と称されたあの生地と同じ光を惜しげもなく振りまいていました。
 私の存在に気付かれたのか、光の持ち主はゆっくり首を回して瞳をこちらへ向けました。
「お待たせしてすみません、お嬢様。昼食をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
 深く一礼すると、お嬢様は頼りない微笑みを零しました。
 彼女のお傍へ歩み寄ると、照らし出されたお顔が良く見えてきます。白くこけた頬と落ち窪んだ目元。虚ろな瞳からは生気が感じられず、言葉を紡ぐ唇は荒れ、青ざめています。以前の溌剌とした少女の面影は微塵も感じられません。今のお嬢様を見ていると、心臓を強く握られるように苦しくなるのです。
 胸の痛みにじっと耐えながら、お食事を彼女の口許まで運びます。食事と言いましても豪華なものではなく、味の薄く消化しやすいスープのようなものです。それをスプーンで掬い、お嬢様の唇へと差し出しますが、彼女は口を開くのを躊躇いました。どうされたのか尋ねますと、彼女は弱気な目をして顔を逸らしました。
「ごめんなさい、少し体調が優れなくて、食欲もないの」
 私の視線がふいに下がり、彼女の首元へ向かいました。白い肌には青い血管が透けて見え、薄い皮越しに鎖骨が浮いています。健康とは程遠い状態の彼女に対し、食事を下げることなどできるはずもありません。
「で、ですがお嬢様、お食事を召し上がらなければ、お体も良くなりません。少しでも構いませんので、どうかお召し上がりください」
「……そうね、わたしにはまだ、やるべきことがあるものね」
 私は己の失言に気付き、深く後悔しました。お嬢様自身お辛いはずなのに、私はその苦痛を暗に強要してしまったのです。
 唇を引き結びながらスープを彼女の口へ運びます。一口ずつ時間を掛け、味の無い液体をゆっくり飲み下してゆくのです。私のことを気にかけてくださっているのか時々申し訳なさそうに眉を下げるので、その度に胸の痛みが増すのです。
 私とお嬢様の間に会話はありません。振り子時計の音だけが暗い室内に響いていました。
 お食事を終えた後も、お嬢様は体調が優れないご様子でした。未だ後悔が後を引き、「ありがとう、美味しかったわ」と仰るお嬢様のお顔をまともに見ることができませんでした。
「それじゃあ」
 お嬢様は細枝のような腕を持ち上げ、後ろ髪へ手を添えます。
「次はこちらをお願い」
「畏まりました」
 食器を下げ、彼女の背後へ回ります。そこにあるのは一台の機織り機。椅子に腰を落とし、作業の準備を始めます。
「どう? 今日もちゃんと伸びてる? 自分じゃ確認できなくて」
 お嬢様の不安そうな口調。気付けば奥歯を噛み締めていました。
「ご安心ください。ちゃんと伸びています。今日も大変美しい御髪ですよ」
「そう、良かった」
 安心されたからか、お嬢様はそれきり口を開きませんでした。
 静謐に満ちた空間に、機織りの単調なリズムが響きます。用いる糸はウールやリネン、シルクなどの一般的なものではありません。お嬢様の長く伸びた髪を織り込んでいくのです。白く、細く、清らかな一本一本の髪が緻密に重なり、やがて一枚の生地となる。この世のどの生地よりも美しく、そして価値のあるもの。人々はこれを祝福などと呼びますが、一体これのどこに祝福があるというのでしょう。
 私は知っています。まだ髪が黒く、お嬢様が活気に満ち溢れていたあの頃を。
 当時からお嬢様は美しく聡明で、気高く、そして私の言葉にも耳を傾けられるお優しい方でした。そんな彼女とこれまで数多くの体験を共有し、喜びを分かち合ってきました。身分の差はありますが、家族を持たない私にとって、お嬢様は姉のような存在だったのです。
 幸せでした。お嬢様のお世話をし、ご命令を聞き、彼女の為となれることが。今思えば、この時の幸福こそが天から授かった祝福だったのかもしれません。そして、当時の私は子供でした。この幸せが一時のものではなく、永遠に続いていくものだと信じて疑わなかったのです。

 私たちに転機が訪れたのは、お嬢様の使用人になってから二年後のことでした。それまで美しい黒色だったお嬢様の髪から次第に色が抜け始め、光を放つ銀髪となったのです。『綺麗でしょ』と自慢げに髪を靡かせる彼女に対し、私は尋ねずにはいられませんでした。
『お嬢様、その髪はどうされたのですか?』
『お父様がね、私を一人前のレディとして認めてくださったの。私だってもう十二だものね。そのお祝いとして、この髪をいただいたのよ』
 お嬢様の言葉の意味を当時は理解できず、私も初めは彼女の銀髪を賞賛しておりました。ですがこれが呪いの始まりであることに、やがて気づくことになるのです。
 黒髪の頃は、散髪は月に一度の頻度で行っていました。ですが銀髪となった途端、髪の伸びる速さが尋常ではなくなったのです。初めは一日に十センチ程度伸び、一週間後には日に五十センチは伸びるようになりました。それからも髪の伸びる速さは増してゆき、一月も経つ頃には日に五メートル以上伸びるようになったのです。戸惑う私に対して、旦那様はこう仰いました。お嬢様の髪を織り込んで生地を作れ、と。このお屋敷の生業が機織りであることの意味を、ようやく理解できた瞬間でした。
 その日から私は機織り機を与えられ、お嬢様は屋敷の最奥に閉じ込められ自由を奪われました。一筋の光すら届かない屋敷の最奥に囚われたにも関わらず、お嬢様は将来に悲観することはありませんでした。その理由について一度だけ訊ねたことがあります。お嬢様はただ一言『それが、私の生きる意味だもの』とだけ返したのです。
 時間が流れていきました。日射しの感触や風の香りに変化を感じることで季節の移ろいを実感できる私と違い、お嬢様はどうでしょう。あの部屋から出ることは叶わず、どれだけの時間が過ぎたか知る由はないのです。お嬢様の感じた一年間は私の感覚より遥かに長いものだったでしょう。
 お嬢様はすっかりやつれてしまわれました。初めは軽い運動などされておりましたが、今では腕を動かす気力すら湧かないようで、一日中ソファの上でぐったりとされています。それでもなお髪は美しく伸び続けます。お嬢様から血肉を吸い上げ、まるで寄生虫か何かのように成長し続けるのです。
 彼女の痛々しいお姿は見るに堪えません。もう伸びないでほしい、お嬢様を苦しませないでほしい。叶わない願いを唱え続ける日々が続きました。
 全てはあの日から始まった呪いのせいなのです。あの銀の髪は決して祝福などではありません。そう呼ぶことなどあってはならないのです。あれは醜悪なる呪い。お嬢様の体を蝕み殺す、唾棄すべき人の業なのですから。
 本来であれば今頃、彼女は美しく気高いご令嬢となられるはずでした。私が誇り、彼女自身もご自分に胸を張れる、そんなお方になられるはずだったのです。しかし現実はどうでしょう。目も当てられないほどやせ細り、今や気力や生気が微塵も感じられません。全てはこの髪が悪いのです。お嬢様の全てを吸い尽くし醜く成長し続けるこの髪が、私は憎くて堪らないのです。そして私が何よりも悔しいのは、お嬢様自身がこの現状を受け入れていること。お嬢様が弱音の一つでも零してくださるなら、私は彼女のため、誰を相手にしても立ち向かう勇気があるというのに。

「あのね」
 機を織る手がぴたりと止まりました。顔を上げますと、こちらを振り向こうとしたのか、お嬢様の頭が少し傾いていました。
「わたし、今度結婚するの」
「……え……?」
 私は自分の耳を疑いました。結婚と、彼女は仰ったのでしょうか。だとしたら前後の文脈が全く掴めません。頭が混乱して言葉を見つけられずにいると、お嬢様は蚊の鳴くような声で続けました。
「わたしも、ほら、そろそろいい年だから。お相手は三つ上の方で、良家の生まれだそうよ。とてもしっかりした方で――」
「おおお待ちくださいお嬢様! け、結婚なんて、あまりにも急なお話じゃないですか! どうしてそんな――」
「昨日ね、お姉様が亡くなったらしいの。子供は、一人しか、産めなかったって。あなたが外へ出ている間にお父様と話したのだけれど、お父様、とても悲しそうにしてた」
 旦那様が、どうしたと言うのですか。体を蝕まれた現状も、望まぬ結婚も、全て旦那様のために受け入れるとでも言うつもりなのですか。そのようなこと、到底受け入れられるはずがありません。お嬢様、貴女はただ都合の良いように利用されているだけなのだと、ご自分の状況から理解できるはずです。お姉様が亡くなられたと仰いましたが、何故葬儀に呼ばれていないのですか。身内の死を口頭で伝えるだけなんておかしいじゃないですか。
 きっとお姉様は無残に捨てられたのです。利用されるだけ利用され、呪いの髪に体の全てを吸い尽くされたのです。このような扱い、とても人間に対するものではありません。ただの家畜、いいえ、虫も同然です。その扱いを実の娘にするという異常性をお嬢様はご理解されていないのですか? でなければ、血の繋がりなどという軽薄な理由一つで、ここまで自分を犠牲にすることなどできるはずがありません。
「子供は何人がいいかしら。わたしは三人姉妹だから、それ以上は欲しいわ。頑張れるかしら」
 お嬢様がご自分のお腹をさすり、浮ついた口調で笑いました。もう何年も見ていない彼女の嬉しそうな様子に、嫌悪が喉奥からせり上がるのを感じました。
 お嬢様はきっと、壊れてしまったのです。とうの昔から、ひょっとすると、この家に生まれた時から。お嬢様は身も心もすっかり手放し、今では籠の中の虫として生きることを望まれています。このような無様な主をどのように誇れというのでしょう。
 ……いえ、それは違いますね。私自身が手放したのです。かつての私が誇り、愛し、尊敬した主を。私が自らの意思で行動を起こしたならば、旦那様からお嬢様を守ることができたかもしれません。もしかすると、行動次第でこの忌まわしい呪いを断つことも叶ったかもしれないのに。
 過ぎた時間は戻らない。失ったものは帰らない。これまで取り零してきたものを今更必死になって掻き集めても、出来上がるのは歪で醜い後悔だけ。
 お嬢様の生き様を虫と例えるならば、結局は私もお嬢様と同じなのだと気付きました。お嬢様が旦那様の言葉に従うように、私も主の言葉に従うだけで、疑いを抱いても行動することを知らなかった。自ら動き欲しいものに手を伸ばさなかった私は、一生地面を這いつくばる芋虫も同然なのです。
 お嬢様、やっと理解することができました。貴女のために何ができるのか。ようやく自ら考え、答えを見つけることができたのです。
 目蓋を閉じ思い浮かべるのは、眩しく輝き、高貴で、私が祝福するかつてのお嬢様の姿。これ以上彼女の尊厳を踏みにじる行為を見過ごすことなどできません。
 静かに立ち上がり、お嬢様へ背後から歩み寄ります。途中、テーブルに置かれた散髪用のハサミを取って。
 ソファを挟んでお嬢様の背後に立ち、左手で白い頬へ触れます。しんと冷えた感触。お嬢様がのそりと顔を上げ、私と目が合いました。
「ふふふ、あなたも、わたしたちの結婚と子供のこと、祝福してくれるでしょう? これまでもそうだったように」
「いいえ」
 私はにこりと微笑みを返し、左手で彼女の目を隠しました。そして、右手に持ったハサミの先端を彼女の喉元へ突きつけ、返事を続けます。
「祝福などしません。お嬢様のご結婚も、お子様も、この髪も。醜い呪いに従うこの家の全てに。お嬢様、申し訳ありません。もっと早くこうするべきでした」
「……そう」
 右腕に力を入れる瞬間、お嬢様の口許が微かな笑みを浮かべました。

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